五月病と初夏の日々 7
「やりすぎ」
ぺし、と腕を軽く叩かれる。と、身体が反射的にぴくりと動き、
「痛っ」
ずき、と鈍い痛みが走った。
慌てて身体から力を抜くと痛みが和らいだ。けれど、全身を襲うズキズキ感は残る。あちこちの筋肉が強張っていて、少し動かそうとするだけで物凄い抵抗感だった。
「うう……」
視線で抗議すると、ベッドサイドに座った飛鳥から白い目で睨まれた。
「や、完全に自業自得でしょ。これは」
呆れた声と共にため息をつかれた。
「昨日とか結局、何時間くらい身体動かしてたの?」
「えと、五時間くらい?」
「……へえ」
素直に答えると飛鳥の声が冷たくなった。
す、と彼女の右手が持ち上がるのを見て、付け加える。
「でも、ほら。休憩とか入れた時間も含んでるし」
「当たり前でしょ。入れなかったら倒れるってば」
弁解が逆効果だったか、飛鳥の手はそのままはるかの身体に伸びた。
猫柄パジャマのボタンを一つ外し、薄い胸をそっと撫でられる。
「ひぅっ……」
思わず変な声が漏れた。身じろきしようとして、またずきりと身体が痛む。
「もう、無理しすぎだよ。それで全身筋肉痛になってどうするの」
「あはは、面目ないです……」
全面的にはるかが悪いので、これには返す言葉もなかった。
と、いうわけで。ダンスの練習を始めて二日後の日曜日、はるかは見事に筋肉痛だった。
朝、目を覚ました時点で全身が痛み、起き上がるのも難しい有様だった。仕方なくそのまま寝転がっていると飛鳥が起きてきて今に至る。
「まあ、日曜で良かったよね。学校なんて絶対無理でしょ」
起き上がるのも辛いのだから、投稿なんてもっての他だ。我慢して教室に辿り着いたとしても筆記用具を握れるかどうか。
「とにかく今日はゆっくり休んでてよね」
「はーい」
どのみち、この状態では何もできない。
「で、はるか。朝ごはんどうする?」
そこで飛鳥が話題を変える。時間的にはそろそろ食堂へ向かった無難だ。
「私はいいよ。飛鳥ちゃんだけで行ってきて」
飛鳥の問いに少し考えて、はるかはそう答えた。
「いいの? この前みたいにご飯貰ってきてもいいけど」
「うん。起き上がるのにまだ時間かかるかもしれないし。そうすると片付かないでしょ。最悪、買い置きもあるしさ」
前に飛鳥が熱を出した時の反省から、部屋にはカップ麺などインスタント食品を常備してあった。せっかく買ったものだし、こういう時こそ活用するべきだろう。
「そっか、わかった」
飛鳥も納得して一人で食堂へ向かってくれた。彼女を見送り、はるかはもうしばらくベッドで休息を取った。筋肉痛の場合は眠っているより意識があった方が休まる気がする。
「ただいまー」
「おかえり、飛鳥ちゃん」
「具合どう? 少しは良くなった?」
「うん。起き上がるくらいならなんとかなるかな」
答えながら身を起こす。まだ身体は痛むが、起きた時よりはマシになった。
「そっか。じゃあさ、マッサージしてあげるよ」
すると飛鳥はそんなことを言ってくる。
「え、いいよそんなの」
さすがに悪いし、何より恥ずかしい。
そう思って拒否したのだが、有無を言わさずベッドにうつ伏せに寝かされた。
「いいからいいから。ほら」
ついでにパジャマの上をはぎ取られる。背中側から手を回してボタンが外すとは器用なものだ。パジャマが脱げれば、ブラのホックも簡単に外されてしまった。
「せめてパジャマ着替えてからじゃ駄目?」
「だーめ。着替えたら逆にやりにくいでしょ」
抵抗しようにも身体をうまく動かない。
飛鳥ははるかのお尻あたりに馬乗りになると、両足ではるかの身体を挟みこんだ。柔らかな肌の感触が服越しに伝わってきてどきどきする。
「汗臭くない?」
離れてほしいと言っても無駄だと思うので、はるかは代わりに別のことを尋ねた。寝苦しかったせいか、いつもより汗をかいている気がする。
「んー? 大丈夫、全然平気だよ」
それは臭わないって意味なのか、それとも臭くても気にしないという意味だろうか。
「っていうか、何してるの?」
背中側なので見えないのだが、何やらすんすんと鼻息が聞こえる。
「え? 匂い嗅いでるだけだよ?」
「ごめん、それはさすがにやめて……」
上半身裸の状態で女の子に乗っかられ、直接匂いを嗅がれる。恥ずかしいなんてものじゃないので、それは勘弁してもらった。
などとやりとりを繰り広げた後、飛鳥はしっかりマッサージをしてくれた。凝り固まった筋肉を優しく解されると、不思議な気持ちよさを感じた。
「飛鳥ちゃんはマッサージとか得意なの?」
「ううん、何となくでやってるだけ。やっぱ効果ない?」
「そんなことないよ。気持ちいい」
柔らかな指が直接背中に触れ、適度な強さで身体を刺激する。マッサージなんて初めてなので上手い下手はわからないが、飛鳥の心遣いが感じられて嬉しかった。
やがて背中越しの会話は、はるかの放課後の動向に向いた。
「そういえば、ダンスしてるんだっけ?」
「そうだよ。ええと、これ」
枕元に置きっぱなしだったスマートフォンを手に取り、動画を再生して見せる。
「あ、このグループか。好きなの?」
「うん、好きだよ」
たまにCDを聞く程度だが、お気に入りのアーティストだ。実はスマホの着信音に設定る曲も同じアーティストのものだったりする。
「趣味、って程でもないけどね。他のグループは良く知らないし」
「なるほどね。そういうの好きならダンス部とか、アイドル研とか入っても良かったんじゃないかと思ったんだけど」
「それは、ちょっと恥ずかしいかな……」
特に後者は女子が入るには危険な部活じゃないだろうか。それともアイドルを志す女の子向けの部活だったり?
