憧れの場所と、やってきた少女 1
事の発端は二週間ほど前に遡る。
夏休みが終わり、二学期が始まってしばらく経ったある日のこと。はるかは帰りのホームルームで、担任の乃木坂真穂から呼び出しを受けた。
「小鳥遊さん。相談したいことがあるから、この後ちょっと付き合ってくれる?」
それはちょうど、実家からある荷物が届いた翌日のことだった。放課後になったらまず寮へ荷物を取りに行って、それから『ノワール』へ行って、今日はどっちを着ようか……などと浮かれていた矢先だったので、はるかは大いに驚いた。
真穂から呼び出しを受けるのは非常に珍しい。素直に了解したものの、何の話かわからず首を傾げる。それははるかの友人である一ノ瀬飛鳥や間宮昴も一緒のようで、二人はホームルームが終わると真っ直ぐはるかの元へやってきた。
「はるかさん、何かあったんですか?」
「ううん。特に思いつかないんだけど……」
「だよね。二学期始まってからは何もなかったし」
三人で顔を見合わせてみてもやはり思い当たることはない。とりあえず、飛鳥達には先に部活へ行ってもらうようお願いして、一人で真穂の所へ赴く。
「もし、先生に変なこと言われたらちゃんと断るんだよ」
「うん。ありがとう、飛鳥ちゃん」
飛鳥の言葉はやや大袈裟だったが、その理由には思い当たるものがあるので何も言わない。
(体育祭の時の件はもう終わったはずだから、関係ないと思うけど)
念のため用心しておこう。
「お待たせしました」
「うん。じゃあ、ちょっと生徒指導室に行こうか」
鞄を持って教壇の傍へ行くと、真穂からそう告げられた。
生徒指導室、ということは割と大事な話なのだろうか。少し不安になっていると、真穂が笑って手を振った。
「大丈夫。別にお説教とかじゃないから」
初めて入った生徒指導室は、簡素な狭い部屋だった。二人掛けのテーブルに向かい合って座ると、真穂がゆっくりと口を開く。
「ごめんね、突然時間もらっちゃって」
「あ、いえ。それは全然大丈夫です」
はるかは首を振り、そのうえで真穂に尋ねる。
「それで、お話っていうのは?」
急かすつもりはないが、ここで焦らされると気になって仕方ない。
「あ、うん」
すると真穂は頷き、何かを躊躇うような表情を浮かべる。意味深な態度に、はるかは深呼吸をして続く言葉を待った。
「実はね。今、学校側でちょっとした企画が持ち上がってて」
「企画、ですか?」
飛び出してきたのは予想外のフレーズだった。
「そう。学園が持つ二つの高校――本校と分校の交流のための企画なんだけど」
まず、本校と分校からそれぞれ代表を選出する。代表となった生徒は一定期間、相手の学校に通って向こうの生徒と交流する。交流の様子は後日レポートとしてまとめて提出し、十一月の文化祭で発表する、という趣旨の企画らしい。
「その企画の代表として、小鳥遊さんの名前が挙がってるの」
「それって、つまり……」
そこで言葉を切って、もう一度深呼吸をする。
先程までとは別の意味で気が急くのを抑えながら呟く。
「私が本校に通える、ってことですか?」
解釈は間違っていないだろうか。
もし勘違いだったら恥ずかしいし、またぬか喜びはダメージが大きい。そう思いながら恐る恐る口にした言葉は、幸い真穂が肯定してくれた。
「そういうこと。この話を受ければ、少しの間だけね」
それを聞いた途端、とくんと胸が高鳴った。
本校に通える。
かつて姉の深空が通っていた学校、小さい頃に憧れた学校に、通える。
とっくに諦めたはずだった夢を叶えられる。
そう思ったら胸の奥から色々な感情が溢れてきて、不意に視界が滲んだ。
(いけない)
はるかはそっと息を吐くと、目の端に溜まった涙を拭う。
あらためて真穂の方を見ると、彼女は苦笑いを浮かべてはるかを見ていた。恥ずかしさから顔が赤くなり、同時に少しだけ気持ちが落ち着いた。
「期間はどれくらいなんですか?」
「二週間。十月の初めから、二週目の終わりまでの予定」
なるほど。短くはないが、決して長期間というわけでもない。学校生活を体験するという意味で考えれば十分な時間だろう。
