はるかの選択 3
「どうぞ」
「ありがとうございます」
『ノワール』で一番奥のテーブルを五人で囲む。圭一と飛鳥はいつもの席に、はるかは昴の席だった場所へ座り、はるかが普段座っている位置に柳田が腰かける。由貴は柳田を含めた全員に紅茶を出した後、圭一の背後に収まった。
柳田は出された紅茶を一口飲むと、簡単な自己紹介の後で説明を始めた。特待生に関する内容は省かれたため、ところどころ曖昧な部分はあったものの、圭一達は説明が終わるまで口を挟まなかった。
飛鳥は話の途中で大よその事情を察したらしく、息を飲んで聞いていた。
「……話はわかりました。小鳥遊さんは今まで通りこの学校に通う。その上で多少の労力を負えばいい、ということですね」
話が終わるとまず圭一が柳田へそう確認する。柳田は頷いた。
「基本的にはその通りです」
「では、例外もあるということですか?」
「ええ。例えば小鳥遊さんが本校への転校を希望するなら便宜を図りますし、もし同意して頂けるなら、より特別な活動をしてほしいという考えもあります」
先程の話にはなかった事柄だが、おそらくレポートの提出「など」や「各種」便宜といった言葉で省略された部分なのだろうが。
(そんなこともできるんだ)
いくら表向きは女子生徒として扱われているとはいえ、男子が本校へ転校するなんて普通は不可能だろうに。
「特別な活動、というのは具体的に何でしょうか」
今度は由貴が柳田に尋ねる。すると、更に意外な返答があった。
「小鳥遊さんのご家族に芸能人の方がいると聞いています。ですので場合によっては芸能活動の支援を、と考えています」
飛鳥と目が合った。同時に、脳裏へいつかの姉の言葉が甦る。
――はるか、アイドルやってみたら?
あの話は昴と飛鳥にしかしていない。だから他人の口からそんな言葉が飛び出すとは考えもしなかった。
「どうして急にそんな事を?」
「文化祭でヒロインを演じ、文化祭実行委員主導のコンテストで一位を取ったからです。あれで周囲に『そういう方向性もある』と印象付けることができましたから」
はるかと深空の関係を皆が知り、はるか自身も評価された。
だから、はるかがアイドルになりたいというのなら応援してくれる、と。
話はわかる。しかし、もう終わったつもりの話が再び持ち上がったことにはるかは戸惑った。
(私は……どうしたらいいんだろう)
「あたしは反対」
「――飛鳥ちゃん」
飛鳥が顔を上げ、きっぱりと言った。その瞳で柳田とはるかを交互に見つめて、
「はるかが転校するのは駄目だよ。……昴のためにも、あたし達はここで今まで通り過ごした方がいいと思う」
昴が分校を離れたのは父親との一件が原因だ。
つまり彼女の本心ではなかったが、しかし、はるか達との別れは決して悲しいだけのものではなかった。三人で、しっかりと再会の約束も交わしたのだ。
――今更、あの日の約束がこんな形で崩されることを彼女が望むだろうか。
(……そうだね。そうだよね)
「うん。私もこの学校を離れるのは嫌。……だから、アイドルにはなれません」
あの話を断ってからずっと考えていた。
アイドルになりたい、と思ったのは何故だったのか。あくまで昴と恋人同士でいるための手段だったのか、それとも他の理由があったのか。
明確な答えは今も出ていないが、心の中には憧れも未練もあったと思う。
しかし、はるかにはそれより大事なものがある。昴の気持ちを無駄にし、飛鳥と別れ別れになってまでアイドルを目指したいとは思わない。
「ありがとう、はるか」
ほっと息を吐いた飛鳥と見つめ合い、微笑み合う。
……しかし。
「ああ、申し訳ない。説明が足りていませんでしたね。それは心配ありません」
「……え?」
柳田は平然と、はるか達の決断に水を差した。
「ネットアイドルという言葉はご存知ですか? 読んで字の如く、主な活躍の場をネット上とするアイドルの事で、多くはアマチュアの方らしいのですが」
ネットを使えば住居や交通手段の問題はなくなる。本人の努力とアピール方法次第では、島から一歩も出ずに世界中から注目されることだって不可能ではない。
まあ、その分野に関しては門外漢ですが、と柳田は断りつつ、
「似たようなことを考えていた専門家の方がいたようで。小鳥遊深空さん――お姉さんの事務所に打診しところ、公認という形で活動を支援してもいいと回答をもらいました。機材も大した物は必要ないでしょうから、それも提供できると」
――それは、謂うなればいいとこ取りのような発想。
この島で分校に通いながら、アマチュアとしてアイドル活動をする。それなら転校の必要はないし、自己の裁量で活動量もセーブできる。
昴との約束を崩すことにもならない、かもしれない。
「……しかし、小鳥遊さんの負担は大きいでしょう?」
「そうですね。ただ、それを言っては何もできません。こちらとしても無理強いするつもりはありませんよ」
無理強いはしない。つまり、はるかの意思に任せてくれるということ。
昴の父がやったように、一方的に選択を突きつけるやり方とは違う。
「……でも、やっぱりあたしはなんか……」
しかし、飛鳥は納得いかないらしく俯いて呟く。具体的にどう不満があるのかは形にならないようだったが。
「そうですか? なら一ノ瀬さん、貴女も小鳥遊さんと一緒に本校へ転校しますか? こちらとしてはそれでも構いませんよ」
