一ノ瀬飛鳥:休暇の初めに 前編
不定期に更新再開します(後編は翌日投稿予定)。
七月二十一日、午前八時。
旅立ちの朝の天気は、幸いにも快晴だった。港に立つと気持ちのいい潮風が吹き抜け、髪をそっと撫でていく。学校の敷地が島の中央部にあるため普段はあまり感じない潮の香りを、今こそはと胸いっぱいに吸い込む。
「はーっ……夏だねえ」
呟いて、少女――一ノ瀬飛鳥は後ろを振り返り、そこにいる友人たちに笑いかけた。
「うん。もう、本格的に暑くなってきたよね」
すると、清楚な白いワンピースを纏い、麦わら帽子を被った小鳥遊はるかが顔を上げ、それに答えた。視線を落としていたのは、先程の風でワンピースの裾がはためくのを気にしていたようだ。
そんな彼女、もとい彼を、飛鳥は目を細めて眺める。
(うん、やっぱり似合ってる)
はるかが身につけているワンピースと帽子は先日、飛鳥が薦めた品だ。最初は冗談のつもりだったが、実際にはるかが試着すると非常に似合っていたので、つい本気でプッシュしてしまった。あいにく、はるかが好む長袖の服ではないのだが、周囲の視線を気にし、恥ずかしがる様子がまた可愛かったりする。
ちなみに飛鳥自身はノースリーブのシャツに薄手のデニムという、動きやすさ優先の服装だ。下手にはるか達と系統を揃えると劣等感に苛まれるので、あえて崩した感じ。
「夏はあまり好きではないのですが、こういう景色は悪くないですね」
そんな二人の傍、はるかの隣に立った間宮昴が海を見やり微笑む。持ち前の長い黒髪は季節柄、頭の後ろで束ね、それに合わせて吸湿素材のウェアにショートパンツで纏めている。以前の彼女ならまずありえなかったラフな格好だが、最近は時折こういう服装をすることがあった。
心変わりの理由を本人に尋ねると「飛鳥のアドバイスを参考にした結果」と言っていたが、たぶん本音は『ある人物』に色々な姿を見せたいからだろう。
「この島ともしばらくお別れだね」
「そうですね。少し名残惜しい気もします」
はるかと穏やかに言葉を交わす昴を見て、飛鳥は密かにくすりと笑う。
こういう昴の変化は、飛鳥にとっても好ましいものだ。はるかへのアプローチが強くなるのは複雑だが、気軽に色々言いあえる方がお互いやりやすい。
でないと、三人で仲良くしづらくなってしまうし。
「またすぐ会えるって。この島にも、みんなにもさ」
会話の合間を見て飛鳥が言うと、はるか達は笑顔で頷いてくれた。
「うん、そうだね。休み中ずっと離れ離れってわけでもないし」
「船の中でもご一緒できますしね」
そうして三人は誰ともなく、桟橋の方へと目をやる。
そこには大型の客船――これから飛鳥達が乗る、本土への船があった。
通常、一日二便運航している定期便と同型の船だが、あれは定期便ではなく臨時便だ。七月二十日の終業式に終えたその翌日、つまり今日は家に帰る生徒達の利用が集中するため、学園側が特別に手配したのだ。
実際、今こうしている間にも分校の生徒達が何人も船へ向かい歩いていく。とはいえ、中には寮に残る生徒や昨日の定期便で帰った生徒もいるので、生徒全員が乗るという訳でもないのだが。
(香坂先輩たちは、確か昨日帰ったんだよね)
気が早い者や実家が近い者などは案外、そうすることも多いらしい。三人の中だと都内に実家のあるはるかにもその選択肢があったが、彼はそれを選ばなかった。片や奈良県、片や東北と実家が遠い飛鳥、昴とせめて途中まで一緒に帰る事を優先してくれたのだ。
おかげで、飛鳥達は三人でこの場に立っている。
長いようで短かった一学期、その思い出の締めくくりとしては、これ以上はないだろう。
「そうだ、二人とも。写真撮ろうよ」
ついでにもう一つ、ここで思い出を残しておこう。
そう思って飛鳥がスマートフォンを取り出すと、はるか達もすぐに乗ってきた。
