五月病と初夏の日々 14
ドアが開き、真穂が部屋から出てきた。一人だ。はるかが一緒に出てくる様子はない。
「階段の方に行きますね」
飛鳥の肩をきゅっと握りながら昴が呟いた。その言葉通り、真穂は静かに階段の方へと歩いていく。きっと一階へ降りて外に出るつもりだろう。
あの様子なら、物陰から飛鳥達が窺っていたことにも気づいていない。
「どうしましょうか」
(たぶん、はるかに直接聞いてもはぐらかされる気がする)
「……追いかけようか」
少し考えて、飛鳥はそう昴に答えた。
彼女達がここへ来たのは、はるかがきっとここにいるだろうと思ったからだ。
駄目でもともと。居ないなら居ないで構わない。もしそうなら十中八九、部屋で休んでくれているだろうからそう心配はない。
逆にもしはるかが居たら、昴と二人で問い詰めるなりするつもりだった。
はるかの練習場所については「部室棟の空き部屋」としか聞いていなかったので、見つけられるかどうか不安はあった。が、結果的には何の問題もなかった。
昴と一緒に部室棟へ向かっていると、同じ方向に歩く真穂の姿を発見したからだ。
どこへ行くのかと不審に思いつつ、ふと見上げると、部室棟の窓からはるかの姿が見えた。
(もしかして)
そう思い、昴と一緒に後を追った。
案の定、真穂が入ったのは飛鳥が先程見上げた建物だった。一階の自販機で飲み物を買い、二階にある部屋の一つに入っていく。位置からして、はるかのいる部屋で間違いない。
「何で乃木坂先生が?」
はるかに鍵を渡したのは真穂なので、部屋の場所を知っているのは当然だ。
でも、だからってわざわざこんな所までやってくるだろうか。
「はるかさんへの激励でしょうか」
「あんまりそういう雰囲気じゃなかった気がする」
真穂の足取りはゆっくりで、何と言うか気が重そうに見えた。
「……乃木坂先生が、はるかさんの様子に関係していると?」
「そこまではわかんないけど」
ただ、状況的からして、はるかに何かあったのは昨日のこの場所だろう。
「はるかがこの場所で練習してるの、知ってる人って殆どいないはずでしょ?」
「それは……そうですね」
半信半疑といった様子ではあったが、昴も同意してくれた。
二人は中で何をしているのか。
閉じられたドアの前で耳を澄ませると、何やら話をしているのはわかった。けれどその内容までは聞き取れない。少なくとも怒鳴りあっているとか、そういうことはないようだが。
「中に入ってみる?」
「……それは、お邪魔になってしまう可能性もあるのでは?」
「かな」
そんな風に結論を出して。とりあえず物陰から様子を窺った結果、今に至る。
部屋を出た真穂を追いかけると、彼女が建物の入り口を出たあたりで追いついた。
「乃木坂先生」
飛鳥の声に、真穂が振り返る。
「一ノ瀬さん、それに間宮さんも? どうしたの?」
真穂はきょとんとした表情を浮かべていた。単にいきなり呼び止められて驚いているという風で、その表情は自然体だ。ここに来る前とは雰囲気が違うように思える。
(やっぱり何かあったのかな)
思いつつ、飛鳥は真穂にストレートな質問をぶつけた。
「はるか――小鳥遊さんと、何を話してたんですか?」
「え?」
その質問が意外だったのか、真穂が驚いたような顔を浮かべる。
「どうして?」
そうして、彼女は逆に尋ねてきた。
単純な疑問だったのかもしれないが、話をはぐらかそうとしているようにも思えた。こちらとしても理由を聞かれると説明しづらいのだが……。
「はるかのいた部屋から出て来たように見えたので」
そう答えると、真穂は僅かに考えるような素振りを見せた。
「そっか。……大したことじゃないの。ちょっと、小鳥遊さんと話があっただけ」
(どんな話をしたのか聞いてるんだけど)
真穂が何かしたと決まったわけでもないのに、思わずいらっとした。
「……そう、ですか。すみません、ありがとうございます」
ともあれ、そう言われてしまえば深く追求もできない。お礼を言って頭を下げるしかなかった。
「お時間を取らせてしまって申し訳ありません」
「ううん、気にしないで。それじゃあ、私はこれで」
そう言って、真穂はその場を去っていく。それを見送って、飛鳥はため息をついた。
「何もわかりませんでしたね」
「うん」
結局、真穂は何か関係があったのだろうか。それだけでも知りたいところだったが……。
「昴と、飛鳥ちゃん?」
「はるか」
背後から声をかけられ、振り返るとはるかが立っていた。制服姿で、通学鞄と体操着袋を提げている。表情は少しバツの悪そうな感じだった。
(あれ? でも、それだけ?)
