五月病と初夏の日々 11
はるかの様子がおかしい。飛鳥がそう気づいたのは、部屋に戻ってすぐだった。
放課後、飛鳥はここ数日の習慣通り一人で部活に顔を出した。そうして夕方まで過ごした後、カフェを出てはるかに電話をかける。もしもまだ部室棟にいるのなら合流しようと思ったからだ。
けれど、十回以上コールしても反応がなかった。練習に夢中で気づいていないのだろうか。でも、スマートフォンを鞄に入れっぱなしということもないと思うのだけれど。
不思議に思いつつ寮の部屋へ戻ると、はるかはもう部屋に戻っていた。
壁の物掛けを見ると、制服がやや乱雑に吊るされている。はるかはベッドに伏していて、制服を脱いですぐ眠ってしまったという様子だった。その時点でもう、普段のはるかとは違う。
いつもなら、はるかはこんな乱れた恰好で居たりしない。他人に肌を晒すのを嫌がり、部屋に一人でいる時も必ず寝間着か部屋着を身に着けている。まして無防備になる就寝時に下着姿だなんてあり得ない。
よっぽど疲れているのだろうか。でも、この時間に部屋にいるならそんなに長時間、運動をしていたわけでもないはずだ。部室棟の前で別れた時は元気そうだったので、風邪とか他の病気というのもしっくりこない。
「はるか……?」
そっと声をかけてみても反応はなかった。やはり眠っているらしい。
そっとしておいた方がいいだろうか。
少しだけ悩んだが、飛鳥は自身の疑問を解消する方を優先した。
「はるか」
再度呼びかけて、今度は肩をそっと揺する。
すると、はるかは程なくして目を覚ました。
「あ……飛鳥ちゃん。おかえりなさい」
ぼんやりと薄目を開けたはるかは、飛鳥の姿を見ると微笑んだ。
一見いつも通りのようだが、その表情にはどこか力が感じられなかった。
「ね、はるか。何かあった?」
やはり何かあったのだ。そう思って尋ねたが、しかしはるかはそれを笑顔で否定した。
「え? ……ううん、別に。何もないよ」
明らかに嘘だった。返事までに躊躇があったし、一瞬表情が強張った。
「そっか」
けれど、飛鳥はいったん、はるかにそれ以上追求しないことにした。もし本当に大変なことなら、きっと話してくれるだろうと思ったからだ。
そうして夜が明けて。飛鳥が目を覚ますと、部屋の中にはるかの姿が無かった。
「シャワーかな?」
時々だが、はるかは朝シャワーを浴びることがあった。けれど洗面所の方から水音も人の気配もしないので、どうやらそれは違うようだ。
なら、一体どうしたというのだろう。
そう思っていると部屋のドアが開き、はるかが帰ってきた。何故か既に制服姿で、手には通学鞄が握られている。
「どこか行ってたの?」
「うん、ちょっとね」
尋ねると、短い答えが返ってくる。それ以上は答えたくないということだろうか。
(鞄……?)
そういえば、昨日、はるかの机に通学鞄はあっただろうか。体操着袋が床に転がっているのは見たが、鞄は見ていないような気もする。
(やっぱり、何かあったんだ)
土曜日の授業中も、はるかはどこか元気がない様子だった。横目で様子を窺ってみると、いつもよりペンを走らせる速度が鈍いように感じる。上の空というか、何か悩み事でもあるような様子だった。
極めつけは半日授業が終わった後だった。
「私、今日は先に帰るね」
土曜日のお昼は学食でのんびり、というのが定番なのだが、この日ははるかがそう言い出したのだった。珍しい、というか初めてのことだった。はるかは男の子にしては食が細いが、食事はきちんととるタイプだ。
「どこか体の具合でも?」
「ううん、そうじゃないんだけど。ちょっと、食欲がなくて」
心配そうに尋ねる昴に、はるかはそう答えていた。そして飛鳥達がそれ以上言う間もなく、教室を出て行ってしまう。
「あれ? 一ノ瀬さん、小鳥遊さんと喧嘩でもした?」
一人で帰っていったはるかを見て、クラスメートが言ってくる。それは笑って否定した。
「まさか」
飛鳥にそんな身に覚えはないので、原因は別だ。と思う。たぶん。
(考えると不安になってくるんだけど!)
余計なことを言うクラスメートに、こっそり憤慨してみた。
「はるかさん、どうしたんでしょうか……?」
仕方なく二人で食卓を囲みながら、飛鳥達ははるかの様子について話し合った。
「今朝からずっと、どこか調子が悪そうでしたよね」
やはり昴も気になっていたらしい。自分の感覚が間違っていなかったことにほっとしつつ、飛鳥は答えた。
「わかんないけど、昨日の夜からあんな感じだった」
「……はるかさんは何か?」
「何も。あたしたちと別れた後、何かあったんだとは思うけど」
「ということは、体育祭に向けての練習中の出来事、ということですね」
飛鳥の言葉を聞いて、昴がそう纏める。
「たぶんね。……何があったのか、全然わかんないけど」
大抵の事なら、はるかはきちんと話をしてくれると思う。あるいは何かしら兆候を感じ取れると思うのだが、いまいち原因が思い当たらない。
短時間に、ピンポイントで、はるかの心配ごとになりそうな事柄。
(あるにはあるんだけどさ……)
飛鳥だけが知っている、はるかの秘密。例えばそれが他人にばれたのだとすれば。
(でも、だったらあたしに相談してくれるはずじゃん)
それくらいの間柄ではあるはずだし、他に適役は誰もいないはずだ。
それに、そんな一大事なら校内で騒ぎになっていてもおかしくない。
はぁ……。
思わずため息が漏れた。
何も言ってくれないはるかに不満もあるが、それ以上に何もできない現状が苛立たしい。
せめてもう少し何かわかれば。
「そういえば」
そこで昴がふと呟くように言った。
「はるかさん、帰ると言っていましたけど……本当に部屋に戻ったんでしょうか?」
その言葉に、飛鳥はひとつ、ちょっとしたアイデアを閃いた。