げに怖ろしきは (BL)
「吉本君!」
月曜日。いつものように出社すると、総務の若い女性にポンと肩を叩かれる。
「あ、おはようございます」
熱い緑茶の入った自分用のマグカップを受け取りながら挨拶すると、彼女は眉尻を下げて苦笑しながら気の毒そうに言った。
「金曜日は残業だったの? 終電だったでしょ」
「え?」
駅の近くで見かけたよ、と言われて僕は思わずキョトンとする。確かに金曜日は残業だったが八時には上がれた筈で、しかも金曜日はいつも会社近くの友人の部屋に泊まるので駅には行っていない筈である。そう言うと、彼女は、えー、と言いながら僕をまじまじと見つめ、他人の空似かしら、と言いながら給湯室の方へと戻って行った。
「はぁ……」
僕はその背を見送りながら、思わず小さく溜息をつく。実はこのようなことを言われるのは初めてではなく、ここ最近は毎週のように言われていたからだ。凡庸な顔なので仕方がないとは思いながらも、あまり気持ちの良いものではない。ちょっとげんなりしながらパソコンを立ち上げると、十件ほどの受信メールの中に見慣れた名前があるのに気付いた。
『携帯忘れてったろw』
メールの差出人は、その友人の『加藤』という男だ。僕は慌てて上着のポケットを叩き、すぐにがっくりと肩を落とす。
『悪い。帰りに寄るから預かってて』
八時過ぎには行けると思うから、とメールすると、すぐにOKの返事が返って来る。添えられていた、仕事頑張れよ、という短い文章に、僕は思わず笑みを浮かべながら、お前もな、と返した。
加藤は小学校以来の幼馴染みで、数少ない『上京組』の一人だ。大学に進学した者は結構いたが、就職した者は少なく、しかも彼のアパートがたまたま職場のすぐ近くだったことが判明したので、それからは毎週のように金曜日になると直行しては、一緒に夕食を食べながら酒を飲むのが習慣になっていた。自分もこの辺りに越して来れれば良いのだが、いかんせん、この辺りのアパートの相場は今の家賃よりも二万円は高い。一緒に住むかと誘われたこともあったが、さすがに一間に男二人はきついので遠慮した。
「ほい、携帯」
「サンキュ」
仕事帰りにアパートに寄り、玄関口で携帯電話を受け取る。夕飯食ってくか、と問われて、中から漂ってくるイイ匂いに腹の虫がグゥと答えた。
「今日は何?」
いそいそと靴を脱ぎながら尋ねると、中華、という答えが返って来る。僕が食べることも想定してか、テーブルの上の大皿には一人では食べきれないほどのエビチリが盛られ、その脇の皿には僕の大好物の春巻きがキツネ色に揚げられて並べられていた。
「旨そうだね」
揚げたてかと問いながら摘まみ食いしようとすると、先に手を洗えよと言って笑われる。僕はそれへ笑顔を返すと、スーツの上着をいそいそと脱いだ。
「悪かったな。今日はデートじゃなかったのか?」
元サッカー部の加藤は同性の目から見てもかなりカッコ良く、小・中・高と凄くモテたので、今の職場でもきっとモテているに違いないと思って聞くと、そんな相手いないよ、という意外な言葉が返って来る。
「いたら、花の金曜日に家にいたりしないって」
同郷のよしみで自分の為に週末を空けてくれているのだと思っていた僕は、ちょっとがっかりして、なんだ、と返す。
「何だって何だよ」
加藤が、心外だ、と言わんばかりにヒョイと眉を上げながら、よく冷えた缶ビールを渡してくる。僕はいつもの指定席に腰を下ろすと、受け取った缶ビールのプルタブをさっそくプシッと引き開けた。グッと煽ると、よく冷えたビールでカアッと喉が焼ける。半分ほど一気に飲んでから、プハッと息を吐き出すと、向かいに腰を下ろした加藤が同じように缶ビールに口を付けながら言った。
「吉本は? 吉本も結構モテるだろ」
「それが全然」
母親のような年代にはウケがいいが、同年代の女性には全くである。そう言うと、女は見る目が無いなあ、と加藤が慰めの言葉を言う。
「こんなに単純でお人好しの男はいないのに」
