毒
ずいぶん昔に書いたもののリメイク版。
どうしよう……。どうすればいい?
私は悩んでいる。この薬を使うかどうか。
「人を殺すなら、絶対これが一番さ」
あの男の声が頭によみがえる。突然現れたあの男。私の心の闇を見抜き、この薬を私に授けた張本人。
「君の心は強く闇に支配されているね」
夜の繁華街を歩いているときにいきなり声をかけてきた。そして、私が何も言わないうちに、小さな小瓶を私に手渡した。見ると、瓶の中には薄い水色の綺麗な液体が入っている。
「その瓶の中にはある薬が入っている。もし、殺したい奴がいるのならそれを1、2滴何かに混ぜるといい。薬は体に残らず、1時間後には心臓麻痺と同じ症状で死んでるよ」
静かに笑いながらそう言って、その男は立ち去った。
自分でも馬鹿だと思う。その変な男に出会ったのは一週間も前だというのに、男からもらった瓶を今でも大切にしまっているのだから。
その薬で人を殺せるという男の話を、信じてしまっているのだから。
正直、私には殺したくてたまらない奴がいる。
あんな奴、死ねばいい。
そう、あの女。私の兄を破滅に追い込んだあの女。あんな奴死ねばいいんだ。私が殺してやる……。
でも、ためらいもある。まず、私は殺人犯になりたくはない。あいつなんかを殺したために、暗い監獄の中で一生を過ごすなんて、ごめんだ。
悪いのはあいつなのに、他人から見たら私が悪者になってしまう。冗談じゃない。
そして……やっぱり人を殺す、ということに抵抗がある。
人の命を自分の都合で、勝手に奪っていいのか。
今、私はその質問に自信を持って答えることができない。
私は……どうすればいい?
誰にも尋ねることができない問い。でもそんなの当たり前。
これは、私の問題。誰も決めてくれやしないんだ。
「ただいま」
一人、リビングのソファで考え込んでいると、突然声をかけられた。
「お、おかえり! お兄さん」
「何をそんなにびっくりしているんだい?」
優しい笑顔で、兄は言う。でも、その笑顔はどこか寂しそうで、疲れていた。
「お義姉さんは?」
「今日は遅いみたいだよ」
「そっか」
私はホッとした。良かった。あの女がまだ帰って来ないなら、いくらでも考える時間はあるってことだ。
あの女がいると、雑用にこき使われて考える暇なんてないから……。
兄が私のためにコーヒーを淹れてくれた。
「今日は久しぶりに2人で夜ごはんだな」
そう言って、兄は笑った。私も笑い返した。
やるしかない。
その日の夜、私はベッドの中で決心した。
久しぶりの兄と2人での食事。とても……とても、楽しかった。
私も兄も、自然に笑うことができた。冷え切った心も、少し、温かくなった気がする。
でも、それもあの女が帰ってくるまでのこと。
一時間ほど前に、あの女は帰ってきた。
その途端、部屋の雰囲気は最悪になってしまった。
今、おそらく兄はリビングで、あいつのご機嫌取りをしているんだろう。
あいつのために紅茶を入れて、あいつのために風呂を温めなおし、あいつのために夜食を作って。
あの女が遅くに帰ってきたことで決心がついた。
殺すしかない。兄を救うために。私の、当たり前の生活と理性を取り戻すためにも……。
大丈夫。あの男がくれた薬があるんだから。あの男が何者かは分からないが、一目で私の闇に気づいた。私と毎日会う友達だって気付かないのに。すごい男だと思う。
きっと大丈夫。
それに、これ以上見ていられない。
兄があいつのために金を貢いだり土下座をしたりしている姿。そんな兄にやさしい言葉をかけるわけでもなく、当然のように振舞うあいつのつんと澄ました顔、綺麗な声だけど高飛車な口調、釣り上った眼、 我が物顔で私とお兄さんの家を歩く姿。
すべてが嫌だ。一秒たりとも見ていたくない。
兄も兄だ。好きだからか、弱みを握られているからなのかは分からないが、あいつの言いなりになりすぎだ。夫婦のくせに、下僕にしか見えない。兄がぺこぺこあいつに頭を下げる姿、気弱でいつもびくびくしている顔。もう、散々だ。見たくもない。
私と二人でいる時の、優しい笑顔の兄に戻ってほしい。
そして、それ以上に……人殺しで悩んでいる私なんか、もう耐えられない。これが自分だと、信じたくない。
あいつには、ブス、チビ、陰険、生きてる意味なしといわれてきたこの容姿。どこかに追いやりたい。人殺しを考えている私なんて……醜いだけだ。
あの女のせいで顔だけでなく、心まで醜くなってしまった。
心まで醜くなった人間は、どうすればいいの?
明日、私はあの女がいつも飲む紅茶に例の薬を入れようと思う。
大丈夫、ばれることはない。いつも、あの女は私に紅茶をいれされるのだから。
そして……残りの薬を、すべてコーヒーに入れようと思う。私は、いつも紅茶を入れる時に、コーヒーを2杯分作る。兄の分と、私の分だ。別にコーヒーが好きなわけではないけど、紅茶はあの女の飲み物という気がして、飲む気にならないから。きっと兄があいつの前では紅茶じゃなくてコーヒーを飲むのも同じ気持ちだと思う。
兄の分と私の分。片方のコーヒーには例の薬が大量に入っている。
私は、兄にコーヒーを選ばせようと思う。兄が薬入りのコーヒーを選べば、私が生き残る。私は、あの女から解放され、同時にたった一人の肉親を失う。
兄を失うのは、とても悲しい。お兄さんはいつも私にやさしかった。あの女の言いなりだったが、彼女があまりにも私のことを悪く言うときは、かばってくれたり、あとで慰めたりしてくれた。
そう。本当は、とても優しい兄なのだ。それを変えたのは、あの女。
あの女のせいで、兄は変わってしまったのだ。
だから、私は、あの女を許さない。
それに、あの女なんかに心を許して結婚した兄を許さない。
そして……事態が悪化するまで兄の様子に気付けないだけでなく、あの女の罵りに、一言もいい返すことができない自分を許さない。
絶対に。
もし、兄が普通のコーヒーのほうを取れば、兄だけが生き残る。兄は、あの女から解放され、同時に妹を失うことになる。
兄は……悲しんでくれるかな?
私は、死ぬことに悔いはない。私が死ぬということは、兄があの女から解放されるということだから。
ここまでくれば、確率は同じ。恐怖のロシアンルーレットの始まりだ。
私は、もう終わりにしたい。こんな生活を。
私か、兄か。
どっちの結果になろうとも、悔いはない。少なくとも、今のこの生活が変わることには違いないのだから。
兄の選択が、私の運命を変える。
――さあ、生き残るのはどちらでしょう?
読んでくださりありがとうございました。