何より、これはきっと、はるかにとって二度とないチャンスだ。
「……でも、こんな大事な話を、どうして私に?」
学校の代表という観点から考えれば、もっと他に良い人材がいそうなものだ。
(昴とか、香坂先輩とか)
親しい人物の中から何人かの顔を思い浮かべていると、真穂がため息をついた。
「学校側の考える条件に合致するのが小鳥遊さんだったみたい」
まず、本校は女子校なので男子は無条件で候補から外れる。
また、通学の手間を考えると電車通学が可能な生徒が望ましい。
更に生活態度や成績などを考慮した結果、はるかが候補に挙がったらしい。
「ほら。小鳥遊さんは一般入試で……落ちてるでしょ。けど、中間と期末では十分な成績を取ってるから」
入学後に大きく成績を上げたことが、分校の良さを伝える意味でプラスに評価されたとか。確かにそこまで考えると候補者はかなり絞られそうだ。
(でも……それって)
話が入学の経緯に及んだことで、はるかは一つの懸念を思い浮かべる。
入試で落ちているのに、はるかがここに居られる理由。
「特待生が代表になるのって、大丈夫なんでしょうか」
はるかを含めた特待生は皆、学校側から個別の「設定」を与えられている。この設定は基本的に他者に明かしてはならないが、普段とは違う場所でうまく秘密を守りきれるものだろうか。
特にはるかの場合、もし設定が露見すれば大騒ぎになってしまう。
「私もそう思うんだけどね。一学期の間、問題なかったから大丈夫だろうって」
「そう、ですか」
そっと真穂の表情を窺うと、ある程度は納得しているように見えた。特待生制度に否定的な彼女がそう思っているなら、多少は安心できるかもしれない。
「でも、強制じゃないから断っても大丈夫。というより、もしも不安があるのならそうした方がいいと思う」
はるかが断った場合は生徒から広く希望を募り数名を選出するそうだ。
「わかりました。少し、考えさせて貰ってもいいですか?」
「もちろん。数日中に決めてくれれば大丈夫だから」
真穂との話し合いを終え、生徒指導室を出たはるかは、その足で『ノワール』へ向かった。
吹奏楽部の演奏を遠くに聞きながら歩き、見慣れた扉を開くと、いつもの面々に出迎えられた。どうやら今のところお客さんは来ていないようだ。
「こんにちは、はるかちゃん」
「やあ、小鳥遊さん」
「こんにちは、由貴先輩、香坂先輩」
メイド服を纏った由貴と、いつもの席に腰かけた圭一が微笑んでくれる。タキシードに着替えた飛鳥と、こちらは制服姿のままの昴も定位置からはるかを振り返った。
「はるか、先生の話ってなんだったの?」
「えっとね」
興味津々といった様子の彼女達に応えつつ、はるかは自分の席まで移動した。早く話を始めた方が良さそうなので、着替えは後にして制服のまま腰かける。
由貴が席を立って紅茶を淹れてくれたので、それを待ってから要点を話した。
「……というわけで、本校に行けるチャンスみたいで」
「それ、凄くいい話じゃん!」
話を終えると、すぐに飛鳥が声を上げた。昴もほっと息を吐いて微笑む。
「何かあったわけではなくて良かったです」
「うん」
そんな二人に、はるかは微笑んで頷いた。心配が杞憂だったのも、真穂から打診された話自体もとても嬉しい。
「学校交流か。去年は確かそういうのは無かったな」
「分校も設立から五年目ですし、運営が安定してきた証拠かもしれませんね」
一方で、圭一達は企画自体の内容について言及する。
「それで、はるかちゃん。そのお話は受けるんですか?」
由貴に問われて、はるかは少しだけ返答に迷った。
「できれば行きたい、とは思うんですけど。ちょっと迷ってます」
「あれ、そうなんだ。あたし、はるかはもう行くつもりなのかと思った」
飛鳥が不思議そうに呟く。ついでに視線を向けられて、はるかは苦笑する。
『ノワール』の面々の中でも一番、付き合いの深い彼女の指摘は割と当たっている。実際「本校に行ける」と思った瞬間は凄く胸が高鳴った。
不安や懸念が何も無かったら、多分、何がなんでも行こうとしたと思う。
「でも、たった二週間でも別の学校に通うのって大変でしょ? その間は皆とも会えなくなっちゃうし」
