五月病と初夏の日々 13
小鳥遊はるかとの一件の翌日。
真穂は悩んだ末、彼が体育祭の練習に使っている部室棟の部屋を訪れることにした。あの時、はるかに言った言葉を後悔したからだ。
『貴方は、私のこと好き?』
あの時、真穂はわざわざ自分から彼に尋ね、
『あなたのことが嫌いよ』
本人に面と向かって「嫌い」だと告げた。
それは考えてのことではなく、極めて衝動的な行為だった。
教師として生徒の相談に乗った。ただそれだけの、ごく当たり前の行為を感謝されて。
はるかの純粋な笑顔を目の前にして。
彼の気持ちを知りたくなって、つい「自分のことは好きか」と尋ねていた。
それからすぐに後悔し、自分でその言葉を打ち消したが、はるかは真穂の問いに答えた。
『私は、先生のことが好きです』
その言葉に、真穂は自分の体験を思い出した。
真穂は小さい頃から背の高い女の子だった。
背の順に整列すると大抵は最後尾。周囲からはよく身長のことでからかわれた。
女子バスケ部から勧誘を受けることも多かったが、コンプレックスからそれは断った。代わりに始めた陸上は性に合ったので、青春の殆どは陸上に費やした。
そんな真穂だが、中学時代に一度だけ、男子から告白されたことがある。
同じクラスの男子生徒。お調子者で、性別関係なく話しやすい相手だった。そんな彼に放課後の教室へ呼び出され、告白を受けた。
『俺、前からお前のことが好きだったんだ。だから、付き合ってください!』
緊張した様子でそう言って頭を下げた彼に、真穂は柄にもなくどきりとした。
恋愛なんて自分には縁のない話、と思っていたところへの突然の告白に驚きつつも、真穂は彼の告白を嬉しく思った。
彼となら話も合うし、それもいいかもしれない。
数秒の躊躇の後、そう考え、笑顔で頷き。
『はい』
そう答えた真穂の声は、背後から上がった歓声で掻き消された。
驚いて振り返ると、同学年の男子数人がにやにや笑いながら立っていた。そんな彼らに、真穂へ告白した男子が告げる。
『これでいいんだろ? 何だよ、楽勝じゃねーか!』
彼はそう言って仲間たちに合流し、笑いながらその場を去っていこうとする。
それを呼び止めてどういうことか問い詰めると、彼は何てことなさそうな調子で答えた。
『ああ、罰ゲームで告白の真似やらされてさ。ごめん、忘れていいよ』
真穂をはやし立てる様子はなかったことから、あくまで告白をするだけの遊び――真穂を貶める意図はなく、おそらく告白の返事は聞いてもいなかった。そう、後から振り返れば思えるが、当時の真穂には裏切られた気持ちしかなかった。
男子なんて、恋愛なんてそんなもの。
そう深く胸に刻んだ真穂は、高校からは女子校に進んだ。あれ以来、男性恐怖症という程ではないにせよ、男子というものに嫌悪感を抱くようになったからだ。
周囲に男のいない環境での生活は真穂にとって気楽で、楽しいものだった。特に清華学園高等部の本校で過ごした三年はかけがえのない時間になった。
『私は、先輩のことが好きです』
高校三年生の時、後輩の女生徒から告白を受けたこともあった。男嫌いではあったが同性愛の気はなかった真穂は彼女の告白を断ったが、それは中学時代の男子からの告白と違い、今でも良い思い出として残っている。
はるかの言葉はまず、真穂に高校時代に受けた告白を思い起こさせた。
けれど、小鳥遊はるかは男。決して女の子ではない。
そう思い出すと、今度は中学時代の告白が胸に甦った。
それはやがて猛烈な嫌悪感へと変わり、気づけば彼に酷い言葉を浴びせていた。
――言った直後は、いい気味だと思った。
けれどその場から踵を返し、廊下を歩きだした頃には既に後悔していた。
今のが教育者として、生徒に向ける言葉だろうか。
個人的な感情をむき出しにして子供に叩きつけるなんて最低の行為ではないか。
そう思い、教室に戻ろうかとも考えたが、結局真穂は足を止めなかった。
一度口に出した言葉は覆らない。
戻って否定したところで、小鳥遊はるかの気持ちは収まらないだろう。
(それに、私の気持ち自体は間違ってない)
そんな子供じみた思いが胸にはあった。
けれど時間が経つごとに後悔の念は強くなった。
朝と帰りのホームルームでちらりと彼の顔を窺うと、どこか力ない表情に見えた。
当然だ。あれだけのことを言ってしまったのだから。
(やっぱり謝ろう)
放課後になってそう決意し、昼食後に行動に移した。
ドアをノックし、はるかの返事を聞いて中に入ると、部屋の中央に立ったはるかが真穂を見た。その顔が見る間に歪む。
「先生……」
辛そうな、悲しそうな顔に。
その顔を見て、罪悪感を覚える。彼にしてみれば自分の顔も見たくないのではないか。そう思いながらも、彼に語りかける。
「少し、時間いい?」
「……はい」
返事にはやや間があったが、彼は頷いた。
「ありがとう」
ドアを閉め、部屋に入る。はるかに歩み寄り、手にしていた二本の缶コーヒーのうち一本を渡した。はるかは戸惑う様子を見せながらもそれを受け取った。
視線で促し、脇の壁に二人で背を預けるように腰を下ろした。
体半分くらいの距離を開けて、彼と横に並ぶ。