褒めてるんだか貶してるんだか判らない言葉に、僕は苦笑しながら、それは自分だろう、と心中で返す。いくらカノジョがいないとはいえ、週末ともなれば同僚からの酒の誘いもあるだろう。なのに自分の為に週末を空けてくれ、あまつさえ夕食まで用意して待っていてくれるのだから、これほどのお人好しはいないに違いない。その優しさについつい甘え、金曜日の度に部屋を訪れては旨い手料理肴に缶ビールを傾けることが、いつしか僕のストレス解消になっていた。
「へえ、他人の空似ねえ」
話を聞き終えた加藤が、三つ目の春巻きにかぶり付きながら言う。パリパリに揚がった春巻きは、少し冷めかけていたが旨かった。
「確かに世の中には自分と同じ顔の人間が三人はいる、とは聞くけどな」
加藤の呑気な言葉に、僕は思わず眉根を寄せて顔をしかめる。
「それどころじゃないよ」
ただ目撃されるだけなら良いが、もしその『誰か』が悪い事をして逃げたら、自分が捕まってしまうかもしれないのだ。目撃者全員が犯人は自分だと証言したらと考えて、思わず背筋がブルリと震える。幸いなのは、今のところ目撃例は金曜日だけなので、加藤と一緒にいる自分にはアリバイがあるということだった。
「もし僕が何かの事件の犯人に間違われた時には証人になってくれる?」
思わず縋りつくようにして言うと、加藤がプッと噴き出して笑う。
「まあ、あまり心配すんなよ。お前に似てるなら、そいつもきっと単純でお人好しだから悪い事はしないって」
「他人事だと思って……」
僕は加藤の言葉に溜息混じりに返す。そして、四つ目の春巻きを箸で摘まむと、呑気に笑っている友人の顔を睨みつけながらパクリとかぶり付いた。
「同じ顔と言えばさ……」
三本目の缶ビールを空けたところで、加藤が思い出したように言う。
「ん?」
そろそろ帰ろうかと思い、終電の時間を思い出しながら時計を見上げた僕は、その言葉に視線を戻した。
「『ドッペルゲンガー』って知ってるか?」
「ドッペルゲンガー?」
何でも、ドッペルゲンガーは自分にそっくりの姿をしていて、見ると死んでしまうらしい。そういえば加藤はそういった超常現象やオカルトの類が好きだったのを思い出し、僕は思わず顔をしかめる。
「ちょっとやめろよ。これから帰るのに」
情けない声音で言うと、加藤が楽しそうにハハハと笑う。
「なんなら泊まってくか? 朝もここからの方が近くて楽だろ」
確かに近くて楽は楽だが、前日と同じ服装で行くわけにはいかない。そう言うと、シャツなら貸してやるぞ、と楽しそうに言われる。スポーツマンで背も高い加藤のシャツはかなり大きく、前にパジャマ代わりに借りたことがあったのだが、手指はすっぽり隠れてしまうし、裾は膝上まできてしまうしで、加藤は可愛い可愛いとウケていたが、コンプレックスをいたく傷付けられた僕は、以来、パジャマだけは自前のものを置かせてもらっている。
「今度はスーツも一揃え置いとけば」
加藤のジョークに、僕はちょっとだけ本気になる。しかし、そうしてしまうと常に泊まりに来てしまうような気がして、いかんいかんと自制した。
その週も、そしてその次の週の金曜日も、僕によく似た『誰か』は終電間近の駅に向かって歩いていたらしい。
「飲むなら声掛けてくれれば良かったのに。水臭いなあ」
同期の井上に拗ねたように言われて、僕はとりあえず否定した。
「いやホント、それ、僕じゃないから」
「またまたあ」
俺がお前を見間違うかよ、と言われて、加藤の『ドッペルゲンガー』の話を思い出す。
「あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど」
僕はそれを脇に除けると、思い切って言った。
「次にそいつに会ったらさ、声掛けてみてくれないかな」
「は?」
僕の言葉に、井上がキョトンとした顔になる。
「そうすれば、それが僕じゃないってことがわかると思うんだよ」
そうだ。そうすれば単なる他人の空似だということがわかり、同僚たちの誤解も解けるだろう。そう思いながらも、だが、と心の中でもう一人の自分が警鐘を鳴らす。だが、もしそれが本当にドッペルゲンガーだとしたら、声を掛けた人間はどうなってしまうのだろうか? 命の危険は無いのだろうか?