海をバックに、はるかを真ん中に据えて三人で並ぶ。そうして撮影した写真には背景こそあまり写らなかったものの、三人の笑顔は綺麗に収まった。
「じゃ、これは後で二人にも送るね」
「うん、ありがとう、飛鳥ちゃん」
「では、お二人とも。そろそろ……」
昴の声にスマホの時刻表示を確認すると、確かに出港時刻が近づいていた。飛鳥は頷き、荷物の中にスマホをしまい込んだ。
「そうだね、そろそろ行こっか」
その声を合図に、三人は荷物を手にし、並んで船へと歩き出した。
―――
臨時便に揺られること数時間、お喋りやら簡単な昼食やらで過ごすと、やがて本土の港へ辿り着いた。すると今度はここから、学園が用意したバスに乗り込み東京駅へ向かう。
駅に着いたら、はるかや昴とはそこで別れる。ここからは各自別のルートだ。
(むしろこっからが長いんだよねえ……)
数か月前の経験を思い出し、ちょっとげっそりする。そして実際、話し相手のいない孤独な旅は思った通り、妙に長く感じられた。
電車を乗り継ぎ、懐かしい街へやっと辿り着いたのはもう遅い時間だった。テスト前とか特別な場合を除き、普段なら眠っているような時間だ。
「さすがに疲れた……」
駅舎を出て夜空を見上げ、荷物を握り直すとどっと疲れがのしかかってきた。重い荷物は前もって送っておいて正解だったと思う。たぶん、重い荷物を持っていたら途中で疲れ果てていた。
「さて、もうひと頑張りしますか」
家に電話すれば親が車で迎えに来てくれるかもしれないが、飛鳥の両親は共働きで帰りも遅い。できれば負担をかけたくないし、まだ帰ってない可能性すらあるので素直に歩いて帰る。
歩きなれた道を十五分ほどかけて進むと、ようやく我が家へたどり着いた。
飛鳥の家は二階建ての一軒家だ。詐欺のように狭い庭の付いた、ごく一般的なサイズの住居。といっても、一戸建てなだけで十分恵まれているのだろうけど。
「誰もいない、ってことはないか」
見上げると、二階の部屋に明かりが灯っているのが見える。あれは妹の部屋だ。
(元気にしてるかなー)
思いつつ、玄関の前に立って荷物を探る。あれ、鍵どこへやったっけ。あ、あった。
がちゃりと扉を開けて中に入る。
「ただいまー……」
小さく言いつつ中の様子を窺うと、案の定、一階に電気は点いていなかった。靴はあるので、両親は既に就寝済みのようだ。まあ、明日も仕事だろうし起こさないでおこう。
飛鳥は玄関の戸締りをして、そっと二階へ移動した。
足音を殺して階段を上がると、すぐそこが妹の部屋だ。起きてるみたいだし、挨拶くらいはしておこうか。そう思ってノックしようとすると、当の妹がドアを開けて顔を出した。
「お帰り、姉さん」
「ん、ただいま。弥生」
にっこりと挨拶を返すと、彼女は何も言わず部屋の中へと身体を引っこめた。ドアが開いたままなので、入っていいという意思表示のようだ。招かれなければ自分から「入っていい?」と聞くつもりだったので、手間が省けた。
「お邪魔します」
部屋に入ってドアを閉め、内部を見回せば、妹の部屋は数か月前に見た時と大きな変化はなさそうだった。きちんと整理された勉強机に衣類の詰まったクローゼット、純文学からSFまで雑多な書籍が並ぶ本棚。強いて女の子っぽいのは、ベッドの上に一匹だけクマさんが鎮座している事くらいか。
「久しぶりー」
入り口あたりに荷物を置き、とりあえず挨拶がてらクマさんを抱きしめると、妹――弥生が呆れたようにため息をついた。クマさんに嫉妬しているのだろうか。
「その様子だと元気そうだね」
「弥生もね」
妹のジト目は特に気にせず、軽く返事をする。クマさんをベッドに戻して頭を撫でてから、飛鳥はあらためて弥生を見つめた。
