小鳥遊はるか:久しぶりと初めて 前編
小鳥遊はるかの帰郷は、飛鳥や昴に比べるとごくあっさりしたものだった。
東京駅から新幹線ではなく急行に乗って吊革に捕まることしばし。途中駅で一度乗り換え、辿り着いた最寄駅から外へ出たのは、まだ夕方と言っていい時刻だった。
ふう、と軽く息をついて見上げれば、見慣れた駅前の風景がある。小さい頃はもっと地味だった記憶があるが、少しずつ開発が進み、今ではだいぶお洒落な感じになった。
すべてが昔のままとはいかないが、この街は変わらずはるかの故郷だ。
(えっと、着いたら連絡しろって言われてたっけ)
邪魔にならない端に寄ってスマートフォンを取り出すと、久しぶりに自宅の番号をコールする。コール音を数回聞いたところで、母が電話に出た。
「あ、お母さん? うん、私。今駅に着いたから、これから帰るね。……あ、ううん。大丈夫。歩いて帰れるから。うん、ご飯はお家で食べる」
迎えに行こうかという提案は断り、その他いくつか言葉を交わして電話を切った。荷物もそんなに多くないし、体力にも余裕がある。夕食時も近いので母も忙しいだろうし。
「よしっ」
再び荷物を持ち直すと、はるかは自宅に向けて歩き出した。
時折、周囲の景色を眺めながらゆっくりと歩いて、そのうちに自宅へと辿り着いた。
駅から十五分ちょっとの距離にある五階建てのマンション、その一階の一室がはるかが一家四人で住む家だ。もっとも、姉の深空はスケジュールが不定期な仕事をしているため、忙しい時は家に帰らないことも多いが。
(久しぶりだなあ、家に帰ってくるの)
荷物から鍵を取り出して錠前に通し、ひねる。小さな金属音と共に鍵が開いたのを確認してからレバーを握り、扉をゆっくりと開いた。
「ただいまー」
「お帰りなさい!」
そうして中に入――ろうと一歩踏み込んだところで、すぐ近くから朗らかな声がした。ぎょっとしつつ、とりあえず後ろ手にドアを閉めて顔を上げると、そこへ一人の女性が飛び込んできた。
「はーるか、久しぶりー。元気だった?」
反射的に抱き留めたはるかを更に自分から抱きしめ、あまつさえ頬ずりまでしてくる彼女に、はるかは見覚えがあった。それも、ものすごく。
「姉さん、家にいたんだ」
そう。はるかの姉、小鳥遊深空である。特に根拠もなく居ないものだと思っていたのだが、どうやら予想は外れたらしい。今日はオフだったのか、それとももう仕事は終わったのだろうか。
ふわふわしたセミロングの髪を下ろし、半袖シャツにショートパンツという部屋着を身に着けた彼女は、至近距離から笑顔を送ってくる。
更に、はるかと目を合わせたまま口を開くと。
「お姉ちゃん」
「え」
「お姉ちゃん、でしょ?」
そう言って、両手をはるかの耳辺りに這わせた。こそばゆい感覚に思わずびくりとするが、一瞬の後、はるかは姉の意図がセクハラめいたスキンシップでないことを理解する。
これは単に頭の向きを固定しようとしているだけだ。視線を逸らしたり、無理矢理引きはがしたりできないように。
(うん、ちょっと私が迂闊だった、かな)
観念して、謝罪と共に姉が希望した呼び方であらためて言い直した。
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
「はい、よくできました」
すると深空は満足そうに頷き、はるかの頭にそっと右手を伸ばしてくる。
そのまま優しく頭を撫でられ、はるかはされるがまま小さく声を漏らした。
「あぅ……」
気持ちいい。姉の手が優しく慈しむようにゆっくりと動き、そのたびに幸福感が胸に溢れる。同時に少し気恥ずかしさもあるが、それでも止めて欲しいとは思わない。
「さらさらだね。ちゃんと手入れしてるんだ、えらいえらい」
囁くような声にくすぐられて、身体がぴくりと震えた。
殆ど子供あつかいなのに不思議と嫌じゃない。
それもそのはず。はるかと深空は昔からこんな感じだった。歳の離れた姉弟として、はるかは小さい頃から姉に溺愛されていた。そのためはるかも深空に懐き、それ以来、二人は当時の延長線上にある。
お姉ちゃん、というのも当時の呼び名だ。ただ小学校高学年頃からは恥ずかしくて「姉さん」と呼んでいたのだが、最近になって昔の呼称が復活した。普段と女装時で言葉遣いを分けるため、女装時は昔の呼び方に戻したのだ。すると深空はそれを気に入り、妹モードのはるかが「姉さん」と言うとむっとする。
はるかとしてもそんな姉の反応がなんとなく嬉しくて、言い間違えた時は素直に謝るように心がけている。
「髪、ずっと伸ばしてみてるんだけど、どう?」
「似合ってるよ。さすが私の可愛い妹」
「ありがとう、お姉ちゃん」
妹、という深空の言葉にくすりと笑ってお礼を言う。
分校への入学を相談した際、一番最初に折れたのが彼女だったように、深空は基本的にはるかのやりたいことを尊重してくれる。