すると、物思いに沈みかけていた僕に、井上が呆れたように笑いながら言った。
「な~に言ってんだよ。声掛けたじゃないか。だからお前も振り向いたんだろ?」
「……え?」
そして『僕』は、ちょっと手を上げて挨拶してから、足早に駅に向かって歩いて行ったのだと言う。井上の言葉に、僕は一瞬言葉を失う。
「そういえば、ちょっと元気が無かったな。何かあったのか?」
心配そうに問われたが、それは自分ではないのでわかる筈はない。だが、声を掛けられて振り向いて、手まで振られてしまっては、それは自分ではないと証明するのが難しくなってしまった。
「信じてもらえないかもしれないけど、それ、本当に僕じゃないから」
とりあえず言ってはみたが、同情混じりの目で見られただけで、はいはい、と軽くいなされる。そして、わかったよ、何も聞かないよ、と理解ある口振りで言うと、井上は軽く手を上げて行ってしまった。
なんとなくモヤモヤしたまま金曜日になる。頭の中には、まだ先日の井上の言葉が引っ掛かっていた。
『俺がお前を見間違うかよ』
『そういえば、ちょっと元気が無かったな。何かあったのか?』
もちろん、その日も僕は加藤の部屋に泊まったので、それは自分ではない。僕はその日もいつものように加藤の用意してくれた手料理を食べ、缶ビールを飲み、気持ちよく酔っ払ったままゴロ寝して、翌日は昼近くまで惰眠を貪り、加藤謹製のブランチと、朝風呂を借りて帰って来たのである。いつも通りのご機嫌な週末。そして、今日もご機嫌な週末になる予定だった。
「お、来たな」
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いて加藤の笑顔が出迎える。
「お疲れ」
僕は缶ビールの入ったビニール袋を目の高さに掲げながら中に入ると、いそいそと靴を脱いだ。
「いい匂いだね。今日は何?」
「今日はフレンチ」
見れば、テーブルの上には彩り良く盛られたサラダと、料理が載せられるのを待っている白い平皿とスープ皿が見える。レンジ横のスペースに塩コショウされたステーキ肉が置かれているのを見て、僕は思わず目を見開いた。
「どうしたの、加藤。豪勢だね」
思わず顔を綻ばせながら問うと、加藤がニッと笑って答える。
「もうすぐ誕生日だろ。今年は平日だから、先に祝ってやろうと思ってさ」
ケーキもあるんだぞ、と言われて、僕は思わず感動する。
「どうしよう、加藤! 泣きそうなんだけど!」
「ははは」
加藤は楽しそうに声を上げて笑うと、とりあえず手を洗えよ、と言ってステーキ肉を焼き始める。ジューッという小気味良い音と香ばしい匂いに胃袋を刺激されて、僕はいそいそとスーツの上着を脱いだ。
缶ビールを三本空けたあたりから眠くなって来る。しかし、気の置けない友人と他愛ない会話を交わす、この心地良い時間を終わらせるのが惜しくて、僕は四本目の缶ビールを開けた。
「おい、大丈夫か?」
加藤が苦笑混じりに言いながら、撃沈しそうな僕の為に枕を持って来てくれる。
「うん、大丈夫」
僕は頷いて答えると、吸い寄せられるようにしてその枕に突っ伏した。
「もうやめとけ。それは俺が飲んでやるから」
立ったついでに空になった皿を流しに片付けながら、加藤が背中越しに言う。
「加藤は優しいなあ」
僕はその背を見ながら言うと、深く息をついて目を閉じた。確かにちょっと飲み過ぎたかもしれない。
「誰にでも優しいわけじゃないさ」