一ノ瀬弥生。既に言った通り飛鳥の妹で、学年的には一つ下の中学三年生だ。割と適当|(自称・他称込み)な姉と違い真面目な性格をしており、趣味は読書。年下ながら身長と胸は飛鳥よりやや大きいが、身に着けた野暮ったい眼鏡が地味な印象を作っている。
飛鳥と弥生は、性格こそ違うものの仲は悪くない。と、少なくとも飛鳥は思っている。
「あ、お土産あるけど食べる?」
「いや、もう歯磨いたからいいよ」
ベッドの淵に(勝手に)腰かけつつ尋ねると、素っ気なく返された。けれど話をしてくれる気はあるようで、勉強机の椅子を引いて腰かけ、こっちを見てくる。
「で、学校はどう?」
「楽しいよ。友達もできたし」
「そっか」
何気なく投げかけられた質問に素直に答えると、弥生は頷いて黙り込んだ。どうしたのかと思ったら、しばらくしておずおずと尋ねてくる。
「彼女は? できたの?」
いきなりそこなんだ。
弥生の顔を見つめ返すと、彼女はにやりと笑う。してやったりという顔だ。
できるわけないよね、姉さんに。
言いたいのはそんな感じの事だろうか。見透かされてるようでちょっと癪に障る。
「できたよ」
なので敢えてそう言ってみる。すると、嘘を言うなという顔をされた。
「いや、冗談はいいから」
「本当だってば。ほら。この子」
スマホを取り出し、今日撮ったばかりの写真を見せて指で示す。
心底驚いたような顔をされた。
「え、このお嬢様っぽい人?」
どっちの事だ。いや、はるかを指さしたのでそっちなんだろうけど。
「嘘でしょ? こんな綺麗な人と」
「うん、嘘」
はるかを綺麗と言われて嬉しくなり、満面の笑顔で答えると弥生に掴みかかられた。放っておくと頭をがくがく揺さぶられそうなので、慌てて身を離す。
「ごめん、調子に乗りすぎたかも」
「本当だよ、もう」
弥生がため息をついて、椅子へと戻っていく。それから彼女はぽつりと呟いた。
「姉さんが『女好き』を演じるとか、結構心配してたんだけど。平気そうだね」
そう。弥生は私立清華学園分校における特待生の概要と、飛鳥の「設定」を知っている。なるべく他言無用というルールは外部の人間に話す場合は適用されないし(巡り巡って学校内に伝わらないよう注意は必要だが)、制度の特殊性から家族の協力が必要なので、入学前に話してあったのだ。
そういえば、弥生は飛鳥の高校生活について、前から割と真剣に心配してくれていた気がする。理由はまあ、中学生時代の飛鳥を近くで見ていたからだろう。
「あたしもそう思ってたんだけどねー。なんかこう、とんとん拍子に」
実際、今のところ飛鳥の生活は上手くいきすぎているくらいだ。まあ、彼女を作るところまで突き進めてはいないのだけれど。
(えへへー)
それもこれもはるかのおかげだ、と回想しつつにやけていると、再度弥生が口を開く。
「この二人が友達? 女の子同士で仲良くやれてるんだ」
「あ、うん。ヤレテルヨー」
「……え、何で途中から片言なの?」
ほっとしたように言われたので、嘘を吐くのに耐え切れなかったからです。
(や、まるきり嘘でもないけど)
いっそ弥生には話してしまった方がいいか、と飛鳥は真実を説明する決意を固めた。
「えっとね、さっき弥生が綺麗だって言った人なんだけど」
「うん」
「男の子なんだ」
今度は本当なのに、何故かぶん殴られた。
―――
翌朝、飛鳥はゆっくりと目覚めた。
久方ぶりの自分のベッドが心地よかったのと、旅の疲れが出たせいだ。起きてカーテンを開くと陽が高く昇っていて、かなり朝寝坊してしまったことがわかる。
もちろん、誰に咎められることもないのだが。だって夏休みだし。
とりあえずシャワーでも浴びようと、適当に着替えを見繕って一階へ降りる。
「おはよう、姉さん」
「おはよー」
するとリビングに弥生がいたので、ついでに挨拶を済ませた。なお、家の中に両親の気配はない。出勤時間はとっくに過ぎているので当たり前だが。
