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ロールプレイング・ハイスクール  作者: 緑茶わいん
五月病と初夏の日々
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五月病と初夏の日々 8

 休み明けの月曜日は軽めの練習で切り上げたため、翌日には筋肉痛もほぼ全快した。

 そして火曜日。はるかは放課後に身体を動かし始めて以来、初めての体育に臨み、そこで自身の身体の変化を実感した。


 この日の種目は前回に引き続き徒競走。

 まず、ウォームアップとして軽く校庭を走らされたのだが、この時点で変化を感じた。

 以前よりも格段に身体が軽くなっていたのだ。

 筋力がついたとか運動神経が良くなった訳ではないのだが、身体の動きがぐっとスムーズになった。続いていた不調から抜け出せた感じで、放課後にダンスの練習を始めた確かな成果だと思われた。

 ウォームアップの後、二人ずつ100メートルを走る段になれば結果はタイムにも現れた。前回のベストから、タイムをぐっと縮めることができたのだ。走りだしや加速もスムーズに行ったし、途中で転んでしまうような醜態も晒さずに済んだ。


「はるか、凄いよ! 大分良くなったじゃん」

 一本走り終えて生徒達の輪に戻ると、飛鳥が駆け寄ってきてはるかを抱きしめた。

「うん、ありがとう。練習した甲斐があったみたい」

 はるかもまた笑顔で答え、二人で喜び合う。昴は徒競走の順番待ちをしていたため、そっとはるか達に笑顔を送ってくれた。嬉しく思い、手を振って答えた。縮まった後のタイムでようやく飛鳥とは互角、運動神経のいい昴には大分水を開けられる結果だったが、はるかとしては十分満足だった。


 と、はるかはそこで別の視線を感じた。

 そちらに顔を向けると、真穂がはるか達を見ているのがわかった。

「先生、どうしたんだろ?」

 つられて視線を動かした飛鳥が小さく呟く。聞こえたわけでもないだろうが、真穂はその後すぐに顔を背けてしまった。

(そうだ。乃木坂先生にも、今度お礼を言わなくちゃ)

 場所を借りられたのは真穂のおかげだし、この前は授業を止めてしまったこともある。

 今度、鍵を返す時にでもしっかりお礼を言おうと、はるかはそっと心に決めたのだった。


 *  *  *


 乃木坂真穂は今年で二十九歳になる。学生時代は陸上に打ち込み、大学を卒業してすぐ体育教師の職についた。教師になってからもう大分経つ。若者と呼ばれるのは仕方ないが、いい加減新米ではない。そう思って仕事に励んでいるものの、今年度に入ってからはどうも本調子ではなかった。

 その原因は、今年度から勤務先の学校が変わったためだ。


 真穂は去年まで、清華学園高等部の本校に勤めていた。本校は真穂の母校でもある。様々な思い出の残る学び舎が教員を募集していると知り、一も二も無く飛びついた結果だった。

 これ以上ない職場を得られたことで、真穂は当然、熱心に仕事に励んだ。しかし去年、学校側から転勤を打診され、今年から分校での勤務となった。

 それ以来、真穂はどうにもしっくりこないものを感じていた。

 離島という慣れない土地。学校を移ったことによる人間関係の変化。女子校と共学の違い……等々、様々な理由があるが、ひっくるめるとこの分校が肌に合わない、ということに尽きる。

 それは、大好きな本校と比較してしまっていることも大きいのだろうが。


『一ノ瀬飛鳥 授業態度:普通、生活態度:良好、健康状態:良好』

 火曜日の夕方。真穂は職員室内や校舎の雰囲気が落ち着いてきたのを見計らい、ある「レポート」を広げていた。クラスの担任や部活動の顧問などに対し、定期的な提出が義務付けている、特待生の観察報告だ。特待生について良く思っていない真穂だが、仕事である以上、レポートは提出しなければいけない。

(特記事項、特になし……と)

 このレポートは省力化のために専用の用紙を使用している。生徒氏名欄や幾つかの基本項目、それから特記事項欄のある用紙に必要事項を記入していけば、それでレポートが出来上がるというわけだ。基本項目は選択式になっているし、特記事項欄は「特になし」でも問題はない。なので、記入作業自体はさして時間のかからない。

 ちなみにこの書類は(当然ながら)部外秘だ。教員や一部の事務職員等、特待生制度について知っている者以外に開示することは禁じられている。記入し終えた後もすぐに封筒に入れ、封をする決まりになっていた。

 真穂は大概、この位の時間に職員室で作業をしているが、その理由も漏洩防止のためだ。昼間の職員室は生徒も良く出入りするので、なるべく作業は遅い時間に行うよう心掛けている。


(ええと。次は小鳥遊さんか……)

