五月病と初夏の日々 10
翌日から、はるかはダンスの練習を軽めに済ませるようにした。身体を動かす練習、という意味ではある程度成果が出ているし、テストもだんだん近づいてきている。練習を短めにして、余った時間をテスト勉強に回したいと思ったのだ。
昴達との次回の勉強会はあの後、今度の日曜日ということに決まったので、それまでは自力で勉強しないといけない。平日に集まらないのは、休日の方がまとまった時間もとれるのと、放課後、昴がリレーの練習に参加するためだ。当初はテスト後から練習開始の予定だったが、体育祭も近いのも考慮して練習日程が繰り上がったらしい。
ちなみに、ダンスの後『ノワール』に行って勉強もしてみたが、それだとやっぱり捗らなかった。雑談やら何やらに気を取られてしまうので、以降はやはり部屋で勉強することに決めている。
そうして、その週の金曜日。
「頑張ってね」
「ええ、ありがとうございます」
放課後さっそくリレー練習に向かうらしい昴を見送った後、はるかは飛鳥と一緒に教室で時間を潰した。
「はるか、今日は運動した後そのまま帰るんだよね」
「うん。早めに帰って勉強してるよ」
「了解。じゃあ、教室に教科書忘れたりしないでね」
「大丈夫だよ」
そんな言葉を交わしつつ、教室を出て部室棟まで歩いた。飛鳥の言葉で不安になったので、一応、机に教科書が残っていないかはいつも以上にしっかり確認した。
「じゃね、はるか」
飛鳥と部室棟の前で手を振って別れ、一人でいつもの空き部屋に向かう。
部屋の前に辿り着いて、鍵を開けようと荷物を探る。
と、そこではるかは、荷物がいつもより軽いことに気づいた。
「体操着が無い……」
手元にあるのは通学鞄ひとつきり。教科書のお陰で鞄はずっしりと重いが、そこに体操着は入っていない。何を思ったか体操着を教室に忘れてしまったようだ。そう理解すると、物凄い脱力感に襲われた。体操着を持ち歩くのはこのところ習慣になっていたはずなのに。
テスト勉強にちょっと意識が向けたらこの有様か。
自己嫌悪しつつ、取りに戻らずに済ませられないか考えてみたが、やっぱり難しい。
(戻るしかないかぁ……)
制服でも踊れなくはないが動きの邪魔になるし、何かの拍子に汚してしまうのも嫌だ。今から教室まで戻るのは億劫だけれど、仕方なく教室へ戻ることにした。
折角ここまで来たので、一応鞄は部屋に置いておく。
のんびりと校舎への道を逆戻りすると、道中、何人かの生徒とすれ違った。教室に残っていた生徒達がこれから部活か寮に向かうのだろう。そう思いながら校舎に着き、三階まで上がると、案の定、廊下はがらんとして人気がなかった。
A組の教室を覗いてみても、同じように誰もいない。
「あ、あった」
体操着袋は自分の席にかかったままになっていたので、それを取った。
余計な時間を食ってしまったので、戻って練習しなくては。
と、きびすを返したはるかは、いつの間にか教室の入り口に人が立っているのに気づいた。
簡素なシャツにジャージを羽織った長身の女性。立っているのは真穂だった。見回りか何かだろうか。
「先生」
呟くように言って、はるかはぺこりと頭を下げた。
すると真穂は何やら眉を顰め、はるかに聞いてくる。
「小鳥遊さんか。どうしたの、教室に何か用事?」
「あ、いえ。ちょっと忘れ物をしちゃって、取りに来たんです」
そう答えて、体操着を掲げて見せる。恥ずかしさからつい苦笑が浮かんだ。
「ああ、なるほど。じゃあ、まだ体育祭の練習は続けてるんだ?」
「はい。折角なので、体育祭が始まるまでは続けたいです」
「そう。……頑張ってね」
そう言った真穂の口元には、僅かに笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございます」