「そこまでするのはちょっとあれだけど、音楽の話とか聞く機会は増えたかな」
分校に入学して以来、女子のグループにいるせいか話題の質も変わった。そのせいか歌手とかアイドルとか、そういう話題を聞く機会も増え、はるかも前よりは詳しくなった。はるか達の部屋にテレビは無いので、音楽番組とかは見ないけれど。
「飛鳥ちゃんはそういうの聴かないの?」
「んー、あんまり聴かないかも。友達が好きなの借りるくらいかな」
「そうなんだ、ちょっと意外」
思えば、確かに飛鳥が音楽を聴いている場面は見たことがなかったかもしれない。
しばらくそうやって会話を続けていると、不意にはるかのお腹が小さく鳴った。どうやら空腹の限界が近づいてきたらしい。くすっと笑って飛鳥が身体を離してくれた。
部屋の中を動き回るくらいならなんとかなりそうだったので、小型のポットでお湯を沸かして、カップのうどんを啜った。後片付けをしたら、別のパジャマに着替えて再びベッドへ。今日はもう、のんびり過ごすことにした。
「はるか、マンガでも読む?」
とはいえ眠る気にもなれず、上体を起こしたまま手持無沙汰にしていると、そんなはるかに飛鳥が言った。自分の机から本を取り出して示して見せる。
「漫画? どんなの?」
「恋愛ものだよ。あ、こういうの読んだことないか」
「うん、そういうのはあんまり」
どうやら少女マンガの類らしい。小さい頃は姉の愛読書を借りて読んでいた覚えもあるが、それも大分記憶の彼方に遠のいている。年頃の男子として、女子の読むものというのはそれだけで敬遠していた。
「でも、貸してくれると嬉しいな」
今はもう、男女がどうとかで区別する気持ちもない。女の子たちとの話題作りの一環、それと単純に飛鳥が好きな本を共有したいという思いから、はるかはそう言った。
「そっか。じゃあ貸してあげる。読んでみて」
飛鳥がぱっと顔を輝かせ、本を差し出してくれた。
「ありがと」
それを受け取って、最初から読み始める。
内容は、オーソドックなラブストーリーだった。恋愛に興味の無かった女の子が、女たらしのプレイボーイと出会い、反目しあいながら互いに惹かれあい、やがて恋に落ちていく。
少年マンガに比べると意外性や派手な演出には乏しいが、その分キャラクターの心情描写が緻密だ。初めは絵柄に拒否反応が出たが、ページをめくるうちに少しずつ物語に引き込まれ、気づくと一巻を読み終えていた。
「はい、これ」
顔を上げると、にこにこと笑う飛鳥の顔がすぐそばにあった。彼女はすっと、二冊目を差し出してくる。素直に受け取り、お礼を言った。
「……ありがと」
代わりに一冊目を返すと、飛鳥はそのままベッドの脇に寄りかかり、それを読み始めた。なのではるかも二冊目を読み進める。読み終わるとまたリレーのように本が橋渡しされ、二人でただマンガを読みふけった。
途中に昼食を挟み、部屋に戻るとまたマンガの続きを読む。飛鳥に聞くと既に完結済みマンガということで、それを聞くと逆に、最後まで読まないと落ち着かなかった。
時折、トイレなどで席を立つ以外はただ、ページをめくり物語を追うだけの時間が続く。それはとても緩やかで、優しい時間だった。
不意に飛鳥が呟く。
「こういうのも、悪くないね」
「……うん」
はるかもまたそれに頷いた。
休みの日はどこかに出かけたり、圭一達の気まぐれで『ノワール』に呼ばれるなどで潰れていたので、部屋でのんびり過ごすことは少なかった。それから普段なら部屋で過ごすにせよ、もう少し騒がしいことになる。
はるかに気を遣ってくれているのか、飛鳥が大人しいこともあって、いつになく緩い休日を過ごすことができた。
そのおかげか、はるかの筋肉痛は翌日には大分和らいだのだった。