特待生関連の話はここでは出来ないので、ややオブラートに包んで答える。けれど、これもまた不安の一つだ。飛鳥達のいない場所で学校生活を送るのはちょっと心細い。
はるかの発言に由貴も頷く。
「授業の進み具合も違うかもしれませんし。十月からだと、ちょうど文化祭の出し物を決める時期に不在になってしまいますね」
現状、分校の授業には付いていけているが、教え方や進度の違いに混乱する可能性はある。また、文化祭の初動段階に不在となるとモチベーションの低下に繋がりかねない。
「二週間、はるかさんとお会いできないのは……寂しいですね」
昴もまた小さく呟いて、表情を僅かに曇らせた。飛鳥もうーんと唸って黙り込む。決して深刻な問題ではないものの、考え始めると悩ましい。はるか自身、本校に行きたい気持ちと不安で心が揺れ、まだどうにも決めかねている。
「なんか、衣装の話をする感じじゃなくなっちゃったね」
微妙な沈黙の中、飛鳥がぽつりと言った。
「あ……うん、そうだね」
はるかが答えると、それを聞いた圭一が訝しげな表情を浮かべる。
「衣装?」
「あ、はい。私、夏休み中にメイド喫茶でアルバイトをしてたんですけど」
「そういえば、海に行った時にそう言ってましたね」
それがちょうどいい話題転換になったのか、皆が話に乗ってくる。結局、現物は持ってこなかったのだが、このまま話してしまおうか。
「その時の制服が『ノワール』のものと一緒だったので買い取らせて貰ったんです。その後、クリーニングに出してたのが昨日届いて」
飛鳥にも衣装を見てもらったり、バイト先での思い出を話したりしつつ、とりあえず『ノワール』に持っていこうと決めたのが昨晩のこと。
由貴達に説明がてら、更衣室に置かせて貰おうと思っていたのだが。
「その前に乃木坂先生からお話があったので、持ってくるのはまたにしようかと」
もし、しばらく本校に通うとなると『ノワール』での接客もお休みになるので、二着目を下ろさない方がいいと思ったのもある。
「へえ。同じメイド服か。ちなみに店の名前を聞いてもいいかい?」
「はい。『café Blanche』っていうお店です」
ふむ、と圭一が小さく息を吐く。その横で由貴がくすりと笑った。
「面白い偶然もあるものですね」
その後は、そのままはるかの衣装についての話題が続いた。いっそはるかがこれまで来ていた服は昴に譲ろうか、という話も出たが、それは恥ずかしがった昴に断固拒否された。
夕方になると部活帰りの司が友人たちと顔を出したので、彼女達をもてなした。
生徒交流の件はいつの間にか有耶無耶になったが、部活の終了時に由貴がそっと言ってくれた。
「いずれにせよ悪い話ではないんですし、最終的にははるかちゃんがしたいようにすればいいと思いますよ」
「ありがとうございます、由貴先輩」
それから寮に戻ると食堂で夕食を摂り、部屋で宿題やシャワーも終えた。
「……それで、はるか。どうするの?」
「ん……そうだね」
いつもの就寝時間が近づいた頃、はるかは小さな照明だけを灯した部屋で飛鳥と向かい合った。
軽く息を吸い、部活の後もぐるぐると考え続けたあれこれを整理して。
ゆっくり口を開くと、飛鳥に結論を伝える。
「私、やっぱり本校に行ってみたい」
何度考えても最後はそこに行きついた。
危険も理解できるし、皆と離れる不安だってある。けれどどうしても捨てきれない。
どうすべきかじゃなくて、どうしたいか。
自分の気持ちを優先して考えたら他の選択肢は考えられない。
もしかしたら本当は、最初から想いは決まっていたのかもしれない。
簡単に諦められるなら、きっと今この場にだって居なかったに違いないのだから。
「ほら、やっぱりあたしの思った通りだった」
飛鳥がふっと笑ってそう言った。
ゆっくりと彼女の手が伸びてきて、はるかの右手を握る。
「はるかの夢だったんでしょ? だったら行ってきた方が絶対にいいよ」
「……うん」
はるかは頷いて、空いた左手を飛鳥の手に重ねた。
「ありがとう、飛鳥ちゃん」
静かな部屋の中で、二人はそっと微笑みあった。