真穂の言葉に答えながら、はるかはふとこの間の授業で決めたことを思い出す。
相談のお礼。少し早いけれど、言うにはちょうどいいタイミングな気がする。
「あの、先生」
そう思い、はるかはあらためて真穂に頭を下げた。
「ありがとうございました。この間、相談に乗っていただいて」
そうして顔を上げると、真穂がきょとんと、意外そうな顔ではるかを見ていた。
一秒ほどで表情を戻した彼女は、そっと首を振って答える。
「ううん、気にしないで。当たり前のことをしただけだから」
確かに。あれは真穂からしたら当たり前に、生徒の相談に乗っただけのことだったのかもしれない。
だからといってはるかの感謝の気持ちが変わるわけではないけれど、これ以上言うと困らせてしまうかもしれないので、はるかはただ微笑んで頷いた。
「はい、ありがとうございます」
「………」
すると、そんなはるかを見て、真穂は少し戸惑ったような顔を浮かべた。
何か、変なことを言っただろうか。
そう考えながら真穂の様子を窺っていると、不意にはるかに訊かれた。
「小鳥遊さん。貴方は、私のこと好き?」
「……え?」
その質問にはるかは面食らった。いきなりそんなことを聞かれるなんて思わなかった。
驚いて何度か瞬きを繰り返していると、それをどう解釈したのか、真穂が慌てて言ってきた。
「ごめんなさい、何でもないから」
彼女は更に「忘れて」と続けようとしたようだったが、はるかはそれを遮って「はい」と頷いた。
そのまま黙っていると、沈黙の意味を誤解されそうな気がしたからだ。
「私は、先生のことが好きです」
そうして続けた一言に、真穂が驚いた顔で硬直した。
それは驚くだろう。真穂は話をなかったことにしようとしていたみたいだったし。
けれど、それは間違いなくはるかの本心だった。もちろん生徒としての担任への好意、という意味だけれど。
はるかから見て、真穂は生徒思いの良い先生だ。授業の後や放課後にはよく、女の子達と親しげに言葉を交わしていたし、授業中は分け隔てなく熱心な指導を行ってくれている。直接言葉を交わしたのは数えるほどだが、彼女のことは好きだった。
とはいえ、面と向かって女性に「好き」なんて言うとやはり恥ずかしくて、頬が赤く染まるのを抑えられなかった。
(飛鳥ちゃんとか、昴にも言ったことなかったかも)
そんなことそうそう口にするものでもないので当然だけれど。
そんなことを思いながら再度、真穂に意識を向けたはるかは。
思いがけない彼女の反応を目にすることになった。
「そう。でも、私はあなたのことが嫌いよ。――小鳥遊はるかさん」
冷たい言葉がはるかの胸に突き刺さった。
真っ直ぐにはるかを見据えた瞳には不快を訴える色がある。
「……ぇ」
言われた言葉を理解するのに数秒がかかった。
思考が追いつくと、胸への衝撃が痛みに変わった。
はるかが何も言えないでいると、真穂がその場から踵を返した。
去っていく彼女を呆然と見送りながら、はるかはその場で立ち尽くした。
『あなたのことが嫌いよ』
先程の言葉が頭の中に何度も響く。
不意に、眩暈がして身体が揺れた。それで我に返り、あらためて体勢を立て直す。
体操着袋をぎゅっと握り直すと、ぼんやりと呟いた。
「練習、どうしようかな」
何かをする気力は完全に失せていた。
深くため息をついて、教室の入り口へとゆっくり歩く。
(いいかな、もう。今日は)
無気力感に包まれたまま校舎を出て、寮に戻った。
制服を脱いでハンガーに掛け、ブラウスと下着だけの姿でベッドへ倒れ込む。
もう着替えるのも面倒臭かった。
思えば部室棟に鞄を置きっぱなしだが、それももう後回しにした。
ただ目を瞑って過ごすうちに、ゆっくりと眠りに落ちていく。
それから部活を終えた飛鳥が帰ってくるまで、はるかは目を覚まさなかった。