純情少年と恋の手紙 1
六月八日、木曜日の朝。普段通り、余裕を持って目覚めたはるかは、
「ついに、後が無くなっちゃった……」
部屋の壁にかかったカレンダーを見つめながら、深いため息をついていた。十数分前に洗顔を終えてから、かれこれずっとこんな状態だった。
ふと自分の身体へ視線を落とせば、当然着衣はまだ可愛らしいパジャマのまま。
壁の物掛けに目をやると、ハンガーにかかった制服が二着、並んでいる。
そのうちの片方、二か月ちょっと付き合ってきた冬制服をじっと見つめて。
再度、視線をカレンダーに戻しかけたはるかに、背後から声が掛けられた。
「はるか。それ、いつまで続けるの?」
我に返って振り返れば、二段ベッドの上段で半身を起こした飛鳥が、こちらを半眼で見つめていた。当然、細められた目の理由は、寝起きだからではないだろう。
「いい加減、覚悟決めなよ」
珍しく、割と真面目に呆れた様子で、更にそう言ってくる。
そんな彼女に、はるかは苦笑を返す。
「うん。そうなんだけど……いざとなると踏ん切りがつかなくて」
「大丈夫だって。今更夏服になったくらいでどうにもならないよ」
更に飛鳥が言ってきたのは、ここ数日で何度か聞いたフレーズだった。
言われたはるかは、再度物掛けの方へ目をやる。冬服とは別に掛かっているもう一着の制服は、まだ試着したきりの真新しい夏服だ。
はるか達の通う私立清華学園分校では、夏服への衣替え期間を毎年、六月一日から一週間と規定している。移行期間中は冬服でも夏服でも構わなかったが、今日からは夏服に完全移行となる。つまり、今日からはるかは、ようやく馴染んできた冬服にしばしの別れを告げなくてはならないのだ。
それは個人的な心情から、はるかにとっては悩ましい事柄なのだが、とはいえ頑なに冬服を着続けるわけにもいかない。目立つし、何より暑い。
「……うん。そうだよね。いい加減、覚悟を決めるよ」
「ん、良く言いました」
やがて、はるかがようやく決心を付けると、それを聞いた飛鳥は満足そうに頷いた。
そうと決まれば、着替え自体はすぐ済んだ。まず着ていたパジャマを脱いで下着姿になり、あとはブラウスとリボン、夏用のスカートを身に着ければそれで完了だ。ブラウスは長袖でも構わないので、もちろんそっちにする。
「よし、っと」
ものの数分で着替えを終えると、はるかは自分の姿を鏡に映した。
上着が無くなったおかげか、夏服は全体的に白く、爽やかなイメージだった。はるかは学園の冬服が気に入っているが、夏服にもまた違った魅力がある。
「ね? ちゃんと可愛いでしょ」
同じく制服に着替えた飛鳥が、後ろからはるかの肩に手を乗せ、囁く。
「そうだね」
恥ずかしさから頬を僅かに染めながら、はるかは頷いた。
言われた通り、鏡の中のはるかは可愛らしい。
少し薄着になったくらいでバレたりは、きっとしないだろう。
―――
小鳥遊はるか。十五歳。彼は、東京近海の離島に設立された「私立清華学園分校」に今年入学したばかりの一年生だ。男である彼が何故、女子生徒として生活しているかといえば、それはこの学園が持つ独自の特待生制度に原因がある。
心理学の新しい研究に協力するという条件で「特待生」となったはるかは、各種の恩恵と引き換えに、学園から指定された「設定」――すなわち女子生徒を演じている。
はるかが特待生であること、そして与えられた「設定」は出来る限り他生徒に知られてはいけない。パートナーである一ノ瀬飛鳥だけは以前、ある出来事からはるかの正体を知っているが、それ以外の生徒達には正体を隠さなくてはならない。
薄着になることを心配していたのもそのため――身体のラインが出やすくなることで、正体が露見するリスクが高まることを恐れてのことだった。
気にし過ぎだと言われれば、その通りではあるのだが。
―――
着替えの後は寮の食堂で朝食を摂り、それから登校になる。
今日は着替えで少し手間取ったが、もともとはるかは少し早めに起きているため、登校時刻は普段とほぼ変わらない。余裕をもって寮の入り口まで辿り着くと、はるか達はもう一人の友人と合流した。
「はるかさん、飛鳥さん。おはようございます」
「おはよー」
「おはよう、昴」
間宮昴。はるか達のクラスメートの中で、特に仲良くしている女生徒だ。
