はるかの選択 9
柳田との話し合いはあっけなく済んだ。
はるかが自分の意思を伝え、柳田が了承した。たったそれだけだ。
「では、そういうことで。正式な契約はご家族も交えて……そうですね、冬休みにでも行いましょう。それまでは仮契約ということで。こちらから要求はしませんが、活動は始めていただいても結構です」
「わかりました」
ついでに、あの時の言動について問いただすと、彼は「大した意図はありませんよ」と笑った。
「単に、どう転んでも構わなかった、というだけです。どういう結果になるにせよ、興味深い事には変わりない」
やはりこの心理学者の考えることは良くわからない。
……まあ、彼の真意がどこにあるにせよ、はるかの意思は固まってしまっているのだが。
話し合いに同席した真穂からは、後で「たぶんこんな感じになるだろうとは思ってた」と苦笑された。
「小鳥遊さんのことだから、言っても聞かないだろうなって」
「あはは……」
口調から嫌味ではなさそう――だと思う、たぶん――だったが、どう返していいかわからず、はるかは結局、笑って誤魔化した。
由貴と圭一は、すんなりと事の成り行きを受け入れてくれた。
「そうですか。それじゃあ、今後は更にお店が忙しくなりそうですね」
「やっぱり拡張と人員の確保を検討した方がいいかもしれないね」
司からは「頑張ってね」と軽い激励をもらい、また敷島は「多少の知識はあるから」とサイトの構築や立ち上げの協力を申し出てくれる。
「最終的には小鳥遊さん達が自分でできるようになった方がいいだろうけど。最初は俺がやりつつ少しずつ教えるってことで」
「そっか。修也がそういう事するなら、私はトレーニングの相談に乗るよ。ランニングとかストレッチとか、何かわからないことがあったら何でも聞いて」
「ありがとう。敷島くん、妹尾さん。すごく助かる」
ウェブページの運用も各種トレーニングもわからないことだらけなので、彼らの申し出は素直に有難い。
なお、ひとまずネットアイドル云々の話は他の人達には秘密にしておく。まだどうなるか全然わからないし、大っぴらに宣伝する次期でもないだろう。
「まずは、できることから始めないとね」
「だね」
話し合いの翌日から、はるかは早速、朝のトレーニングを始めた。これまでより三十分ほど早起きし、体操服とジャージに着替えて敷地内を走る。飛鳥も付き合うと言ってくれたが、朝に弱い彼女には辛いだろうと断った。
あくまで体力づくりが目的のトレーニング。無理するつもりはなかったが、やってみるとそれでも結構疲れる。普段体育の授業でしか運動していないせいか、やっぱり体力は不足しているらしい。
ボイストレーニングとダンス練習に関しては、真穂に頼んで部室棟の空き部屋を借りた。前にも何度か使ったあの部屋だ。当面はそこで少しずつ発声練習をする。
『曲は当分、私達のを使えばいいよー。オリジナルの曲なんて簡単には作れないでしょ?』
『ノートパソコンとか、あとウェブカメラとか? 今度、適当に見繕って送ってあげる』
姉達もあれこれとサポートしてくれる。特に詩香は仲間ができたのが嬉しいのか、電話やメールをするといつも上機嫌だ。
機材が揃ったら本格的な練習も始められるだろう。
(パソコンがあれば、前と違って画面見ながらダンスの練習できるしね)
もちろん、普段の生活に新しいタスクが加わったことで弊害もある。例えば、早起きと運動のせいで授業中に眠くなったり、食事の量が増えたりだ。かといって居眠りや暴食もできないので一生懸命自制する。そのうち慣れてくるだろうから、それまでの辛抱だろう。
そうこうしているうちに十二月に入り、程なくしてまた定期テストの時期がやってきた。
「テスト前も練習続けるの?」
「うん。こういうのって一日サボると取り戻すのに三日必要だって言うでしょ? だから少しずつでも続けないと」
最近は、お風呂上がりに飛鳥からマッサージしてもらうのが日課になった。運動するようになったので、ほぐしておかないとすぐ筋肉痛になるのだ。
「そうだね。でもほどほどにしなよ? それから」
「それから?」
「あんまり筋肉つけすぎないようにね。はるかには似合わないから」
「き、気をつけます……」
結果、二学期の期末テストは大きく成績が落ちることはなかったが全体的に下がり気味。学業との両立の難しさを思い知った。
そして、テストが終わればすぐに冬休みだ。
多くの一年生にとっては二度目の帰郷になる。はるかは何だかんだ実家に帰っていたので、あまり久しぶりな気はしないが。
代わりにというか、楽しみなイベントもあったりする。
「はるかちゃん達と一緒に船に乗るのは初めてですね」
十二月二十日。はるか達『ノワール』の面々は終業式を終えた後、慌ただしく午後の船に乗った。夏休みのように日数が多くはないので、早めに帰ってしまおうという判断だ。
あとは、お互いの事情を知ってしまったので今更遠慮する必要がないのもある。
