五月病と初夏の日々 9
「そういえばさ。はるか、まだ練習続けるの?」
翌日の放課後。『ノワール』に行くタイミング調整も兼ね、飛鳥達と教室で雑談をしていた際、そんな話題が飛び出した。はるかが帰りの荷物に体操着袋を用意しているのを見て、飛鳥が気づいたのだ。
「うん、もう少し続けようかな」
はるかがそう答えると、昴が意外そうな顔をした。
「昨日の感じなら心配なさそうでしたけど」
「でも、ほら。体育祭当日までまだ結構あるし」
体育祭は来週の土曜日。今止めてしまうとそれなりに間隔が空いてしまう。そうするとまだ勘が鈍ってしまうのでは、と思うのだ。そうなるとちょっと悲しいというか、なんのために運動したのかわからない。
「あと、せっかくだからあの曲を綺麗に踊れるようになりたいな、って」
初日の有様からすると大分、ダンスも形になってきているが、まだまだ完成には程遠い。綺麗に踊りきるどころか最後まで覚えきれてもいないので、今のままだと中途半端に終わってしまう。身体を動かすために始めたダンスではあるが、出来るならきりのいいところまでやりたかった。
そう伝えると、飛鳥は納得してくれた。
「なるほどね」
けれど、それでも昴はまだ眉を顰めたままだった。
「それはいいと思いますが……中間試験のことは忘れていませんよね?」
「うん、忘れてないよ」
すぐにそう答えてから、はるかは「……一応」と短く付け加えた。
もちろん中間試験のことも忘れてはいない。ダンスの練習をして、寮で食事やシャワーを済ませた後に勉強の時間も取っている。宿題などを優先して片づけると試験勉強用の時間はあまり残らないので、十分かと言われると答えにくが。
そんなはるかの反応を見た昴はすっと目を細めた。と、今度ははるかではなく飛鳥に尋ねる。
「飛鳥さん。今のは確かですか?」
「うん。確かにやってるよ。時間は短いけど」
飛鳥の回答は正直だった。別に先程のはるかの答えも嘘ではないので、良いのだけれど。
「なるほど」
納得したように頷いた昴の目が何やら目が据わっていて、少し怖かった。
「はるかさん」
「は、はい」
「今日は皆でお勉強しましょう」
「はい」
有無を言わさず。昴が発する妙な迫力に圧され、はるかは勉強会の実施を了承していた。
端正な顔をしている分、真顔の昴は結構怖い。
今日は三人とも欠席する旨をメールで送ると、由貴からはすぐに了解の返事があった。
「うん、大丈夫だって」
スマートフォンをしまいながら飛鳥達に告げると、飛鳥が明るく言う。
「じゃ、購買でお菓子でも買って行こうか」
「飛鳥さん。あくまで勉強会なんですからね」
「わかってるよ、でも、少しくらいならいいでしょ?」
「……まあ、そうですね。少しなら構いません」
相変わらず、昴は真面目な割にときどき甘い。
教室を出て、購買でいくつかお菓子を買ってから寮へ戻った。勉強会の会場ははるか達の部屋だ。この三人で勉強をするなら、ここ以上に適切な場所もない。
もちろんスペース的には『ノワール』でもいいのだが、そちらは昴に止められた。
「あそこで勉強したら結局、身が入らないに決まってます」
それも一理あるので、はるか達も特に反対はしなかった。圭一達はあそこでの勉強を許可してくれていたが、紅茶の香りや穏やかな雰囲気のせいか、あそこにいると良くも悪くも気分が弛緩してしまうのだ。
「この間と変わりありませんね」
はるか達の部屋に入った昴はそっと室内を見回し、ほっと息をつく。そういえば、風邪を引いた飛鳥のお見舞いで、彼女は前にもこの部屋を訪れているのだった。ただその時はるかは不在だったので、昴が自分たちの部屋にいるのが新鮮に感じた。
一方、飛鳥はあまり気にしていないらしく、
「適当に座っていいよ」
そう言って自分のベッドから昴にクッションを投げ渡した。それから自分も別のクッションを取り出して座る。ピンクと青の色違いで、形はどちらも可愛らしいハート形。昴に渡したのが青で、飛鳥はピンクを使っていた。
「ちょっと座りにくいけど。この部屋、クッション三つしかなくてさ」
「ありがとうございます。お気づかいなく」
そんな二人のやりとりを見つつ、はるかも自分のクッションを取り出す。実家から持ってきた品で、普段は勉強机の椅子に敷いている。紺色無地の四角形で座り心地はいいが、女の子が使う品としてはかなり地味だ。というか、これだとぶっちゃけクッションというより座布団に近い。
(今度、新しいの買おうかな)
と、飛鳥の私物クッションを改めて眺め、密かに心に決めた。
ともあれ、三人で輪になるようにして座った。間にできたスペースに教科書類を広げればいいだろう。
「そういえばテーブルが無いんだよね」