彼女の長い黒髪と整った顔立ちは、夏服にも良く映えている。昴は数日前から夏服に替えているので、だんだんとその姿も見慣れつつあった。
「はるかさんも今日からは夏服なんですね。良くお似合いです」
「うん。ありがとう、昴」
いかにも清楚なお嬢様、といった昴から褒められると、少し照れくさい。とはいえ褒められて悪い気はしないので、微笑んでお礼を言った。
通学路を三人で歩く。寮は学園の敷地内にあるので、校舎までの道は生徒達でいっぱいだった。そっと眺めれば、道を歩く生徒達の装いも夏服に統一されている。昨日までは、はるかを含め、ちらほらと冬服姿が混じっていたので、何だか新鮮な感じだ。
「夏が始まったって感じだね」
「ええ。来週あたりからは水泳の授業も始まるそうですよ」
ふと呟くと、昴が微笑みながら返事をしてくれる。すると、今度はその言葉に飛鳥が反応した。
「うちの学校は屋内プールなんだよね。ちょっと楽しみ」
「その辺はお金かかってるよね、この学校」
設立が割と最近なせいか、あるいは広い敷地を最大限に利用したのか。この分校の設備はかなり充実している。屋内式の温水プールはその一つで、おかげで水泳部は年中練習が行えているとか。
「二人は泳ぐの得意なの?」
「うん、まあ普通に」
「ええ、私も人並みには」
はるかが尋ねると、二人からはそんな回答が返ってきた。この二人は割と何でもそつなくこなすので、想像通りではあった。
「そう言うはるかは?」
「うん、私も普通かな」
水泳は得意でも不得意でもない。先月から今月頭にかけての一件で運動への苦手意識は払拭したので、授業を受けるのに支障はないはずだ。
「そっか。一人くらい泳げないかと思ったけど」
「残念がらないでくださいね」
「あ、バレたか」
何か特別な展開でも求めていたのか。呟いた飛鳥は昴に指摘され、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「まあ、冗談はともかく。あたしは水着も楽しみだな」
「水着、ですか?」
再び昴が相槌を打つが、彼女は良くわからない、という表情だった。
「学校で指定の水着ですから、特にどうということもないのでは?」
「や、ほら。皆のいつもと違う姿が見られるって楽しくない?」
そういえば、飛鳥は前にもそんなことを言っていた気がする。あの時は、はるかの水着姿が見たいとセクハラっぽい発言をされ、大いに困惑した。
(私の水着姿なんて見ても楽しくないと思うんだけど)
と、はるかが考えていると、昴が顔をこちらに向けた。目が合う。
「なるほど」
「え、何が?」
何かを納得したように頷かれ、はるかは思わず突っ込んだ。
昴が何を考えたのか、知りたいような知りたくないような。
ともあれ、あまり自分を話題にされるのも恥ずかしいので、話題を逸らすことにする。
「えと。そういう意味なら、昴の水着姿はきっと綺麗だろうな」
「そ、そうでしょうか」
すると、昴は顔を赤らめて視線を逸らした。どうやら効果はあったらしい。
「あー。確かに。昴は胸、大きいしね」
飛鳥もそれに便乗してくる。彼女は言いながら、はるかに目線を見てにやっと笑った。意味ありげな笑い方に、話題の逸らし方を間違えたか、と思う。
ただまあ、飛鳥の台詞に関してははるかも同意見だ。冬服の頃はあまり目立たなかったが、昴は割と胸が大きい。巨乳という程ではないかもしれないが、はるかと飛鳥が平坦な体型のため、スタイルには結構な差がある。
などと思いつつ昴を見れば、彼女はさらに顔を赤くしていた。話を振ったはるかが言うのも何だが、少し可哀そうだ。あまり触れるとそれこそセクハラな気もするので、この話題についてはそれ以上の言及は避ける。
(じゃあ、また別の話題を出した方がいいかな)
「……ん?」
そこで、はるかはどこかから視線を感じた。飛鳥や昴からではない。どこか別の場所からだ。
振り返ってみると、登校中の生徒達がいるだけで、こちらを見ているような生徒は見当たらなかった。
「はるか、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
(気のせいかな)
たぶん、特別気にするようなことでもないだろう。
そう思って雑談に意識を向け直すと、先の視線のことはすぐ、思考の外へ消えていった。