 何名かのレポートを記載し終え、真穂が小鳥遊はるかのレポートに取り掛かった頃、

「おや、レポートですか。お疲れ様です」

「うひゃあ!?」

 突然背後から声をかけられ、真穂は変な声を上げてしまった。あまり書類仕事は得意でないせいか、集中しすぎて周囲に意識が向いていなかったらしい。

「すみません、驚かせてしまいましたか」

 そう言ってすまなそうな顔を見せたのは、真穂とは旧知の男性教員だった。教員といっても授業科目を担当しているわけではなく、週に一度分校を訪れて相談員(あるいはカウンセラー)の役割を担っている人物だ。本校でも「相談の先生」を担当しているため、真穂にとっては数少ない、以前からの顔見知りだ。

 彼も特待生制度については把握しているため、レポートを見られてまずい相手でない。そのことにまず、ほっとする。羞恥から顔が赤くなっているのを感じつつ、真穂も彼に謝った。

「いえ、こちらこそすみません。変な声を上げてしまって」


 言いつつ、相手が彼で良かったと心中で呟く。まだ付き合いが浅い他の教員に聞かれるよりはずっと気が楽だった。彼とは毎日、顔を合わせるわけでもないし。

「いえいえ。ところで如何ですか、調子は?」

 相談員である彼が調子、というからには主に生徒達のことだろう。そうあたりをつけつつ、真穂は答える。

「ええ、生徒達はいつも通りです。特に問題は起こっていません。ただ……」

 そこで思わず口ごもった。ふと目を落とした拍子にレポートが目に入ったからだ。

「やっぱり特待生制度が気に入らない、ですか」

「あの、すみません。声が……」

 歯に衣着せぬ物言いと声量に思わず指摘すると、彼は苦笑して「おや、失敬」と呟いた。一応、周囲を見回してみたが、こちらを気にしている職員はいないように思えた。


(良かった)

 ほっと息をつく。彼の言葉自体を訂正させるつもりはなかったが、分校の教員は特待生制度を肯定的に捉えている者が多い。今の話を聞かれると色々と面倒だ。

 その点、この男性教員にはそういった遠慮は必要ない。旧知の仲で、相手も真穂の性格もある程度知っているからだ。ただ、彼自身が真穂の意見に賛同してくれるかというと、そういわけではなかったが。

「私としては割と有意義な実験だと思うのですが。生徒達のことを考えると辛いお気持ちも分かります」

「ありがとうございます」

 それでも彼は真穂にそう言ってくれる。立場上、色々な意味で制度を否定しにくいだろうに、言葉を選びながら真穂に配慮してくれたのだ。その気遣いを嬉しく思う。

(あんまりこの話題は続けない方がいいかな)

 お互いのためにそう考え、真穂は話題を変えた。

「それより、本校の方は変わりありませんか?」

 すると、今度は相手に苦笑されてしまう。

「それ、今年度に入ってもう二度目ですよ」

「あ……すみません」

 指摘されてまた顔が赤くなった。


「やっぱり、戻りたいとお考えなんですね」

「ええ、まあ」

 直球で問われ、やや言葉を濁しながらも頷く。彼の言葉はまたも真穂の本心を的確に突いていた。

 本校に戻りたい。それはこの学校に来てからずっと真穂が思っていることだ。 

 慣れ親しんだ母校。あの学び舎に、出来ることならすぐにでも戻りたかった。

 そもそも本当は分校行き自体嫌だったのだ。私立高校である以上、転勤も「辞令」ではなく「打診」なので、実際何度か断った。けれど、何度も繰り返し依頼されて仕方なく転勤を受け入れたのだ。


 特殊な環境にある新しい学校なので、貴女のような若い先生が向いている。

 学校側から言われたのはそんな謡い文句だっただろうか。

実際、この分校にやってきて、その言葉がまるきりの嘘ではなかったと感じた。都会を離れて転勤になるので家族連れには厳しいし、真新しい綺麗な校舎はフレッシュな印象がある。

 けれど、やはり真穂には元いた本校の方が性に合っているのだった。

「まあ、お気持ちはわかります。でも、私は学園側の決定も英断だったと思いますよ」

「と、言いますと?」

「考え方や感じ方の違う人間がいた方が、物事には深みが増す、ということですよ」

 それだけ言うと、男性教員はそっとその場を離れてしまう。


「あの」

 呼び止めた声が聞こえたのか、どうか。

 結局彼は振り返ることなく職員室を出ていった。

 一応、激励されたのだろうか。

 残された真穂は彼の真意を掴めず奇妙な心持ちになった。

(まあ、いいか)

 結局、あまり気にしないことにして、真穂はレポートを再開した。

『小鳥遊はるか 授業態度:良好、生活態度:良好、健康状態:良好』

 半ば機械的に記入し、特記事項に差し掛かる。

流れで「特になし」と記入しようとして、ふと手が止まった。

「……んー」

 体育祭に向けて身体を動かしたい、と言った彼の顔が思い浮かんだ。

 それから、今日の授業中の姿が。

 一ノ瀬飛鳥と抱き合い、楽しげにはしゃぐそれを思い出し、何故だか真穂は苛立った。

 ふっと息をついてペンを動かす。

『特記事項:特になし』

「……ま、こんなもんでしょ」

 真穂は誰にともなくそう呟いた。

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