「お休みの前だし、賑やかな方が楽しいですよね」
隅の座席に四人固まって腰かけ、のんびりと雑談に耽る。船の時間が長いのはもうよくわかっているので、誰も必要以上にはしゃいだりはしない。
(でも、こうしてみると)
由貴と圭一の私服姿には二人の人柄が現れていると思う。時折見かけた私服の由貴が妙に上品な感じだったのも、圭一が割合ラフな感じだったのも今なら頷ける。
まあ、そう言うはるかは上から下まで女物なのだが。
ハイネックのシャツにセーター、スカートの下には厚手のタイツ、膝には着いてから着るためのコート。基本的に飛鳥の見立てだが、露出の少ない品で固められている辺りは本人の希望なので、案外自分にも当てはまっているのかも。
ちなみに飛鳥はジーンズにジャケットと格好いい系の出で立ちだ。ふわふわ系の服も好きらしいのだが、最近は「可愛いのははるかに着せる」と言っている。
「由貴先輩達は年末年始、お忙しいんですよね?」
「ええ。圭一様はお家のしがらみも多いですから、特にお正月は大変かと」
意味ありげに微笑みつつ由貴が答える。圭一は隣で苦笑していた。
「小鳥遊さん達はどこか遊びに行くのかな?」
「はい。イブにライブを見に行く予定です」
飛鳥が答えて視線を向けてくるので、はるかは微笑んで頷いた。
深空が気を利かせてチケットを取ってくれたのだ。招待するのが自分達のライブなあたり、デートさせるつもりがあるのかは謎だが。せっかくなのでお言葉に甘えさせてもらおう、ということになっている。
「そうか、せっかくだからいい思い出を作ってくるといいよ」
「ありがとうございます」
「先輩達も、クリスマスくらいはデートしないんですか?」
「はは、どうかな」
由貴達が付き合っているのかどうか、はるかは未だによくわかっていない。どうやら飛鳥には確信があるようだが。
女の勘、というやつなのだろうか。
「そうですね。圭一様の計らいに期待します」
「……善処しよう」
(由貴先輩、それって脅迫なんじゃ……)
やはり圭一も苦労しているらしい。一応、同じ男として同情する。
道中、『ノワール』の改築の件も話題に上った。現在、改築の方向で話を進めているが、さすがに冬休みに工事するには急すぎたようだ。
そのため春休み中に工事を行い、新学期には新しくなった店舗で営業できる見通しということだ。
「だから、新入生から部員を募る方向でも間に合いそうだね」
「今年ははるかちゃん達もいますから、衣装を着てビラ配りとかしましょうか」
「それ、いいですね」
ただのコスプレではなくお店の衣装を使うのだから効果は抜群なはずだ。新歓の時期に店を開けておけば結構な集客も見込めるだろうし、その中から入部希望者が出るかもしれない。
「来年度は、はるかちゃんに看板娘と頑張ってもらわないといけませんね」
「わ、私ですか?」
「あら。アイドルやろうなんていう子が、それくらいで恥ずかしがりませんよね?」
そう言われると反論しづらい。
しかし、プレッシャーに弱い体質が改善したわけではないので、余計な注目を浴びる機会は少ない方がいいと思ったりする。
船が港に着き、そこから更に東京駅まで移動したところで解散となった。
「それじゃあ僕達はこれで。また来年会おう」
「お二人とも、良いお年を」
そう言って離れていく二人に返事し、手を振って見送る。
二人だけになったはるか達は東京駅でお土産を買って、それから別れた。
「じゃ、はるか。またクリスマスに」
「うん。待ってるね」
クリスマスまでの数日はあっという間に過ぎていった。
柳田が家にやってきて正式な契約を交わしたり、深空や詩香からアドバイスやら抱擁やらを嫌というほどもらったり、事務所の社長さんに挨拶に行ったり、色々やることがあったのだ。
そして、十二月二十四日。はるかは午前九時前に家を出た。深空達のライブは午後からだが、飛鳥と約束した時間はもっと早いのだ。ちなみに深空は詩香のマンションに泊まっているため家には居なかった。
(えっと、お財布にチケット、ハンカチとティッシュ、暇つぶし用の文庫本でしょ。それからスマホと……うん、大丈夫かな)
出掛けにはポーチの中身をしっかり確認した。女の子の服装だと身だしなみ用品やらで物が多くなるうえ、服にポケットが付いていなかったりして勝手が違う。女装を始めてだいぶ経つが私服での外出は多くないので、未だに慣れない。
電車に乗り、向かったのは本校の最寄り駅だ。飛鳥とはここで待ち合わせになっている。
少し早く着いたため駅前広場でしばらく待つと、相手はほぼ時間ぴったりにやってきた。
「やほー、はるか」
分校を離れた日と同じ格好をした飛鳥と、それからもう一人。
「お久しぶりです、小鳥遊先輩」
「こんにちは、弥生ちゃん。久しぶり」
保温素材のトップスにカーディガンを羽織り、短めのパンツにハイソックスを合わせた弥生が駅舎から出てきて、はるかの所へやってきた。