「いつもの、はるかさんですね」
昴も同じことを思ったのか、ふっと息を吐いてそう呟いていた。
「……うん、ごめんね。心配かけて」
すまなそうに目を伏せて、はるかが言った。その表情に飛鳥はほっとする。
「本当だよ。全くもう」
(でも、良かった)
何があったのかはよくわからないけれど、飛鳥は笑顔ではるかにそう言ったのだった。
* * *
ここ最近の態度について、飛鳥達からはやはり叱られた。
「で、結局何があったの?」
「えっと……それが説明しづらくて」
「むぅ……」
特に飛鳥からは色々詮索されて返答に困った。終わった話を蒸し返すのも気が引けるし、下手に話すとやっぱりトラブルになりかねない。
昴はあれこれ聞いてくることはなかったが、じっと見つめられて言い聞かされた。
「本当に心配したんですよ?」
「う、うん。ごめんなさい」
「何かあったのなら、私達に相談してくださいね。約束ですよ」
至近距離で目を合わせられると、やっぱりどきどきする。
また、それ以上に彼女の真摯な表情に気圧された。本当に悪いことをしてしまったと思う。
「本当にごめんね」
だからこそ、明確に「約束」できないのは心苦しかった。
翌日の日曜日は、かねての予定通り三人で勉強会を開いた。中間テストは月曜日から三日間なので、気づけばもう目の前に迫っている。それもあって、この日は午前中から夕方まで勉強漬けになった。
「疲れた……」
「だね……」
そのおかげか、勉強会を終える頃にはそれなりに疲労感があった。途中で何度も休憩を挟んだし、自分のペースで勉強できるだけ平日よりはマシなのだが、それでもはるかや飛鳥はぐったりしてしまう。
「お疲れ様でした。でも、これだけやっておければ本番も安心だと思いますよ」
「ありがとう。昴のお陰で大分頑張れた気がする」
ある程度の緊張感を持って頑張れたのは、この三人で勉強したおかげだろう。はるかは詰め込み式の勉強が割と苦手だし、飛鳥はあまり長時間集中力が持続しないタイプだ。そんな二人を昴が纏めてくれたおかげで、普段より勉強が捗った。
「いいえ、私もおさらいになりましたので。それに」
「それに?」
「その。お二人と一緒に勉強するのは楽しかったので」
と、昴はそう言って顔を赤らめていた。
そんな彼女に、はるか達は顔を見合わせてにっこりする。
「私達も楽しかったよ」
最近、昴はとみに素直というか、表現がストレートになってきている気がした。
いつだったか圭一達が言っていた「昴は結構我儘」というのはこういうことだろうか。だとしたらこのくらい、いくらでも歓迎だ。
「でも、本番は明日からなんですから、油断しないでくださいね」
「うん、もちろん」
そうして臨んだ本番、三日間の中間テストをはるか達は無事に終えた。
手ごたえは十分。きっと悪い結果にはならないだろう。
そう思い、ほっとしていたはるかは考えもしていなかった。
真穂との一件が、まだ完全に片付いたわけではない、ということを。