出会いの季節 2
そう。実を言えば、小鳥遊はるかは女子ではなく男子だ。
名前は本名。年齢など、性別以外の要素に偽りはない。中学まではごく普通に男子生徒として生活していたし、女装癖や性転換願望があるわけでもない。
にも拘らず『彼』が女子として分校に入学したのには理由がある。
だが、この状況で自ら弁明を始めることは、はるかにはできなかった。
「はい、これ。良かったら飲んで」
最悪な形で正体が露見してから数分後。
はるかは自前の猫柄パジャマに着替え、寮の部屋の床に座っていた。パジャマは女の子用の可愛らしいもので、余計に悪印象を買う恐れもあったが、そもそも男物の服を持ってきていないので他にどうしようもなかった。
「……ありがとう、ございます」
ぶっきらぼうに差し出されたペットボトルのミネラルウォーターを受け取り、飛鳥に小さくお礼を言う。飛鳥は返事をせず、ただ黙って頷いた。
あの時、気が遠くなったのはほんの一瞬だった。あるいはそのまま意識を無くしていた方が楽だったかもしれないが。飛鳥の悲鳴を聞きつけた生徒が何人も駆けつけてくると、その思いは撤回せざるをえなかった。
何かあったのかと尋ねる生徒達を、飛鳥は何故か「何でもない」と言って追い返した。廊下に静寂が戻ると、彼女はいったん部屋を出て寮内の自販機で飲み物を買い、戻ってきたのだった。
飛鳥が正面の床に腰を下ろす間に一口、ミネラルウォーターを口に含むと、冷たい液体が喉をゆっくり通っていった。そのおかげで少しだけ落ち着く。
視線を前に戻した途端、弛緩した気分は一気に引き戻されてしまったが。
「男の子だったんだね」
静かな声が室内に響いた。
飛鳥の表情は穏やかだったが、そのせいで意図が読めず逆に恐ろしい。
「……はい。ごめんなさい」
はるかは俯くようにして頷いた。はるかが男子で、飛鳥を騙していたことは事実なので弁解のしようもなかった。それだけでも十分、飛鳥がはるかをなじり、罵る理由にはなるだろう。むしろあの場で即、そうならなかっただけ寛大な処置だと思える。
だからはるかにはそれ以上何も言えない。
数秒か、数分か。沈黙に耐えながら飛鳥の反応を待つと、やがて飛鳥が再び口を開いた。
「いいよ。許してあげる」
予想外の言葉が聞こえた。
驚いて顔を上げると、飛鳥の顔には苦笑が浮かんでいる。
「あれでしょ? 特待生。なら、そういうものなんだし仕方ないじゃん」
続けて彼女が言った台詞は、はるかの抱える『事情』を的確に突いていた。
特待生。清華学園において、その言葉は特別な意味を持っている。
というのも、私立清華学園の特待生制度は他の学校と異なり、成績優秀者や一芸に秀でた者を優遇するための制度ではないからだ。学園ではこの制度を、学園の運営団体が進める『ある実験』への協力者に与える特典、あるいは優遇措置として利用していた。
今の特待生制度が敷かれたのは五年前。それ以前は学園でも通常の特待生制度が実施されていたらしい。分校が設立された年とタイミングが一致するのは、そもそも分校の設置目的の一つが『実験を行う場所の確保』だったからだ。
「背反パーソナリティの共存による相互補完の検証」
そんな名前で呼ばれているその実験は、心理学における新理論を証明するために行われている。学園が主導しているのは、理論を提唱した心理学者を学園の母体グループが後援しているからだ。
はるかも詳しくは把握していないものの、実験の元となる理論は簡単に言うと「自分と違う性格や人格、個性の人間を自覚的・継続的に演じることで、その過程において自己認識の強化や能力の向上が見込める」というものらしい。これをある程度、長期間にわたって実践するため、学園の高等部に通う生徒を実験に協力させる方法が採られている。
実験において具体的に何をするのかと言えば、まず受験者の中から学園側が独自に特待生候補を選抜する。この際、受験者が自分から志望するこもできるが、その場合でも学園側の審査により当落が決定される。結果、選抜された生徒の中から実験に同意した者だけが特待生となる。
