五月病と初夏の日々 20
不意に、ポケットへ入れていたスマートフォンが振動した。
何かと思えば、メールの新着だった。送信者は一ノ瀬飛鳥と表示されている。
『乃木坂先生の所へ行くつもり?』
中身を開くと、文面はたったそれだけだった。短すぎて逆にわかりづらい。
けれど、それを読んだ昴には、飛鳥の言外の意図を察することができた。
(はるかさんから、何かを聞いたんでしょうか)
だとしたら、かなり迅速な行動だ。タイミングもいい。
まあ、聞かれた以上は隠す必要もない。そう思い、こちらも短く返信する。それで十分伝わるだろう。
『今から先生とお話するつもりです』
「待たせちゃってごめんね」
メールを送信し、スマートフォンをポケットにしまうのと、職員室から真穂が出て来たのはほぼ同時だった。
「いいえ。こちらこそ、お忙しいところ申し訳ありません」
飛鳥からすぐに返信が来ることはなさそうだ。
そんな風に思いながら、真穂へ丁寧に頭を下げる。それから顔を上げ、こちらの希望を伝えた。
「できれば人気のないところでお話をしたいのですが」
「ん? うん、わかった。それじゃあ……屋上にでも行きましょうか」
「はい」
真穂の提案に静かに頷く。体育祭の後片付けに追われる真穂が暇になるのを待っているうちに、ホームルーム終了からはそれなりの時間が経っている。今日はさすがに部活動も休みのはずだし、このタイミングで屋上に上がる物好きもそうは居ないだろう。
階段を上がり、屋上の扉を開く。案の定、屋上には誰も居なかった。
外に出ると、昴は真穂を追い越して前へ進み、フェンスの前で振り返った。
「それで、間宮さん。話って?」
真穂がそう尋ねてくる。
「はい。乃木坂先生にお伺いしたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
「それは……」
答えようと口を開くと、そこで再びスマホが震えた。やはりタイミングがいい。
「申し訳ありません。少し、失礼します」
真穂に断って端末を手に取った。やはり飛鳥からだったが、今度は電話だ。出るべきか迷った。
すると、逡巡を察した真穂がそっと訊いてくる。
「どうしたの?」
「はい。……すみませんが、もう一人、この場に呼ばせて頂けますか?」
あるいは二人かもしれない、と思ったが、それは敢えて言わなかった。
「? ええ、いいけど」
真穂は良くわからない、といった様子だったが了承してくれる。
感謝の意を込めて軽く頭を下げつつ、昴は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『今どこ!?』
間髪入れず、スピーカー越しに怒鳴られた。同時に荒い吐息も聞こえてくる。
おそらく、校舎まで走って来たのだろう。
「校舎の屋上です」
『わかった。そこ動かないでね!』
短く答えると、再度強い言葉と共に通話が途切れた。
(凄い剣幕ですね……)
それだけ必死だということだろう。そう思うと、知らず口元に笑みがこぼれた。
「間宮さん?」
電話を切ってから何も言わない昴を訝しく思ったのか、真穂が再度声を上げる。
「すぐに来ると思いますので、もう少しだけ待って頂けますか?」
そんな彼女に、昴は淡々と返した。話を持ちかけておきながら無礼な態度だとは思うが、これから話すことを思えばこのくらい、大したこともないだろう。
そして、数分後。ばん、と勢いよく屋上の扉が開いた。
飛鳥は息を切らせながら扉を閉じ、昴達のいる場所まで早足でやってくる。
「話は?」
電話の時と同様、有無を言わせる気はないらしい。
「いえ、まだ何も。はるかさんは一緒じゃないんですか?」
「うん、はるかには部屋で待っててもらった」
「そうですか」
良かった、と思ったが口にはしない。
役者も揃ったので、昴は真穂の方へ視線を戻した。真穂はまだ、状況が理解できていないようだ。
「えっと、どういうこと?」
「……申し訳ありませんでした。お話を始めさせてください。一ノ瀬さんには、彼女にも関係する話なので来ていただきました」
簡単に説明しながら飛鳥に視線をやると、彼女は黙って頷いてくれた。
そこまで聞けば、さすがに真穂も何かを察したらしかった。