それから浴室でシャワーを浴びた。昨晩は着替えもせず寝てしまったのでしっかりと汗を流し、清潔な衣服を身に着けてリビングに戻る。
「朝ごはんどうしようかなー」
「テーブルの上に出てるよ」
「あ、ほんとだ。ラッキー」
しかも嬉しいことに主食はご飯だった。一ノ瀬家は家族全員ご飯派なので珍しくはないが、時間が無いとパンになる。なので、どちらが食卓に上るかは日による。
「……あの、姉さん」
ほくほくしながら朝食を食べていると、不意に弥生が声をかけてきた。
「ん?」
「昨日、見せてくれた写真の人って、本当に男の人なの?」
ああ、その話か。一応、あのあと説明もしたのだが、余程信じられなかったらしい。読んでいた文庫本から顔を上げて、じっと視線を送ってくる。
そんな弥生に、飛鳥は素っ気ない返事をした。
「そうだよ」
はるかの事情は既に伝えていたため、他に言いようがなかったのだ。
まさか「実際に裸も見たから間違いない」とか言う訳にもいかないし。
「……わかった、信じる」
しかし、軽く答えたのが逆に説得力があったのか。
弥生は頷き、それから深くため息をついた。
「それってさ、姉さんは男の人と同じ部屋で暮らしてるってことだよね」
「うん」
「辛くないの?」
問いかけてきた妹の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
飛鳥はそこから、質問に込められた言外の意図を感じる。
――男と一緒で嫌じゃないのかと、単に尋ねているのではなく。
――好きな人とずっと一緒にいるのに、友達のままなんて辛くないのかと。
同時に聞かれているのがわかったのだ。
「んー」
その上で、飛鳥は何と答えるべきか考えて、
「辛いっちゃ辛いけど、今はそれでいいかなって」
結局、素直に自分の思っていることを口にした。
すると弥生は黙って飛鳥の顔をじっと見つめ、やがて呟いた。
「姉さん、ちょっと変わったね」
「……そうかな?」
自分ではあまり自覚はないのだが。
付き合いの長い妹の言葉は、強い説得力を持って飛鳥の胸に響いた。
―――
(変わった、かあ……)
朝食を終えた一時間後、飛鳥は地元から三駅離れた街の駅前にいた。中学時代に仲が良かった友人と、久しぶりに会う約束をしていたからだ。
電車の都合で、着いたのは待ち合わせより少し早い時間だった。
まあ、とはいえ早すぎるという程でもなく。待ち合わせ場所で適当に待つ事にして。
その間、頭をよぎったのは先程、妹から言われた台詞についてだった。
(まあ、男の子の好みは間違いなく変わったんだけど……)
変わった、と言われてまず浮かんだのはそんな感想だった。
というかまず、あのはるかが対象に男の好みを論じていいのかが微妙だが。そのへんを棚上げにしても、性癖は確かに変わったと思う。
容姿だけで言えば、はるかは以前の飛鳥の趣味とはとても言えない。
可愛い系の男の子が悪いとは言わないが、彼はあまりにも男の子っぽさが無さすぎる。
じゃあどういうのが好みだったのかというと、まず思いだされるのは――。
「……ん?」
意味もなく人の往来を眺めていた目が、どこか見覚えのあるような姿を捉えた。
待ち合わせ相手ではない。いや、完全にそうでないわけでもないか。
「やほー、飛鳥」
彼女も確かに視線の先にいて、飛鳥に気づくと軽く手を挙げてきたのだから。
けれど、最初に飛鳥が気づいたのは彼女ではなく。
「……よう、一ノ瀬」
その隣に立ち、ぶっきらぼうに挨拶をしてきた少年の方だった。
「諒」
飛鳥の唇が、ひとりでに彼の名を紡ぎ出す。
かつてその名を何度も繰り返した記憶が、彼女にそうさせたのだ。
諒と呼ばれたその少年。彼こそが、先程飛鳥が思い出しかけた顔。
中学時代の飛鳥が、最も長く付き合った相手だった。




