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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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G7の影

第8章:G7の影


東都大学の旧研究所から命からがら逃げ出したあの日から、久我沙耶香の視界からは「純粋な白」が失われていた。


何を見ても、その輪郭に微かなプリズムのような色のズレを感じる。如月の診断によれば、アレイティアによる逆位相攻撃の副作用――脳の視覚野が受けた過負荷による一時的な感覚異常だという。だが、沙耶香は知っていた。これは単なる生理的な現象ではない。相馬誠の「言葉」が、彼女の精神という聖域に深く楔を打ち込んだ証拠なのだ。


『君も、僕と同じだ』


その声が、静まり返った警視庁の廊下を歩く彼女の耳の奥で、呪文のように繰り返される。


警視庁本庁舎は、十八日後に控えたG7首脳会議に向けて、平時のそれとは一線を画す異様な熱気に包まれていた。廊下には各県警から派遣された応援部隊が溢れ、巨大な機材が運び込まれ、怒号に近い指示が飛び交う。


だが、沙耶香はその中心にいながら、まるで厚いガラス越しに世界を見ているような疎外感を抱いていた。


「久我さん、会議室へ。警備局のトップ、東堂とうどう長官が直々にお見えです」


藤城が緊張した面持ちで彼女を呼びに来た。東堂長官。警察庁の最高幹部の一人であり、今回のG7警備の全権を握る「官邸の盾」と呼ばれる男だ。大河内警視長の上官にあたる。


会議室に入ると、そこには不気味なほどの静寂が広がっていた。 上座に座る東堂は、剃刀のように鋭い眼光を沙耶香に向けた。その傍らには、苦渋に満ちた表情の大河内が立っている。


「久我巡査部長。君のレポートを読んだ。相馬誠との接触、そしてアプリの危険性について。……実に興味深く、そして、恐ろしい内容だ」


東堂の声は、意外なほど穏やかだった。だが、沙耶香は背筋が凍るような違和感を覚えた。この男の瞳には、大河内のような「否定」がない。代わりに、もっと底知れない「受容」があった。


「長官、ご理解いただけるのであれば、直ちに全署員の私有スマホを――」


「いや、その必要はない」


東堂が遮った。彼はテーブルの上に一枚のタブレットを置いた。そこには、政府が極秘裏に開発を進めているという警備用公式アプリ『セーフ・ガード』の企画書が映し出されていた。


「我々も手をこまねいていたわけではない。G7期間中、テロ防止の名目で全市民、および全警察官にこの『セーフ・ガード』のインストールを義務付ける。これは強力なジャミング機能を持ち、外部からのいかがわしい信号をすべて遮断する盾となるものだ」


沙耶香は身を乗り出し、その仕様書を凝視した。 一分。二分。 彼女の顔から、血の気が引いていく。


「……長官。このアプリの基本アルゴリズム、どこが作成したのですか?」


「国内の複数のIT企業によるコンソーシアムだ。それが何か?」


「違います」 沙耶香の声が震えた。 「これは……『エデン・ゲート』の構造を反転させただけのものです。外部からの信号を遮断するのではなく、特定の管理サーバーからの信号に対して、脳をより『無防備』にするためのゲートウェイになっている。これでは、国を挙げて相馬誠に首を差し出すようなものです!」


「無礼な!」大河内が怒鳴った。「これは政府の総意だぞ」


だが、東堂は手制した。彼は薄く笑い、沙耶香を凝視した。


「久我君。君は心理学の専門家だ。……『統制された平和』と『混沌とした自由』、どちらが人類にとって幸せだと思うかね? 突発的な暴動、理解不能な暴力。それらをデジタルの力で未然に防ぎ、国民を一つの穏やかなリズムに導く。それは、究極の福祉ではないか?」


沙耶香は悟った。 絶望が、冷たい泥のように足元から這い上がってくる。 犯人は、相馬誠一人ではない。 この組織の、この国家の中枢に、相馬の思想に「共鳴」した人間たちが既に巣食っているのだ。彼らは相馬の技術を利用して、国民を「操作可能な家畜」に変えようとしている。