会話の間を持たせるようにコーヒーの蓋を開けると、彼もそれにならった。
そのまま一口、コーヒーを飲む。ブラックの苦みが口の中に広がった。
そういえば、はるかの分も何も考えずブラックにしてしまったと気づく。割と苦手な子もいると思うのだが。
「甘い方が良かった?」
「いえ、大丈夫です」
ちらりと横目で窺うと、特に嘘をついている様子もなかった。
「そっか。……まあ、男の子だもんね」
何の気もなしに呟く。
「……あの」
と、はるかの方から先を促されてしまった。
「あ、うん」
頷き、苦笑する。真穂自身も緊張しているらしい。
軽く深呼吸して、本題に入るべく口を開いた。
「昨日はごめんなさい。酷い事を言ってしまって」
「……いえ」
目を伏せて謝意を述べると、はるかは短く答えた。怒気は感じられないものの、その声は固かった。
一言ずつのやりとりが終わると、互いに沈黙してしまう。
やがて、おずおずとはるかが口を開いた。
「あの」
「……うん」
「どうしてなのか、聞いてもいいですか?」
主語のない質問。しかしその示すところは一つしか考えられない。
だから問い返す必要はなかったが、しかし真穂は返答に迷った。
どう答えたらいいだろうか。
「聞かない方がいいと思う」
考えて、結果そう答える。聞いてほしくない、という意味も込めて。
「それでも、聞きたいです」
今度の返答は早かった。案の定、彼は引き下がらない。
となると答えるしかなくなってしまう。
「気に入らないからよ」
はるかの肩がぴくりと震えた。それに気づかない振りをして、真穂は続ける。
「あんな、特待生なんてよくわからない制度を受けて、女の子の振りをしている貴方が」
端的に言えば、それが真穂の本心だった。過去の告白の思い出がどうこうというのはその余禄に過ぎない。
「そう、ですか」
そっと頷き、彼はそのまま顔を伏せた。
(……ごめんなさい)
彼の様子を見て再度、心中で呟いた。
だから言いたくなかった、などと口に出しては言えないが。
そうして再び沈黙が訪れた。
「ねえ。聞いてもいい?」
「何を、ですか?」
「どうして、その。女装なんてしてまで、この学校に入学したのか」
以前から疑問に思っていたことだった。はるか以外の特待生達も含めて、真穂は彼らの志望動機を知らない。与えられた資料にはそういった内面的な事情までは書かれていなかった。
もっとも、デリケートな事柄だし答えてくれないかもしれない。そう思ったが、はるかは割合すんなりと真穂の質問に答えてくれた。
「私は、どうしてもこの学校に通いたかったんです」
彼は少しずつ、自身の志望動機を真穂に語った。
彼の姉が本校の卒業生で、彼女に憧れて学園に通いたいと思ったこと。
女子校である本校には通えないと知り落胆したこと。
その後、分校の設立を知って受験したこと。
しかし学力が足りず、不合格になったところを特待生制度に拾われたこと。
「……そう」
話を聞き終えると、真穂は深くため息をついた。
彼の話してくれた内容は意外なものだった。金銭的な恩恵や、女子にに関わりたいといった私欲的な理由だろうと勝手に想像していたからだ。
けれど、実際はもっとずっと純粋な理由があった。
極めて個人的な理由だが、そういう理由の方が真穂にはずっと共感できる。
特に彼の姉が本校の生徒だったという話には興味を惹かれた。
「お姉さんの名前、聞いてもいい?」
「深空です。小鳥遊深空」
はるかの返事を聞いて、真穂は目を見開いた。
「あの子の――弟さんだったんだ」
「ご存じなんですか?」
「ええ。私、去年までは本校の教師だったから」
担任になったことはないが、授業を担当したこともある。
真穂が教師になって間もない頃の生徒で、中でも印象に残っている生徒だ。
はるかが語った通り、記憶の中の彼女は毎日を楽しそうに過ごしていたように思う。
「言われてみれば、良く似てるかも」
「たまに言われます」
少しくすぐったそうにはるかが微笑んだ。
きっと本当にお姉さんが好きなのだろう。そう思うと、自然と口から言葉が漏れた。
「ごめんなさい。あらためて謝らせて」
真穂は身体をはるかの方に向けると、しっかり彼に頭を下げた。
「あんなこと、生徒に向かって言うべきじゃなかった。本当にごめんなさい」
「いいんです、気にしないでください」
はるかの返事は穏やかだった。
そっと頭を上げると、彼が微笑んで真穂を見ていた。
可愛らしい笑顔だった。
「先生が言ってくださったことも、本当のことだと思いますから」
「………」
よく、そんなことが言えるものだと思った。
真穂が彼に告げた言葉はきっと、物凄く辛かっただろうに。
「……貴方、やっぱり変な子ね」
「そうですね」
苦笑を浮かべて真穂が呟くと、はるかもまた同じように笑った。
はるかが言った通り、彼へ告げた言葉は真穂の本心だ。
特待生制度への疑念は今でも変わらないし、特待生達への憤懣だって残っている。
けれど、彼個人のことは誤解していたと思う。
少し考えを変えてもいいかもしれない。
「体育祭、頑張ってね。小鳥遊さん」
「……はい。ありがとうございます」
そう思いながらにっこり微笑みかけると、彼も笑顔を返してくれた。