五月病と初夏の日々 12
ずるっ。
しっかりと踏み出した足が滑り、身体が傾いた。
べふ。
手を着く暇もなく床に倒れ込んだはるかは、脳内でそんな擬音を聞いた。正面から転んだ姿を象徴するような、可愛げも何もない音だった。
「いたた……」
小さく呟いて身を起こす。幸い、咄嗟に手を上へ逃がしたおかげで、スマートフォンに被害はなかった。胸から行ったおかげで顔面も打っていない。
(もう一回、最初からやろう)
スマホを操作して再度動画をスタート。耳元で響く音に合わせてステップを踏む。
と、十歩分も動かないうちに、はるかはまた足を滑らせた。
今度は寸前で踏みとどまったが、ダンスは中断してしまった。
端末を再度操作し、スタートしたばかりの動画をストップする。
ただ、今度はすぐに再生しない。多分今やってもまた同じことの繰り返しだ。
「駄目だなぁ……」
なんとなくその場に座りこみながら、はるかは呟いた。
調子が出ない。ステップとリズムは頭に入っているのに、全然身が入らない。ダンスに集中できず、それがなんてことのないミスに繋がっていた。
身体を動かしていれば気分も変わるかと思いここに来たが、うまくいかなかった。
飛鳥達に嘘をついて、一人で先に教室を出た挙げ句、この有様だ。
はぁ……。
ため息をついて天井を仰ぐ。もちろん、そこには何もない。
他に誰もいない室内には静寂が満ちている。
『そう。でも、私はあなたのことが嫌いよ。――小鳥遊はるかさん』
と、真穂に告げられたあの言葉が脳裏に甦った。それは意識しないようにすればするほど強く、はるかの心に突き刺さってくる。
どうやら、これ以上練習してもうまくいきそうにない。
ダンスは諦め、はるかは耳のイヤホンを外した。
端末からプラグも抜き、ケーブルも巻き取る。
そして座りこんだまま、ぼんやりと考える。
(先生は、どうしてあんなことを言ったんだろう)
好きか、と聞かれたので好きだと答えたら、ああ言われた。そう考えると酷い話だと思う。何のための会話だったのか、まるでわからない。だから余計にもやもやする。
真穂が。教師がわざわざ生徒に「嫌い」だと宣言する。それは余程のことではないだろうか。そこまで真穂に嫌われるような「何か」があったのか。
はるかは真穂と殆ど話をしたことがない。嫌われるような機会もなかったはずだ。
(それとも)
思って、手にしたままだった薄桃色のスマートフォンをぎゅっと握る。
(『私自身』が気に入らないってことなのかな)
入学前に、姉と一緒にショップに行って機種変更した端末。プレゼントだと言って、費用は姉が全部支払ってくれた。宝物、とまでは言わないが、はるかにとっては大切な品だ。
女の子らしい、可愛いスマホ。
機種変更以前は機能性重視の真っ白い端末を使っていた。それはそれで気に入っていたけれど、いざ新しい端末を手にすると、とても新鮮な気持ちになった。
大げさに言えば、まるで生まれ変わったような。
(生まれ変わってなんかいないのに)
直接確認したわけではないが、真穂ははるかの正体を知っているはずだ。特待生制度の事前説明の際、何かあれば担任に相談するよう教えられたのを覚えている。
それを踏まえたうえで考えれば、あの言葉と視線にも納得はできる。女装なんて世間一般からは忌避されるものだろうし、真穂のような大人の女性なら特にそうだ。飛鳥のように理解を示してくれる人の方が、きっとずっと少ない。
もちろん真穂本人に問いたださなければ真意はわからない。しかしはるかにそこまでする勇気はなかった。
だから、はるかはあのことを心の中にしまっておこうと思っていた。飛鳥にも心配をかけて申し訳ないが、今回のことを彼女に話すつもりもない。
事情を話してどうなるものでもないし、話せばきっと話が大きくなる。
例えば、飛鳥が怒って先生に抗議してくれたとして。それは意味のあることだろうか。
個人の感情は簡単に変わらない。
それに、もしはるかの想像が正しいのなら。真穂の行為を追求することで特待生制度に触れざるをえない。すると、はるかの秘密が周囲に露見する可能性もある。
そうなって困るのは、はるか達だ。
生徒達に秘密が知られれば、はるかはきっとこの学校にいられなくなる。
そして、はるかを庇っていたことが分かれば飛鳥だってどうなるかわからない。はるか自身のことはまだしも、飛鳥にまで迷惑が及ぶのは絶対に嫌だ。
そのためにも、今回のことは飲みこむ。
無理にでも忘れて、調子を戻して。いつも通りに生活を送らなくちゃいけない。
今のところ、あまりうまくいっていないけれど、もう少しすれば良くなると思う。それまで飛鳥達には待っていて欲しい。
(でも、とりあえず今日は着替えて、部屋に戻ろうかな)
もともと帰ると言って出てきたので、早めに部屋に戻っていた方がいいだろう。
テストも近いし、勉強でもしていようか。
そう思い、はるかは立ち上がった時。
不意に部屋のドアがノックされた。
「……? はい」
返事をする。内側から鍵はかけていない。
するとドアが開き、一人の人物が入ってくる。
その姿を見て、はるかの胸がどくんと跳ねた。