特待生となった者は自動的に分校へ入学となり、入学時に学園側から一つ「設定」が与えられる。設定の内容は本人の行動や嗜好に関わる場合が多く、元の立場や思考とはかけ離れた内容が選ばれる傾向がある(例えば、肉好きの人間であれば「ベジタリアン」という設定など)。特待生は与えられた設定に基づき三年間、演技しながら学園生活を送ることが義務付けられ、また他の生徒には極力、自身が特待生であることや設定の内容は明かしてはならない。逆に一般生徒も他生徒が特待生かどうかみだりに詮索してはならない。
特待生に与えられる恩恵は入学金の免除、学費の減額等、一般的な制度と遜色ない。清華学園の高等部はそれなりに程度の高い進学校であることもあって、毎年特待生度の希望者は多いようだ。もっとも、その多くが審査を通過できないか、あるいは学園側が提示した設定を聞いて断念するそうだが。
はるかもそんな特待生の一人だが、彼の場合はやや特殊なケースだった。
はるかはもともと特待生を志望しておらず、学園高等部を一般受験していた。学力テストの点数が足りず結果は不合格だったのだが、そこに学園側から特例措置が下った。一般生徒としてではなく特待生としてなら入学を許可されたのだ。
不思議な話ではあるが、そもそも特待生の選考が学力を基準にしていないので、稀にこうした事例があるらしい。どうしても学園に入学したかったはるかは渡りに船、とこの申し出を受けた。
そしてはるかに与えられた設定というのが、
「女子生徒。それも周囲から愛され、親しまれるような女の子、とのことでした」
「……え、なんか指定細かくない?」
はるかが告げた設定を聞き、飛鳥は目を丸くした。はるか自身、それは同感だった。
「実際、こういう指定は珍しいみたいです。もっと大雑把な設定が普通だとか」
一般受験に落ちているためのペナルティというか追加指定のようなものなのか、あるいは別の理由があるのかはわからない。尋ねてもそれは教えて貰えなかった。
ただまあそういうわけなので、はるかが女子として入学したのは学園側も承知している。というかむしろ学園側からの指示によるものだ。
「ってか、他の人からの評価を指定されても困らない?」
「そこはあくまで本人側の設定なので、いわば努力目標だと言われました」
設定は個人のものであって周囲には共有されない。だから大事なのは本人の努力。はるかの場合で言えば、皆から好かれる女の子を目指して生活していれば結果は問われない、ということだ。
「なるほどね。……いや、でもそれ、やっぱり無茶振りじゃない? 諦めて他の学校に行くんじゃ駄目だったの?」
飛鳥の疑問はもっともだ。実際、はるかも家族からは反対された。だが、
「それでもここに通いたかったんです」
「どうして?」
「憧れだったから、です。小さい頃からの」
はるかには年の離れた姉が一人いる。彼女は清華学園高等部の卒業生で、そのためはるかは小さい頃、まだ在学中だった姉が毎日楽しげに登校する姿を見ていた。それがいつしか学園への憧れに繋がっていったのだ。
ただ、都内にある本校は女子校で、当時まだ分校は存在すらしなかった。そのため、はるかは「高校生になったらお姉ちゃんと同じ学校に通いたい」と言うたび、姉は困ったように微笑んでいたのだが。
後にこの分校が共学校として新設されたことで状況は変わった。はるかは当然のように分校を受験し、結果は不合格だったが、特待生制度に拾われた。
「どんな形でも、入学できるならそれを手放したくないと思ったんです」
分校に通うことが『姉と同じ学校へ通う』ことになるかと言えば微妙かもしれない。
そもそもの動機自体、他人から見ればなんてことのない話かもしれない。それでもはるかは、どうしても思いを捨てきれなかった。
だから家族と何度も話し合い、入学を許してもらった。
『いいんじゃない。それも良い経験になるよ、きっと』