加藤の声がして、蛇口から流れ落ちる水音が止まる。
「お前は特別だからな」
続けて言われた言葉のくすぐったさに、僕は思わず笑った。
「加藤と結婚する娘は幸せだろうなあ」
眠気に負けそうになりながら呟くように言うと、加藤が歩み寄って来る気配がする。衣擦れの音に重い目蓋をうっすらと開けると、すぐ上に加藤の端正な顔があった。
「本当にそう思う?」
ああ、やっぱり男前だなあ、と、ぼんやり思っていた僕は、言葉を紡ぐ形の良い唇を見詰めながら、ウン、と頷く。
「だったら俺と結婚する?」
確かに加藤と結婚すれば、毎日美味しい食事を作ってくれるし、あれこれ世話を焼いてくれるしで、きっと至れり尽くせりに違いない。しかし、いかんせん、加藤は男だ。いくらイイ男でも、男同士はあり得ない。
「加藤が女だったらな」
再び睡魔に負けそうになり、トロリと目蓋を閉じながらジョークにジョークで返すと、加藤がフッと笑う気配がする。そして、再び衣擦れの音がしたかと思うと、チュッという小さな音と共に何かが唇に触れた。
「……?」
一瞬何が起きたのかわからなくて目を開けると、間近で加藤が真面目な顔で囁く。
「本気だよ、吉本……好きだ」
スキ?
酩酊して寝惚けた頭が、その言葉の意味を徐々に理解していく。加藤が? 僕を? 好き??
「ええッ?」
慌てて飛び起きると、少しだけ体を引いた加藤が真剣な眼差しで再び言う。
「本気だよ、好きだ」
冗談だよ、という言葉を期待していた僕は、ちょっとしたパニックになる。
「だって……男同士だよ?」
「それでも好きだ」
加藤の瞳のあまりの真剣さに、僕は気後れしてオロオロと言葉を探す。
「僕だって加藤のことは好きだけど、それは親友としてであって……できれば恋人は女の子がいいし、結婚だって……」
僕の言葉を聞いているうちに、加藤の瞳がみるみる失望に沈んでいく。それを見ているのが辛くて、僕は横に置いたままだった上着を掴んだ。
「ごめん、帰るよ……」
今ならまだ終電に間に合う筈である。時計を見上げた僕は、のろのろと立ち上がって戸口に向かう。外に出て、無人の通りをとぼとぼと駅へと向かいながら、もう二度とここには来られないのだと思い、不覚にも涙が滲んだ。
いつもの楽しい金曜日だった筈である。しかも、今日は自分の誕生日祝いだと言ってご馳走とケーキまで用意してくれたのだ。それなのに、何でどうしてこんなことになってしまったのだろうかと考える。
「ハァ……」
正直、告白された時にはびっくりしたが、心のどこかでは気付いていたのだと思う。加藤の気持ちに。気付いていて、気付かないフリをしていたのだ。手放したくなくて……。
「最低だ……」
加藤と過ごす週末が好きだった。加藤の部屋で加藤の作ってくれた手料理を食べ、一緒に缶ビールを飲みながら他愛ない話をかわす、あの時間が好きだった。でも、もう戻れない。自分は全てを失ってしまったのだ。
失ったものの大きさに打ちひしがれながら、とぼとぼと終電間近の駅に向かう。不意にどこかでカラスが、カア、と甲高く鳴き、意識を引き戻された僕は、前にも後ろにも人影が無いことに気付いて急に心細くなった。
駅の向こう側には呑み屋街があるが、こちら側は住宅地なので、電車が着けば帰宅者がチラホラ通るのだろうが、今は人っ子一人いない。駅まではあと五分くらいなので、あとは前方にある立体駐輪場の脇を抜ければすぐである。その抜け道は狭い上に外灯が無いので女性はあまり使わないが、前方の広い道まで出てぐるりと回ると五分近く余計に掛かってしまうので僕はいつも使っている。その駐輪場目指して足を速めたその時、不意に背後で足音が聞こえた。