彼女の協力がなければ、こうして「女の子」をすることもできなかったかもしれない。
「お陰でなんとか、一学期が終わりました」
微笑んでそう告げると、深空もまた同じように笑顔を返してくれた。
「ん。でも、それはお母さんたちにも言ってあげよう?」
「あ、うん。そうだね」
頷いて照れ笑いを浮かべる。と、そこでタイミングを見計らったように、廊下の向こうから母が顔を出した。
「二人とも。玄関で話してないで落ち着いたら?」
その声にはるか達は顔を見合わせて、同時に明るく返事をした。
「はーい」
密着したままだった身体を離して、深空はそのままリビングへ。はるかは荷物を置くために一度自分の部屋へ移動した。
はるかの部屋は深空とは別々だ。面積としては寮の部屋より少し狭い程度で、部屋の北側に、マンションの通路に面して大きな窓がある。なお、内装については去年の終わり頃に大幅に模様替えを行い、カーテンやベッドカバー、掛布団などは淡く明るい色合いのものに統一されていた。
さすがに勉強机や各種小物までは変えられず、以前から愛用する黒や茶色の品がそのままだが、全体としては中性的かやや女の子よりに纏まっている。模様替えをしてしばらく――というか割と入学直前まではこの内装が落ち着かなかったのだが、今はなんだかほっとした。
「さて」
とりあえず荷物は置いたので、荷解きは後回しにして居間へ行く。すると途中にある台所に、鍋で何かを煮込む母の姿があった。蓋が閉じているので中身は見えないが、傍らにルーの箱が置かれている。
「ビーフシチューだ」
「正解。もうすぐ出来るから、座って待ってて」
「うん」
既に食事の支度はほぼ完了していて手伝えることもなさそうなので、はるかは素直にその言葉に従った。居間の自分の席へ座って待つ。
やがて父親も帰ってきたので夕食は四人で食べた。
寮でのことや勉強の様子、部活動など、はるかは聞かれるままに一学期の思い出を話した。また、両親や姉も最近あったことを色々話してくれた。島に着いて早々に正体がバレたことを話すと心配されたが、その後はちゃんとやれていることを話すと皆は安心してくれた。
そうして食事も終わると、はるかはお風呂に入った。最初に入っていいと両親が言ってくれたので、お言葉に甘えて一番風呂だ。
脱衣所で裸になって浴室へ入ると、懐かしい空間が目に入る。入学前までは毎日のように使っていた場所だが、あらためて見るとその広さに驚いた。
(というか、寮のシャワーが狭かったんだけど)
寮のシャワールームと違い座って使えるのも嬉しい。立ったままだと落ち着いて身体を洗いづらいので、こういうお風呂場の方がはるかは好きだ。
丁寧に髪と身体を洗ったら、いよいよ湯船に入る。
まずは足先からゆっくりとお湯に沈める。それから胸元までつかると、お湯に包まれる感触と共に暖かさが身体に伝わってくる。
「ふぅ……」
お湯の中に入っているだけなのに、何でこんなに気持ちいいのだろう。
海外では湯船につかる文化は少ないとか聞いたことがあるけれど、日本人で良かったと心から思う。
家族に悪いと思いながらもついつい長めに入浴して、上がった時には身体はぽかぽかになっていた。
「気持ち良かった……」
手早く身体を拭き、下着とパジャマを身に着けたらドライヤーを持って脱衣所を出る。と、そこを深空に呼び止められた。
「はるか」
「なあに、お姉ちゃん?」
「これ、良かったら使わない?」
そう言って姉が差し出してきたのはサイズとデザインの違うボトルが二本だった。表面の文字を読んでみると、それが保湿用の化粧水とクリームだとわかった。
「私に?」
「うん。面倒だったらいいけど、お風呂から出てすぐやると結構効果あると思う」
「へえ、そういえば気にしてなかったな……」
毛の処理や洗顔に関しては必須事項として覚えたが、そこまでは姉や母からも教わらなかったし、自分でも情報を集めていなかった。飛鳥はやっていないが、そういえばクラスにもそんなことを話している子がいた気がする。
「あの時点でそこまで教えたらパンクしちゃってたでしょ。でも、今なら平気かなって」
確かに。女装の練習をしていた頃は何もかも手探りなうえ、教えられたことを覚えるので精一杯だった。けれど、当時の練習項目がある程度身に着いた今なら別だ。
「ありがとう、お姉ちゃん。使ってみる」
はるかはボトルを受け取ると微笑んだ。
「よろしい。じゃ、さっさと始めちゃいなさい。お父さん達に順番は伝えてくるから」
「うん」
素直に頷いて、はるかは部屋に戻るとさっそく風呂上がりのケアに取り組んだ。拙いなりに手早く終わらせ、それから髪を乾かした。
洗面所にドライヤーを返してふと時刻を気にすれば、もう結構な時間が経っていた。適当に髪と身体を洗って終わりだった頃と比べると二倍以上だ。