飛鳥の身体がぴくりと震えた。悲鳴じみた小さな声がその唇から漏れた。
「なんでそんな、次から次へと……」
はるか達に都合のいい条件が飛び出して来るのか。
――彼の言うように飛鳥も一緒に転校できるなら、もう一度、三人で高校生活を送れる。誰かを置き去りにするとか、別れ別れになる必要はない。なら、誰にとっても悪い結果にはならない。
こうも立て続けに言われると「逃げ道を塞がれている」ようにも錯覚してしまうけれど。
静寂が落ちかけた店内に深いため息が響いた。
「はるかちゃんはどうしたいですか?」
口元から笑みを消した由貴がはるかを見ている。
「えっと……」
はるかは一瞬言葉に詰まった後、首を振った。
「わかりません。考えることが多すぎて、すぐには……」
驚きと戸惑いで思考がまとまらない。
どうしたいのか、どうすべきか。あらためてじっくり考えないことには答えを出せそうにない。
そんなはるかの答えを由貴は咎めず、ただ頷いた。
「なら、これは私個人の意見として聞いてくださいね。私はこの話には反対です」
「それは何故ですか?」
はるかへ向けた言葉に柳田が平然と割った。由貴が彼に視線を向け、淡々と答える。
「直感です。良い話には必ず裏があるもので――気づいた時には後戻りできず、過ぎた代償を支払う羽目になることだってあるんです」
真穂がそうだったように、由貴もまた柳田を警戒しているらしい。
彼女達の気持ちもわかる。
急すぎて、また良い話すぎて逆に信用できない。はるかが戸惑っているのも主にそれが原因だ。
(本当にこの人を信用して大丈夫なのかな)
校長が連れてきた人物なのだから、偽物だということはないはずだ。彼の話した内容にもおそらく嘘はない。
だが、それだけで短絡的に判断して大丈夫か。
「……ふむ。なかなか人に信用してもらうのは難しいものですね。まあ、無理もありませんが。特待生だとか関係なく、人は誰しも嘘や演技と共に生きているものですから」
柳田が苦笑を浮かべ、ため息をついた。
特待生、という単語にはるかは反応し顔を上げる。飛鳥も同じだ。圭一や由貴も眉をひそめ、彼に鋭い視線を送った。
「何が言いたいんでしょうか?」
「親しい人間が必ずしも助けてくれるとは限らない。むしろ害になることもある、ということですよ。姫宮由貴さん、あなたが自身の父親を通じ、間宮昴さんの情報を外部に流していたようにね」
瞬間、圭一がテーブルに拳を叩きつけた。
大きな音が響き、ティーカップが小さく跳ねる。幸いカップやソーサーが床に落ちることはなかったが――。
はるかは圭一が今まで見た事のない形相をしているのに気づき、ぞくりとした。
圭一が本気で怒っている。敵に向けるような目で柳田を睨みつけている。そんな彼の名を、由貴が静かに呼んだ。
「圭一」
「……ですが」
「いいから」
「……わかりました」
窘められた圭一は息を吐き、柳田から視線を外した。しかし彼の表情は強張ったままだ。気分が晴れたわけでも、柳田を許したわけでもないと暗に告げている。
そこへ飛鳥が遠慮がちに口を開いた。
「あの、由貴先輩。今の、どういう意味ですか?」
「………」
「答えてください。昴の情報を外部に流してたって」
思い出すのは、昴と彼女の父親の一件。
昴の父は何らかの伝手を使い、はるかと昴の交際を知ったという話だった。また、そこに学校側は関わっていなかったとも。
――あの時点ではるか達の交際を知っていたのは誰だったか。
素直に考えて、昴の父が使える伝手とはどういう種類のものになるか。
くすりと。
由貴が冷たい笑みをこぼした。
「言葉通りですよ。はるかちゃんと昴の交際が、昴のお父さんに伝わるきっかけを作ったのは私です」
「……どうして!」
今度は飛鳥の悲鳴が『ノワール』に響いた。
はるかは思考が追いつかず、彼女達のやりとりをただ眺めるしかできない。
その間に由貴がふっと息を吐き、髪をかき上げ言い放つ。
「私の父は心配性なのよ。だから逐一、学校の様子を報告する必要があったの。周囲の人間の動向なんかも含めてね」
普段とは全く違う不遜で尊大な口調だった。
また、彼女は口調だけでなく表情も変化させていた。どこか大人びた強気の笑顔を浮かべ、はるか達を冷然と見つめている。
「……私が特待生なんてやっているせいで、余計に心配なんでしょうね」
空気が凍りついた。
先程まで憤りを露わにしていた飛鳥も呆然と口を開け、大きく目を見開いたまま硬直している。圭一は顔を歪め、由貴の方を見上げていた。
「……よかったんですか?」
「どうせこれ以上隠したところでバラされるでしょ? なら自分で言ったって大して変わらないわよ」
二人の会話は普段と違い、圭一が由貴に敬語を使っていた。
まるで、主人と従者の関係が入れ替わったかのように。
――特待生に与えられる設定は、本来の自分とはかけ離れたものが選ばれる傾向にある。
「由貴先輩達が、特待生」
殆ど意識しないまま口から言葉が漏れていた。柳田がそれに平然と頷いた。
「そうです。貴方と同じようにね」
前方で椅子が倒れる音がした。
飛鳥が勢いよく立ち上がったせいだ、と認識した時には、飛鳥はもう床を蹴って柳田に詰め寄っていた。
「飛鳥ちゃん!」
叫び、立ち上がるも間に合わない。
飛鳥は片手で柳田の首を掴み上げるともう一方の手を振り上げ、
「ああ、特待生なのは貴女もでしたね。一ノ瀬飛鳥さん」
振り下ろされた手が大きな音を響かせた。