「……そう。それで?」
昴達二人に目をやってから先を促してくる。表情もまた先程より真剣に見える。
深く息を吸い、昴はゆっくりと口を開いた。
「小鳥遊はるかさんのことです。彼女は特待生――なんですね?」
単刀直入に尋ねると、真穂の頬がぴくりと動いた。
けれど、表情の変化はそれだけだった。
「……何のこと?」
やや硬い声で問い返してくる。昼間、はるかを問い詰めた時のような分かりやすい反応はなかった。
「この学校の特待生制度のことはもちろん知ってる。一年A組の特待生についてもね。……でも、誰が特待生かは話したくないし、話せない。小鳥遊さんは私の生徒だし、そういう決まりだから。貴女だって知ってるでしょ?」
「ええ、もちろん分かっています」
昴は素直に頷いた。真穂が暗に込めた意味についても言及しない。彼女が口にした内容は、特待生以外の生徒でも知っているか、あるいは想像がつく範囲内だ。何も特別なことはない。
「ですが、私はこの間、小鳥遊さんと乃木坂先生が話しているところを聞きました。あれは、いくら部室棟の空き部屋とはいえ不用心ではないでしょうか」
「……っ」
そう告げると、今度は明確な反応があった。動揺したのか、真穂の目が泳ぐ。
(やっぱり)
はるかの反応で確信してはいたが、あらためて思った。
しかし、動揺はなかった。既に心の整理はついているからだ。
あの時。一緒に耳を澄ませた飛鳥は会話の内容を聞き取れなかったようだが、昴は断片的にいくらかの内容を理解した。それが、会話の内容がはるかが入学した経緯だということと、その中に特待生という単語があったことだった。
聞いた当初は、はるかが昴の知らない秘密を抱えていることがショックだった。けれど、昴もまた特待生制度については深く理解しているので、ショックからはすぐに立ち直った。
もし特待生であろうと、はるかが友人であることに変わりはない。
けれど、聞いてしまった以上、確かめずにいられなかった。一応、体育祭が終わるまでは待って確認するつもりだったのに、リレーが終わった直後に絶好のタイミングが訪れたため、そこは少しフライングをしてしまったが。
「……気のせいじゃない? 確かに小鳥遊さんとは話したけど、特待生がどうの、なんて話はしていないわ」
果たして、昴の指摘を聞いても真穂の答えは変わらなかった。あくまでも知らない、で通すつもりらしい。実際、証拠があるわけではないので、これ以上の詮索もしづらい。
想像していた通りの答えだった。
「そうですか」
だから、昴はただ頷いた。微笑みを浮かべて。
「では、私の勘違いですね。……お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
そう言って真穂に頭を下げる。
「昴。それでいいの?」
すると、飛鳥がそう尋ねてきた。真穂もまた呆気に取られたのか、ぽかんと口を開けている。
「ええ。はるかさんにも伺いましたが、何のことかわからないと仰られていました。なら私の勘違いでしょう。みだりに特待生について詮索するのは校則違反ですしね」
「え、あ、あー。なるほどね、そういうことか」
すました顔で答えてやると、どうやら飛鳥は納得したようだった。
つまりは、昴は最初から、恍けられたらそれで追及を止めるつもりだった。もっと言えば、真穂が恍けてくれるのを期待していたのだ。
はるかと、真穂の反応から真実を理解した以上、それ以上の追及は必要ない。
だから、代わりに『確認してみたら勘違いだった』という表向きの事実を作り出した。
(これで二人とも、あんな不用心な真似は今後控えていただけるでしょうし)
ああいうことがまた起きて、他の誰かが事実を知るのは嫌だったから。
「じゃあ、次はあたしの番だね」
選手交代とばかりに、毅然と真穂に目を向ける彼女を微笑んで見守りながら、昴はほっと息をつく。それから思った。
(ところで……飛鳥さんは何を、どこまでご存じなんでしょう)
もし、自分よりも深い事実を。例えば、はるかの具体的な秘密を知っているのだとしたら、少し妬けてしまうと。
「先生、次にはるかをいじめたら許さないから!」