「女の子」をしていると時間の経過が早い。
それは良いとか悪いとかじゃなくて、単に「男の子」とは違うということで。
はるかとしてはこれはこれで楽しいのだけれど、それはそうと荷解きは今日のうちにしてしまいたい。
そう思い、持ってきた荷物や送った荷物から衣類やらを取り出して整理する。
「はーるか、そういえばお土産とかないの?」
あらかた荷解きが終わった頃、姉が部屋に顔を出した。服装がパジャマに変わっているので入浴済みなのは分かったが、自分は肌ケアとか済ませたのだろうか。
じっと肌を見つめてもそこまではわからない。柔らかくて張りがあるのはわかったが。
「ふふっ」
視線に気づいた深空に含み笑いをされてしまった。咎められたわけではないが、気まずい。
「え、えっと。お土産だっけ。一応、さっき渡したのがそうなんだけど」
お土産としては東京駅でお菓子を買っていた。それは食事の席で両親に渡しており、さっそく開封されて食後のお茶請けになった。
だから深空も当然それは口にしているのだが、
「そうじゃなくて、もっとこう、さ」
「といっても……あの島は観光地じゃないから」
一応、帰郷する生徒向けにお土産を販売している店もあったが、特別記念になりそうな品はなかったので断念したのだ。
しかし姉はその言葉にも首を振る。
「そういうのでもなくて。写真とか、恋の話とか。思い出系の」
「え」
わくわくした声でねだられたのは、少々予想外な内容だった。
(恋の話……はちょっとできないかな)
あるにはあるが、はるか自身の経験は未遂というか本当に恋話? という感じだし、他人様の話を勝手にするのもまずいだろう。
「あ、写真ならあるよ」
そこで思い付いてスマートフォンを取り出す。思い出になるような写真なら何度も撮ったし、それはきちんと保存してある。画像ファイルの一覧を表示して渡すと、深空は興味深げにスマホへと食いついた。
最初は悪戯をする時の飛鳥のような顔をしていた彼女だが、写真を一枚一枚めくるうちにだんだんとその表情は穏やかになっていった。
はるかのメイド服姿。
飛鳥のタキシード姿。
今日の朝撮った、三人一緒に並んだ写真。
その他何枚もの写真を見終えた深空は端末をはるかに返すと、その頭をぎゅっと抱きしめた。
「うん。本当に楽しくやれてるみたいだね。良かった」
「……うん」
大きくなってから姉の胸に抱かれた経験は殆ど無いが、不思議と胸の感触がどうとかは思わなかった。ただ、暖かさと安心する匂いに酔うように目を閉じる。
「で、どっちの子が本命なの?」
「な」
何をいきなり言い出すのか。
はるかは姉から離れると、声にならない声でそう主張した。
顔が真っ赤になるのを感じつつ呼吸を整えて、言う。
「二人とは友達だよ。本命とかそういうのじゃ」
(……たぶん)
四月に飛鳥から告白まがいのことをされた時のこと。
六月の、昴と敷島の騒動の時に感じた嫉妬心。
それらを思いだすと、強く主張はできないけれど。
「へー。でもその様子だと全然気にしてないわけじゃないんだ」
と考えていたら、思考が完全に筒抜けになっていた。
「ま、まあ……それは。だって、二人とも凄く可愛いし」
異性であることを意識しないようにしていても、ふとした表情やちょっとした接触にドキドキしてしまうことはよくある。
そのドキドキの「どこまで」が「どういう感情」かは微妙なところだ。
「なるほど。青春だねー」
はるかの返事を聞いた深空はそう言って頷いた。
幸い、彼女はそれ以上は追及してはこなかった。
その代わりに、首を傾げて言ってくる。
「あ、そうだ。話は変わるんだけど。もう一つ聞きたかったことがあったんだ」
「え? なに?」
「夏休みはどっちでいるつもりなのかなって。今のままか、それともお休みの日くらいは息抜きするつもり?」
「……ああ」
女装したまま夏を過ごすのか。それとも、たまには男の子モードに戻ってみるのか。
姉に指摘されたそれは、はるかもしばらく前から考えていたことだった。
特待生の設定は学外、休み中まで遵守する必要はない。寮や島内は関係者の目があるので演技を続けるしかないが、実家周辺ならトラブルが発生するリスクはかなり低い。
だから、夏休み中は女装を解いてもいいのだが。
「続けてないと不安なのもあるし、どうしようかなって思ってるんだ。少なくとも、高校の友達と会う時はこっちで出かけるけど」
逆に中学時代の友人と会う機会があれば、久しぶりに素で出かけることになるかもしれない。
「ん、そっか」
すると深空は満足そうな顔で笑って立ち上がった。どうやら満足してくれたらしい。
「じゃあさ。どっちでもいいから、時間が取れたらお出かけしようね」
そんなことを言って部屋を出て行った。
はるかの帰郷初日はそんな風に終わりを迎え。
その数日後、彼の元に旧友から遊びに誘うメールが届いた。




