崖
『この先崖あり 危険! 立ち入り禁止』と書かれた看板と柵を乗り越え、その先へ進む男。こんなもの、壁にもならない。過去何人、いや何十人があの柵を乗り越えて来たのだろうか。この先にある崖は、自殺の名所として有名なのだ。看板の制止を無視してまでそこへ向かう男の目的は、もちろん言うまでもなかろう。
木々を抜けてひらけた場所に出ると、男の他に先客がいた。彼もまた、男と同じ目的なのだろうか。そうだとすれば何となく気まずい。これから死のうとしているのに気にする事でも無いのかもしれないが。先客がこちらに気付いた。何だか嬉しそうだ。
「ああ、あなた死にに来たんですね?いやぁ嬉しいなぁ。今日はもう来ないものと思って切り上げようとしてましたから。」
先客の声は弾んでいた。演技でもなく本当に嬉しそうだ。
「ああ、私人間観察が趣味でして。何、ここに張り込んでいれば観察対象に事欠かないから便利ですよ。で、あなたはどうしてここへ?」
まるでぱったり町で出くわした友人に声をかけるかのような先客の口調に、男は少々苛立った。
「別に。あなたには関係ないことでしょう。」
「まぁまぁそうおっしゃらずに。どうせこれから死ぬんでしょう?その前のおしゃべりなんて、なんて事無い筈だ。」
先客の質問に答える必要も義理も、男には無い。だが、このまま無視して崖から飛び降りてもばつが悪い。さっさと満足させて追い払うのが賢明だろう。男はそう判断した。
「…好きな女性に。」
「は?」
「ずっと片思いをしていた女性に、ふられまして。」
ぱっと嘘も思いつかず、また嘘をつく理由も無かった為、男は正直に答えた。
「はぁ、これまた随分くだらない理由だ。これまで色んな人を見てきたが、一、二を争う程にくだらない。」
大げさな身振りで、先客が溜息をついた。
「何ですか。あなたにとやかく言われる謂れは無い筈だ。それに、くだらないとは何ですか。十年越しに想い続けてふられた気持ちがあなたにわかりますか。」
こっちは文字通り死ぬほど悩んだのだ。それを『くだらない』の一言で片付ける先客を、男は許せなかった。
「おや、あなたはこれから死ぬんでしょう?これから死ぬのに、そんなこと気にする必要も無いでしょうに。小さい男ですねぇ。」
さらに先客が挑発してくる。掴みかかりたい思いを、男は必死に堪えた。
「ともかく。あなたに居られると気が散るんです。ここから出て行ってください。」
「いや、別にここはあなたの場所じゃあ無いんですから、私が何処に居ようと自由でしょうに。別にあなたの邪魔をしてるんじゃあ無いんだ。」
先客はここを立ち去る気は無いらしい。男に構わず、先客は続ける。
「しかしあなた、こんな事を考えた事はありますか。ここはねぇ、地元の猟友会が定期的に見回りに来る区画なんですよ。」
いきなり何を言い出すのだこいつは。男は先客の意図がわからず、黙って話を聞いていた。
「そんな地元の為に活動してるような人がですよ?ふと、あなたの死体を運悪く見つける訳ですよ。これから落ちよう、っていうあなたにはわからんでしょうが、高所から落ちて出来た死体ってのはグロテスクでねぇ。心根の弱い方が見ようものならまぁ、一生忘れられないものになるんですよ。」
男は、ぐちゃぐちゃになって木に引っかかる自身と、それを見て悲鳴を上げる誰かを想像した。
「こ、こちらの罪悪感を引き出して引きとめようって寸法ですか。そうはいきませんよ。」
「いいえ?勝手に死んで下さって結構ですよ。これから死のうって手合いにかける言葉もありません。止める義理も私にはありませんし。ただねぇ、あなたは死後人に迷惑をかける人間なんだなぁと。」
「あなたは。あなたはわざわざそんな事を言う為にこんなところへ?一人で?随分悪趣味なことだ。」
こいつをここから立ち去らせる方法は無いものか。
「ええ、まぁ。私の趣味が世間様とズレていることは自覚していますとも。それが何か?別に他人に迷惑をかけているわけではないでしょう。」
何をぬけぬけと。こいつには今、目の前の人間が見えていないのだろうか。
「今、たった今僕に迷惑をかけているではないですか。」
「はっ。これから死ぬ人間が、迷惑だどうだと言うんですか。おかしな話ですねぇ。何か不都合でも?まさか、落ちてる最中に私を思い出して不快だから、なんて言いませんよねぇ。」
「とにかく!あなたに居られると不快なんです。ここから立ち去ってください。」
「ですから。別にここはあなたの場所じゃあないんです。私が何処で何をしようと勝手でしょう。不快なら聞かなければいい。それとも?あなたは私が言った事で動じる程度の思いでここへ?」
先客はニヤニヤしている。このままでは埒が明かない。
「もういい。もういいです。僕が出て行きますから。」
「おや、残念。あなたとのおしゃべりは楽しいのですが。まぁ、あなたの自由ですからねぇ。あ、そうだ。」
「記念写真、撮っていきます?」
写真を撮る真似をする先客に、男は背を向けた。去り際に一発殴っておけば良かった、と後悔を残して。
看板の所まで戻ってくると、裏側に『よく思い留まった!その勇気で明日へ!』と書かれていた。一気に気が抜ける思いだ。何だか馬鹿らしい。男はそう思いつつ、車へと戻って行った。返すつもりもなかったが、レンタカーの期限は今日の夜八時までだ。間に合うだろうか。
「…お疲れ様です。」
「ああ、どうもぉ。今日は一人来ましたよ。顔もほら、この通り。いやぁ、最近の隠しカメラってのは便利ですなぁ。」
「ええ、これで特定は早く済むでしょう。あとは更生プログラムで何とでもなる。これ、今日の分です。」
「やや、どうもどうも。あ、その写真現像して後で下さいます?」
「…プライバシーに関わりますので。ではまた明日。」
「おや残念。ではでは~。」