普段の勉強にはそれぞれの机があるし、食事は基本的に学食なのであまり必要ないのだ。たまに部屋で食事をする時などは困るが、折り畳み式のものにしてもそこそこかさばるので無理に必要はないのだ。
「まあ、床でいいんじゃない?」
「そうですね。幸いフローリングですし」
するとあっけらかんと飛鳥が言った。昴もそう言って頷いたので、そういうことならはるかも別に構わない。それぞれに勉強道具を取り出してテスト勉強を開始した。
中間テストは来週の月曜日から三日間なので、いつの間にやら一週間前を過ぎている。大体の試験範囲も既に分かっていた。
「確か、はるかさんは英語が苦手なんでしたよね」
「うん、そうだよ」
昴の問いに答えたのは、はるかではなく飛鳥だった。ちなみに、二人ともそれで正解だ。
どちらにも特に伝えた記憶も無いのだが、二人とも当たり前のようにはるかの苦手科目を言い当てているのは何故だろうか。
「それくらい、授業中のはるかを見てればわかるよ」
「ですね」
と思ったらそんな風に言われてしまった。はるか自身は集中しているせいで余り周りが見えていないのだが、飛鳥達には結構観察されているらしい。
もし他の子からもそんな風に見られているなら、もっと授業中の仕草にも気を遣った方がいいのかも。
「それじゃあ、英語をやろっか」
「うん、わかった」
その提案にはもちろん、異存はなかった。
「はるかさんは、英語のどういうところが苦手ですか?」
「ええと、覚えることが多いところかな。英語は特に、全く知らないことを覚えている感じがして」
あらためて聞かれると表現の仕方に困ったが、敢えて言うとそんな感じだ。社会科や理科も暗記項目は多いが、あちらは何というか「身近なものをあらためて理解している」感があるのでまだ覚えやすい。一方、英語はあまり馴染みがないせいか、取っ掛かりが掴めなくてやりづらい。
逆に、実生活の応用が利きやすい現国がはるかの得意分野だ。
「あー、なるほど。あたしは暗記より文章題とか計算問題の方が苦手だな」
すると飛鳥がそんな風に感想を漏らす。彼女は知識を問う問題の方が得意らしい。
「そうなんだ」
「うん。一回覚えちゃえばいいんだから楽じゃない?」
「その覚えるまでが難しいよ……」
「その辺りは得手、不得手もありますからね」
昴がくすりと笑い、二人の雑談に口を挟んだ。
「そうですね……暗記は確かにコツを掴まないと難しい部分があります。法則性を見出したり、はるかさんの仰ったように身近なイメージに置き換えるのも良い方法だと思います。要は覚えられればいいわけですから」
「歴史の年号とか、よく呪文みたいになるもんね」
飛鳥の合いの手に、ええ、と頷く昴。
「そんな風に何かしらの手がかりを掴めば、ただ覚えるよりぐっと楽になると思います。英語の場合は実際、他言語なので掴みにくい部分はあると思いますが、逆に言えば言語なので慣れると逆に覚えやすいのではないかと」
「ふむふむ?」
「単語ごとではなく、例文単位で覚えるとか。時間があれば英語の本を読んでみるのもいいかもしれませんね」
こういうのは得意分野というか、熱が入る部分なのか、昴は訥々とはるか達に勉強の仕方について語ってくれた。いつにない力説に驚いたが、参考になる内容も含まれていたように思う。
それから各々教科書とノートに向かい、それぞれに勉強しつつわからない点を教え合った。飛鳥と昴がそれぞれに自分なりのやり方を教えてくれたおかげか、独力で勉強するのとは違う成果があったように思う。
お菓子もせっかく買ったので、夕食に差支えないよう配慮しつつ、合間につまんだ。夕食の時間にはいったん中断し、また部屋に戻って再開する。食事時で解散しても良かったのだが、特に誰も解散を言い出さなかったのでなし崩しに続行になった。
解散したのは八時を回り、そろそろお風呂に入らないとまずいという時間だった。
「またね、昴」
「はい、また明日。もう一度くらい、どこかでお勉強しましょうね」
「そうだね。うん、楽しみにしてる」
部屋に戻る昴を見送ると、後はシャワーを浴びて寝るだけだ。
二人のお陰で勉強も捗ったし、次の勉強会の約束もできたのでなんだか達成感がある。
「はるか。テストはなんとかなりそう」
「うん。少なくとも赤点とかはないんじゃないかと」
シャワーの前に飛鳥と短く言葉を交わした。飛鳥は大浴場の方へ行くらしい。
「はるかも一緒にお風呂行ければいいのにね」
「しょうがないよ。水着着て入るわけにもいかないし」
「まあねー。……水着といえば、プール開きも多分もうすぐだよね。体育祭のちょっと後だっけ? はるか、そっちは大丈夫?」
「うん、一応フリル付いてるから目立たないし。あとはインナーとかで矯正するから……って、飛鳥ちゃん、なんか変な顔してない?」
「そう? 今度見せて貰おうと思ってるだけなんだけど」
「……それも、できれば勘弁して欲しいかな」