はるかの選択 2
「あの。どこに行くんですか?」
「応接室よ。小鳥遊さんもこの前行ったところ」
水曜日の放課後。はるかは真穂に連れられて廊下を歩いていた。なんだか最近、この手のシチュエーションが多い。
例によって心当たりはないものの、応接室と言われると少し嫌な予感がした。
あの場所で昴の父親と対面したのはつい先月のことだ。生徒指導室を使わないということは、あの時と同じく第三者、それも分校外の人間が同席するのだろうか。
思っているうちに応接室へと辿り着いた。真穂が部屋のドアをノックする。
「失礼します」
彼女に続いて部屋に入ると、室内の様子は以前見た時と変わりなかった。
向かい合ったソファの片方は空いており、もう片方に分校の校長ともう一人、くたびれたジャケットを着た男性が座っている。なんとなく見覚えがあるような、ないような。
二人と会釈を交わすと、校長に着席を促された。空いた側のソファに真穂と座る。
するとまず校長は突然の呼び出しを詫びた。その後、今回ははるかの今後に関する相談があるのだと言ってくる。
(私の今後……?)
真穂を見るが、彼女は困ったような顔をして首を傾げる。彼女も詳しい話は聞いていないようだ。
「では、後は私から説明させてください」
そこで例の男性が口を開いた。
「あなたは……」
「申し遅れました。私はこういう者です」
差し出された名刺を手に取り、読み上げる。
「清華学園大学、文学部心理学科……柳田佑真、って」
その名前には憶えがあった。この学校に入学するにあたって渡された書類で何度か目にしていたのだ。確かあの『背反パーソナリティの共存による相互補完』と呼ばれる理論の提唱者の名前だったはず。
ということは。
「そう。私はこの学校で行われている『実験』の総合責任者です」
――言い換えれば、彼こそが特待生制度が生まれる原因を作った人物でもある。
「嘘……」
隣で真穂が呆然と呟いた。表情が強張り、また指先もかすかに震えている。
「あなたは、ここと本校の相談員じゃ」
「ええ、そうですよ。これでも心理学者ですから、週に一回生徒達の相談に乗らせてもらっています。……本業の参考にもなりますしね」
ああ、そうか。
彼の顔に見覚えがあったのはそのせいだろう。相談室を利用したことはないが、どこかですれ違ったりはしていたはずだ。
「名前も、変えていたんですか?」
「そうです。相談員としての肩書は偽名を使っていました。……ついでに言えば、大学で研究している時はもう少しマシな格好をしているんですよ」
真穂も研究者との繋がりは無かったのか。少し意外な気もしたが、彼の顔を知らなかったのははるかも同じだ。教師として特待生制度に通じてはいても『実験』や新理論についてはノータッチだったのだろう。
おそらくは分校にいる他の教師も同様。彼はそれを利用して『新理論の研究者』と『高校の相談員』という二つのパーソナリティを使い分けていた。名前や服装、もしかしたら口調などまで変えながら。
その手法にははるかも多少馴染みがある。
「特待生と似たようなことをしてた、ってことですね」
「おや。流石ですね、その通りです」
はるかが呟くと、柳田は鷹揚に頷いてみせた。
「私の場合、別にばれても良いので気楽ですけどね。それでも二つの顔を使い分けるというのは中々刺激的です」
「……それで? どうしてわざわざ小鳥遊さんを呼び出したんですか?」
尋ねる真穂の声はずいぶんと強張っていた。彼女にしてみれば知り合いに裏切られ、騙された気分なのだろう。
嫌われてしまいましたね、と柳田は毒の無い表情で呟いた。
「先程、校長が仰られた通り、彼の今後について話したいことがあったからです。より正確に言うなら相談というよりは提案ですが」
「提案、ですか?」
柳田に『彼』と呼ばれた事にはあまり驚かなかった。特待生制度や実験の大本であるならそれ位の情報は知っていて当然だろうから。
「ええ。小鳥遊はるかさん、あなたは私の研究についてはある程度ご存じですね?」
はい、とはるかは頷き、簡潔に答える。
「自分と違う性格や人格、個性の人間を自覚的・継続的に演じることで、その過程において自己認識の強化や能力の向上が見込めるのではないか」という理論、それが彼の研究の要点だ。
「そうです。更に簡単に言うなら、演技を通じて己の新しい一面を発見し、他者への理解を深めることが可能だということ。それが研究のテーマです」
「なんとなくわかります」
はるかは他の特待生――実験の参加者を知らないが、自分の経験から言えば柳田の理論には共感できる。特待生としてこの分校で生活する中ではるかは多くの出会いをし、新しいことをたくさん学んだ。
料理、接客、演劇――女装して生活しなければ一生縁がなかったかもしれない事柄だって、その中にはあったのだ。
「でしょうね。……貴方はおそらく、これまでで最も成果を上げた特待生でしょうから」
「そう、なんですか?」