「今日はすみません。お姉ちゃんがどうしてもって言うので」
「ううん。私も弥生ちゃんに会いたかったし」
弥生が一緒に来るかもしれない、とは事前に飛鳥から聞いていた。というか飛鳥が「冬期講習休ませてでも連れてくる」と主張していたので、十中八九会えると思っていた。そのために借りていた本も持ってきたし。
姉達のライブで飛鳥といちゃいちゃするのも微妙なので、そういう意味でも丁度良い。
「ちょっとだけその辺でお話ししようか」
と、挨拶を済ませたはるか達は近くの喫茶店に入った。
それぞれ注文した飲み物を口にして一息つくと、はるかは早速話を切り出す。
「それで、その。弥生ちゃんは私達のこと……?」
ずっと気になっていたのだ。飛鳥からどこまで話を聞いているのか。また、はるか達の辿った経緯を彼女がどう思っているのか。
弥生は、はるかの問いに小さく曖昧な笑みを作った。
「はい。姉さんからだいたい聞きました。今は、姉さんと付き合ってるんですよね」
「うん……」
でも、一度は飛鳥の想いを断った。そう言いかけて、はるかは言葉を飲みこんだ。弥生がわかっているという風に頷き、それから首を振ったからだ。
「いいんです、済んだことですし。むしろ、それで良かったのかもしれません」
「え?」
「姉さんは小鳥遊先輩のこと好きすぎますから。ちょっとくらい厳しくしておかないと際限なくデレます」
きっぱり言い切った弥生はほんのりと笑みを含んでいた。
(でも、ちょっと説得力あるかも)
ここひと月ちょっとでキスした回数を思い返して、赤面すると共に納得がいった。
妹から微妙な評価を受けた飛鳥は当然、不満そうだったが。
「あたしだって分別くらいあるよ。失礼な」
「だ、そうですけど。小鳥遊先輩」
「あはは……ノーコメントで」
ともあれ、弥生の内心を知ることができてほっとした。
程なく全員の飲み物が空になったので、はるか達は席を立った。まだ用事が色々とあるので、あまりのんびりもしていられない。
店を出たら通学路に沿って本校へ向かう。まず済ませるべき用事がそれだ。
「私、女子校って初めてです」
「いいところだよ。のんびりしてて」
そうなんですか、と弥生が顔を綻ばせる。それを見た飛鳥が笑った。
「弥生は、本校も受験するんだよね」
「そうなの?」
「はい、地元の高校と清華の本校、それから先輩達の学校を受けるんです」
受験生だというのは知っていたが志望校は初耳だった。
学力的に丁度よく、大学の付属で寮のある東京の学校、ということで清華を受けることにしたらしい。更に弥生は姉さんたちの影響もありますけど、と付け加えていた。
地元の高校は滑り止め、一応本命は分校になるらしい。
「姉さんと同じ学校へ行くのが一番楽ですからね」
「まあ、弥生なら受かるでしょ。あたしが受かったんだし」
(飛鳥ちゃんだって結構成績いいじゃない)
と、はるかは遠い目をする。そこへ、ちょうど本校の校門が目に入った。
「見えてきたね。はるか、向こうには連絡してあるの?」
「うん、さっきメールしたから大丈夫だと思うけど……」
言っているうちに制服姿の少女が一人、校門の向こうから顔を出した。見覚えのある顔なのを確認して、はるかは彼女に手を振った。
はるか達を出迎えた奈々子は、やや眉を顰めた表情のまま一行に頭を下げてくる。
「……どうも」
「こんにちは、佐伯さん」
はるかがにっこり笑うと彼女は更に嫌そうな顔をした。しかし結局はるかには答えず、隣に立つ飛鳥へと目を向ける。
飛鳥と奈々子。『ノワール』での喧嘩めいたやりとりの後、二人が顔を合わせるのはこれがほぼ初めてのはずだ。
事前に参加メンバーは伝えていたのでお互いにこの出会いは想定していたはずだが、その上で二人がどういう対応をするかまでは、はるかも関知していない。
(いきなり喧嘩とかにならないといいんだけど……)
不安が胸に浮かんだが、幸い決定的な事態は訪れなかった。
「久しぶり、佐伯さん。なんか前と雰囲気違うね」
「放っておいてください」
飛鳥が苦笑気味に台詞を放つと、それに対し奈々子はぷいっと顔を背けた。
それから彼女は身を翻してゆっくりと歩き出す。
「こっちです」
「……小鳥遊先輩、あの人、大丈夫なんですか?」
「うん。悪い子じゃ、ない、と私は思ってるんだけど」
今のやりとりを見てしまうと若干自信を持って言いづらくなってしまった。
奈々子の先導で本校の寮に向かう。飛鳥と弥生は初めて来る場所なので辺りをしきりに見回していた。特に弥生にとっては貴重な学校見学の機会のはずだ。
寮の玄関から入り、案内されたのは昴の部屋。
この間も見た通り、一人で使うには広い室内は、簡単にだがパーティ用の飾りつけがされていた。また、中央に置かれたテーブルには飲み物やお菓子が並べられている。
そして。
「久しぶり、小鳥遊さん」
「こんにちは、皆さん」
カーペットの敷かれた床に腰を下ろした真琴と昴が、はるか達を出迎えた。