「……あなたは、相馬と繋がっているのね」


沙耶香の言葉に、東堂は答えなかった。ただ、冷徹な事務連絡を口にした。


「久我巡査部長。君は連日の捜査による心身の疲弊が著しいと判断された。本日を以て、本件の捜査から外れ、一週間の自宅待機を命ずる。……武器と警察手帳を置きなさい」


夕暮れの街。 沙耶香は、警察という名の「大きな家族」から放逐され、たった一人で交差点を歩いていた。 手に持っているのは、警察手帳ではなく、如月から渡されたアナログな録音機だけだ。


行き交う人々は、相変わらずスマホの画面を見つめている。 もうすぐ、政府から『セーフ・ガード』という名の「安全な首輪」が配られる。人々はそれを自ら望んで、救済として受け入れるだろう。


「久我さん!」


背後から声がした。藤城だった。彼は周囲を警戒しながら、沙耶香に駆け寄った。


「藤城君……あなたまで来たら、処分されるわ」


「もう、そんなの関係ありません。如月さんが、地下の秘密サーバーから面白いデータを見つけました。……東堂長官の口座に、数年前から実体のない海外の財団から多額の献金があったそうです。その財団の設立者は……」


「相馬、でしょう?」


「ええ。でも、それだけじゃない。如月さんは、アレイティアに『相馬の真の目的』を再計算させました。彼は、G7で首脳を殺すことなんて狙っていない」


沙耶香は足を止め、藤城を見つめた。


「相馬が狙っているのは、首脳たちが署名する『共同宣言』です。……世界中のテレビ、ネットで生中継されるその瞬間、宣言を読み上げる声、背後の映像に、全世界を対象にした『起動トリガー』を仕込むつもりです。感染者は日本だけじゃない。世界中に、アプリの亜種は広がっている」


「全世界の、共鳴……」


想像を絶する規模のテロ。いや、それはもはやテロではない。人類全体の「意志」の更新だ。


その時、沙耶香の胸ポケットにある録音機が、奇妙なノイズを発した。 同時に、歩道のデジタルサイネージが一瞬、歪んだ幾何学模様を映し出した。


「藤城君、伏せて!」


沙耶香が叫ぶのと同時、周囲の歩行者たちが一斉に足を止めた。 彼らの瞳が、夕焼けの空と同じ、不気味な赤色に染まっていく。 隣を歩いていたサラリーマンが、感情の欠落した顔で、手に持っていたカバンを振り上げ、近くの街灯に叩きつけ始めた。 女子学生が、絶叫しながら自分のスマートフォンを地面に叩きつけ、その破片で自分の腕を傷つけようとする。


「始まった……。まだG7前なのに!」


「テストですよ」 不意に、近くの公衆電話のスピーカーから、あの男の声が聞こえた。 相馬誠。


「沙耶香さん。組織は君を捨てた。世界は、もう僕のメロディなしでは生きていけないところまで来ている。……君だけは、特別だ。君の脳には、僕の『一部』がもう入っているからね」


沙耶香は、自分の震える手を見つめた。 視界の端で、色が激しく明滅している。 彼女の内側でも、何かが共鳴しようとしていた。


「私は……あなたには、ならない」


「どうかな。……君が一番恐れているのは、誰からも理解されないことだろう? だが、僕の回路の中では、すべてが筒抜けだ。君の孤独も、君の正義も。……さあ、こちらへおいで。G7の特等席を用意して待っているよ」


信号が青に変わる。 だが、誰一人として歩き出さない。 暴徒と化した者、放心して座り込む者。 東京という巨大な回路が、本格的なショートを始めた。


沙耶香は藤城の手を強く握った。 「藤城君。……如月さんのところへ。警察も、政府も、もう信じられない。私たちが、この『音』を止めるしかない」


「でも、どうやって?」


「毒には、毒を。……アレイティアを、東京中のネットワークに『自爆テロ』として放り込むのよ。全世界の接続を、物理的に、一時的に焼き切るしかない」


それは、現代文明への死刑宣告に等しい作戦だった。 だが、久我沙耶香の瞳には、かつての「氷の分析官」にはなかった、燃えるような人間の意志が宿っていた。


残り十七日。 彼女は、世界を救うために、世界を一度壊す決意を固めた。


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