「……ッ!」
その瞬間、僕は今日が金曜日だということを思い出す。しかも、終電間近の駅に自分は向かっているのだ。もしやと思って振り返ろうとしたが、人間とは不思議なもので、こんな時は一番怖いものを想像してしまうらしい。そして、今の自分にとって一番怖いのは、見たら死んでしまうという自分のドッペルゲンガーだった。
気付かれるな……。
なぜだか不意にそう思い、走り出したいのを必死に我慢して大股で歩く。自分が気付いたことに気付いたら、すぐにでも追い掛けて来そうな気がしたからだ。いきなり隣に並ばれたら、きっと自分は見てしまうに違いない。そうしたら、自分に待っているのは『死』である。
「ハァ、ハァ、ハァ」
いつの間にか早足になり、息が上がって額に冷や汗が滲んでくる。なのに、背後の足音は引き離されないばかりか更に近付いたように感じて、しかも、相手の息遣いが全く聞えないのに気付いて、途端に背筋がゾッと震えた。
着いた……!
駐輪場脇の道に飛び込もうとした瞬間、その先が真っ暗なのを見て怯んだが、しかし背後に迫る足音の恐怖には比ぶるべくもなく、逃げ込むようにしてその闇に飛び込む。
ダメか……。
もしかしたら通り過ぎてくれるのではないかと思ったが、背後の足音も脇道に入って来たのに気付き、心臓が口から飛び出しそうになった。
「助けて……」
途端に足が駆け足に変わり、耳元で鼓動がドクドクと早鐘のように打つ。背後の足音は今やはっきりと聞えるところにまで迫って来ていて、今にも背後から掴み掛かられそうだった。
「加藤……加藤、加藤、助けて」
こんな時に助けを呼べる相手が加藤しかいないことに気付き、情けなくなる。いや、こんな時もどんな時も、僕には加藤しかいないのだということにようやく気付いた。
「うわッ……!」
恐怖で竦み上がった足が何かに蹴躓いてつんのめる。思わず転びそうになって立ち止まった僕は、そしてついに、恐怖に負けて振り向いてしまった。
「……え?」
自分と同じ姿をした『何か』を想像していた僕は、あまりのことに拍子抜けして呆けたように目と口をポカンと開ける。僕を追い掛けて来たらしい加藤は、フゥと大きく息を吐くと、少しだけ首を傾げてから苦笑混じりに言った。
「まったくお前は……そこまで俺のこと好きなくせに、何回ふれば気が済むんだよ」
本当に難攻不落だな、と言われて、僕は意味が分からないながらも口を尖らせる。
「脅かすなよ! 凄く怖かったんだからな!」
そもそもドッペルゲンガーの話をしたのも加藤なら、黙って後ろを付いて来て脅かしたのも加藤である。不意に怒りが込み上げてきて、先程助けを求めたことなどすっかり忘れてプンプン怒る。と同時に、告白されたことやキスされたことや、もう加藤の部屋には行けないのだということも思い出して、再び泣きそうになった。
「とにかく帰る! もう付いて来んな!」
ビシッと言って背を向けようとすると、その肩を掴んで引き戻される。そして、僕の言葉など聞こえなかったかのように、さあ戻るぞ、と言うと、僕の目の前で人差し指を立てて、サン、ニイ、イチ、とカウントダウンした。目の前でパチンと指を鳴らされ、途端に意識が目隠しされる。完全に意識を手放す瞬間、加藤の広い背中に負ぶわれながら、ああ、これでまた元に戻れるのだと、ホッとしている自分を感じた。