「ええ。入学前は一般入試に失敗する程度の学力だったにも関わらず、現在は中堅以上の成績を維持。更に学業の傍ら部活動に励み、文化祭でも活躍。交換生徒の代表として本校の生徒とも交流を持つ……これだけの事をたった半年程で成し遂げているのですよ」
決して容易いことではありません、と柳田は微笑む。
しかし、はるかは彼に何と答えていいのかわからなかった。君は凄い、と言われるのは嬉しい。けれど。
「私はただ、この学校にいたかっただけで。それに皆が助けてくれたから今日までやってこられたんです」
「もちろん周囲の協力も重要でしょう。ですが、いくら他人が補助しようと本人に強い意志がなければ成果は出ません」
柳田は自身の理論により成果を上げるためのポイントを「負荷の大きさ」と「遂行力」の二点だと考えているのだという。
負荷の大きさとは、与えられた役柄――『設定』がどの程度困難であるか。
そして、遂行力とは設定を忠実にこなそうとする意志のこと。これら二つの要素を共に満たすことで理論の効果は高まり、逆にいずれかが欠けたり弱まったりすれば効果は低下する。
となれば負荷の大きい役柄を強い意志で遂行するのが理想だが、実際には負荷がかかればかかるほど遂行力は落ちる傾向にあるという。
「例えば『女装して学校生活を送れ』という指示されて、はいそうですかと頷ける人間などそうはいません」
性別を偽るのは、およそ考えられる設定の中でもトップクラスに負荷が高い。
異性を装うよう設定で指示された者は過去にもいたが、彼らはいずれも数か月ともたず分校を去ったらしい。
「だから、貴方は負荷と遂行力の両方を高い水準で保っている稀有な例――非常に得難い人材なのです」
話がだんだん大きくなってきた。
はるかが彼の言うように貴重な人材だとして、それがどう繋がるのか。
「はい。そこで提案があるんです」
緊張しているのか。単純に勿体つけているのか。
柳田は深く息を吸い、間をおいてから言葉を続けた。
「小鳥遊はるかさん。私と新しい契約を結び、現在よりも積極的に研究へ協力してくれませんか?」
柳田の提案を纏めるとこうだ。
はるかは柳田、というか彼の研究室と新たな契約を結ぶ。これは現在の特待生制度とは独立した契約で、優先度としては上位にあたる。
要求されるのは研究への積極的協力。具体的には柳田との定期的に面談をしたり、必要に応じてレポートの提出などだ。その代わり、はるかには特待生の恩恵に上乗せする形で現金が支払われ、有事には学園側が各種便宜を図ってくれる。
例えばAO入試のような形で清華の大学部に入るとか、そういうことが可能だそうだ。
「それって、期間はどうなるんですか?」
「無期限です。小鳥遊さんの場合で言うと、」
この提案を受ければ卒業しても女装を続けることになる。それも、無期限ということは半ば永遠に。
高校生活の三年間ですら長く感じているというのに。
「もちろん研究の目途が立てば契約を打ち切る可能性もありますが。……その場合はむしろ研究の生きた成果として引き続き活躍してもらう可能性が高いかな」
「小鳥遊さんを実験台にして、用が済んだら晒し者にするってこと?」
「酷い言い方ですね」
真穂が鋭い目で柳田を睨む。柳は肩をすくめて苦笑した。しかし否定する気はないらしい。心理学者というのが具体的にどんな人種なのかは知らないが、少なくとも彼に関しては見た目通りのほほんとした性格、というわけでもないのだろう。
「どうでしょう? 悪い話ではないと思うのですが」
「……そうですね」
柳田に水を向けられ、はるかは頷いた。確かに悪い話ではない。
何しろ求められる労力に比べて代価がかなり大きいのだ。払える大よその金額も教えられたが、学生の身で簡単に稼げる額ではなかった。それだけあればほぼ親に頼らず大学まで卒業できる。
しかし、話が大きすぎてすぐに答えられないのも事実だ。
「少し、考えさせていただけないでしょうか。相談したい人もいますし」
両親にも話をしないといけないだろうし、後は誰より飛鳥に相談したい。そして、できるなら昴にも。
(これはきっと、私だけの問題じゃ済まないもんね……)
下手をすれば人生そのものを左右しかねない。慎重に考えて損はないはずだ。
柳田も、はるかの返答を否定はしなかった。
「構いませんよ。でしたら、すぐに行きましょうか」
むしろ自分から席を立つとそう言ってくる。
「え、行くって……?」
「この時間なら普段は部活動をしているのでしょう? どうせなら私も同行して話をさせてください」
彼も『ノワール』へ付いてくるつもりらしい。それなら圭一や由貴、飛鳥とまとめて相談できるうえ、質問もしやすいかもしれない。
はるかはそう考えて柳田の発言を了承した。
「……わかりました」
由貴に電話をかけて事情を説明してから『ノワール』へ向かう。着いた頃にはお客さんは既に帰り、いつもの面々がはるかを待っていた。