そう言って最初に折れたのは姉だった。彼女も両親の説得に協力してくれ、最終的には家族みんなが応援してくれるようになった。面白がった母や姉は積極的に女装をレクチャーしてくれたし、入学決定後はなるべく女装で過ごすようにして女装に慣れた。
最初は慣れなかったし違和感だらけだったが、幸い容姿としては適している方だったのでそれは助かった。何か月もかけて練習していくうちに慣れが生まれ、少しは自信もついた。
「それでも、いざやってきて見たら全然駄目でしたけどね」
思わず苦笑がこぼれる。島に到着してすぐホームシックにかかるくらい不安で一杯だったとはいえ、さすがに入学式すら迎えずに正体が露見するとは思ってもいなかった。
「あ、あれは偶然だよ!」
飛鳥が首を振り、大きな声で言った。彼女の手がはるかの手をそっと包む。
「違和感なかったからこそああなったっていうか。あたしも勢い余ったっていうか」
はるかの話に何を感じたのか、彼女の目尻にはうっすら涙すら浮かんでいた。
「あたし、本当に気にしないからさ。辞めるつもりながら、考え直そう?」
「でも、あんな所見せちゃったわけですし……」
飛鳥が言った通り、はるかは学校を辞めることを考え始めていた。こうなってしまった以上、性別を偽って生活を続けるのは難しいだろうし、何より自信も無くなってしまった。
「別に誰かの正体がバレたからって、即アウトってわけじゃないでしょ? あたしが黙ってればオッケーなんだったら、黙ってるよ!」
それは、飛鳥の言う通りだった。
正体の露見は極力避けるのがルールだが、絶対ではない。例えば同じ学校から入学する生徒がいれば事情を説明せざるをえないだろうし、それ以外でも一人か二人などごく少数の身近な生徒を「協力者」とすることは認められている。
「でも、そこまでしてもらう理由がありません」
はるかの事情を納得してくれたのは嬉しいが、飛鳥からしたら男子と四六時中、一緒に生活することになってしまう。そんなのは普通の女の子なら嫌に決まっている。
はるかはそう思ったのだが。
思いがけず、飛鳥は本気のようだった。その瞳には真摯な色が浮かんでいる。
「あるよ。せっかく友達になったのに、これでお別れなんて嫌だし。はるかだって、ここで学校辞めたら困るでしょ?」
これも図星だ。
一度入学した以上、特待生を諦めるなら退学か転校する必要がある。通常なら特待生資格を失って一般生徒になることも可能だろうが、はるかの場合は性別を偽って入学していること、一般受験に落ちていることからそれは難しい。可能であればこのまま特待生を続けるのがベストなのは確かだった。
退学を決めかけていた気持ちが揺らぐ。
もちろん、本当ははるかだってこの学校に通いたいのだ。なにせ、女装してまでこの学校に入ることにこだわったのだから。
「ね?」
言葉を返せないまま迷っていると、まっすぐにはるかを見つめた飛鳥が微笑んだ。
思えば、いつの間にか彼女の印象が大分変わっていた。人懐っこい子というイメージは変わらないが、案外世話焼きなところがあるようだ。それから見た目以上にしっかりしている。
(せっかく友達になったのに、か)
本当に飛鳥は良い子だった。そう思うと、彼女とこのまま別れるのも勿体なくなる。
彼女と生活を共にできたら、きっと楽しいだろう。
「ありがとうございます」
そう思い、はるかは心を決めた。
「これからも、よろしくお願いします」
もらい泣きか、溢れてきた涙を拭いながら、はるかは深く頭を下げた。
「決まりだね。あ、ちなみに敬語に戻ってるけど、それ禁止だから」
冗談めかした飛鳥の言葉がまた嬉しかった。
顔を上げてしっかり頷く。自然と顔には微笑が浮かんだ。
「うん。ありがとう、飛鳥ちゃん」
こうして、はるかの学園生活は始まりを迎えた。
始まる前に終わりかけた新しい日常がこれからどうなるのか。もちろん、はるかにはまだ知る由もなかったが、素敵なルームメイトに出会えた幸運にそっと感謝した。