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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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AIという盾

第7章:AIという盾


警視庁の地下、かつては倉庫として使われていた湿っぽい小部屋に、如月蓮が隠し持っていた「物理的バックアップ」のサーバーが、心臓の鼓動のような低い唸りを上げていた。


本庁のメインシステムが相馬誠、あるいは組織内の同調者によって侵食された今、ここだけが「汚染」されていない唯一の聖域だった。


「久我先生、準備はいいですか。アレイティア(真理)を再起動します」


如月がキーボードを叩くと、小さなモニターに青白い光が灯り、文字列が高速で走り始める。かつて「氷の分析官」と呼ばれた沙耶香の瞳に、その冷たい光が反射した。


「ええ。彼が私を招いたのは、単なるお喋りのためじゃない。言葉の裏側に潜ませた周波数で、私の意識を内側から食い破るつもりよ」


沙耶香は、如月が用意した特殊なイヤホンを手にとった。それは、AIアレイティアと沙耶香の脳波をリアルタイムで同期させ、外部からの「共鳴」を相殺するための、未完のデバイスだった。


「これは盾であり、諸刃の剣です」 如月は、いつになく真剣な眼差しで沙耶香を見つめた。 「アレイティアは、相馬の放つ『ノイズ』を検知すると、即座に逆位相の音波を脳に直接叩き込みます。理性を守る代わり、脳への負荷は凄まじい。……最悪の場合、意識が戻らなくなる恐れもある」


「……それでも、行くわ」 沙耶香は躊躇わずにイヤホンを装着した。 「彼が何を信じ、何を憎んでいるのか。それを知らなければ、この街を救うための『最後のピース』は見つからない」


翌朝、午前十時。 東都大学の旧・神経科学研究所は、鬱蒼とした森のような緑に飲み込まれ、都会の喧騒から切り離された「墓標」のように佇んでいた。


二十年前の事故以来、立ち入り禁止となっているはずのその建物には、今も不気味なほどの静寂が漂っている。沙耶香は一人、錆び付いた鉄扉を押し開けた。背後には、無線を通じて彼女を見守る藤城と如月の気配だけがある。


「――来たね、沙耶香さん」


廊下の奥、暗闇から聞こえてきたのは、スピーカー越しではない、血の通った「肉声」だった。


現れた男は、かつての写真よりはるかに痩せ細り、深い孤独を煮詰めたような影を纏っていた。相馬誠。かつての天才准教授は、白衣を羽織ったまま、実験室の古びたモニター群に囲まれて立っていた。


「ここに来るまで、君の脳波は極めて安定していた。アレイティア……如月君が作ったあの『盾』は、よくできている。だが、不完全だ」


相馬が指を鳴らすと、周囲のモニターが一斉に点灯した。 映し出されたのは、パズルゲームの幾何学模様ではない。 沙耶香のこれまでの人生、大学時代の記録、誰にも見せていない日記の内容、そして――亡くなった両親の葬儀で、たった一人、涙も見せずに立ち尽くしていた彼女の映像だった。


「君も、僕と同じだ。世界を不完全だと感じ、システムで武装することでしか、自分を守れなかった」


耳元のイヤホンが、警告の電子音を鳴らす。 相馬の声に含まれる、可聴域外の超低周波をアレイティアが検知したのだ。沙耶香の視界がわずかに歪み、過去の記憶が濁流となって押し寄せてくる。


(……惑わされないで。これは、彼のプログラミングに過ぎない)


沙耶香は、掌を爪で強く突き刺した。 「相馬誠。あなたのしていることは、進化でも救済でもない。ただの、巨大な『心中』よ」


「心中?」 相馬は悲しげに微笑んだ。 「違う。僕は、人間に『最愛の孤独』を返してあげたいだけだ。君も知っているはずだ。この繋がれすぎた世界で、本当の自分を見失う恐怖を。僕の『エデン』に入れば、もう誰の顔色を窺う必要もない。ただ、完璧な幾何学の一部として、永遠の安らぎを得られるんだ」


「その安らぎのために、罪のない人々が血を流しているのよ!」


「バグを取り除くには、多少の熱が必要だ」 相馬が歩み寄る。彼の瞳の中には、アプリと同じ色彩の光が宿っているように見えた。


「沙耶香さん。君の『盾』は、いつまで持つかな?」


突如、室内のスピーカーから、山手線の惨劇を呼び起こすあの不快な高周波が鳴り響いた。 アレイティアが即座に逆位相の衝撃を脳に送る。沙耶香の頭蓋の中で、火花が散るような激痛が走った。


「う、あ……!」


床に膝をつく沙耶香。意識が白濁し、思考が断片化されていく。 アレイティアが必死に理性を繋ぎ止めようとするが、相馬の「攻撃」は、さらに深く、彼女の根源的な孤独へと潜り込んでくる。


『寂しいんだろう? 誰も、君の本当の言葉を聞いてくれない』 『この組織に、君の居場所はない』 『さあ、パズルを完成させよう。君が、最後のピースなんだ』


「……黙り、なさい……」


沙耶香は、意識の混濁の中で、如月の言葉を思い出していた。 『AIは、感情を持たない盾だ。でも、それを動かすのはあなたの意志だ』


(AIに任せるんじゃない。……私が、AIを使いこなすの!)


沙耶香は、アレイティアの制御を「防御」から「分析」へと切り替えた。 彼女の脳を通じて、相馬が発する信号の「パターン」をアレイティアに読み取らせる。


「……見えたわ、あなたの弱点」


沙耶香は顔を上げ、震える足で立ち上がった。鼻から、一筋の血が流れ落ちる。 「あなたは、妹さんを……しおりさんを救えなかった。だから、世界中を彼女と同じ『共鳴状態』にすることで、自分の失敗をなかったことにしたいのね」


相馬の表情が、初めて凍りついた。


「救済じゃない。これは、あなたの『逃避』よ。相馬誠……あなたは、自分が一番憎んでいるはずの『不完全な人間』そのものだわ」


「黙れ……!」


相馬が叫び、モニターが爆発的な光を放った。 だがその瞬間、沙耶香のイヤホンから、アレイティアが解析し尽くした「反転コード」が、部屋中のネットワークへと逆流した。


モニターが次々とブラックアウトし、不気味な電子音が消えていく。


「なっ……バックアップだと!?」


「私の脳を、あなたのシステムへの『入り口』に使わせてもらったわ」 沙耶香は、荒い息を吐きながら相馬を見据えた。 「これで、アプリの停止コードの雛形ができた。……勝負は、まだこれからよ」


相馬は、不敵な笑みを浮かべ、闇の中へと後退していった。 「……面白い。だが、G7までのカウントダウンは止まらない。君がこの『殻』を破る前に、東京は僕の音色で満たされるだろう」


彼が姿を消すと同時に、研究所の古いシステムが自壊を始めた。 「久我さん! 脱出してください!」 藤城の声が無線に響く。


沙耶香は、崩れゆく実験室から、ふらつく足取りで駆け出した。 外に出ると、冷たい雨が彼女の頬を打った。 脳への負荷で、視界はまだ半分霞んでいる。だが、彼女の手元には、アレイティアが命懸けで持ち帰った「敵の核心」という名のデータが残っていた。


残り十八日。 前哨戦は終わった。 久我沙耶香は、一人の人間として、そして最強の「盾」を得た分析官として、本当の地獄へと足を踏み入れる。


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