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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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組織の深淵

第6章:組織の深淵


警視庁本庁舎、十五階の特別会議室。 厚い防音壁に囲まれたその部屋は、窓の外に広がるきらびやかな東京の夜景とは対照的に、淀んだ空気と古びた権威の匂いに満ちていた。


「久我君、君の熱意は認めるが、話が飛躍しすぎている」


長円形のテーブルの端に座る大河内警視長が、手元の資料を無造作に放り出した。その横に並ぶ幹部たちの顔には、一様に隠しきれない不快感と、若き女性分析官に対する侮蔑が混じった「困惑」が浮かんでいる。


「相馬誠という男が天才だったことは認めよう。だが、十年前に行方不明になった人間が、今さらスマホ一台で国家を転覆させる? 荒唐無稽だ。今の日本には、強固なサイバーセキュリティが存在する。民間企業のアプリ一つに、機動隊員が操られるなど、現場の人間を馬鹿にしているのか」


沙耶香は、テーブルの下で拳を硬く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。その痛みが、爆発しそうな感情を辛うじて繋ぎ止めていた。


「大河内警視長、これはサイバー攻撃の範疇を超えた『精神的侵食』なのです。セキュリティが守っているのはデータの整合性であって、それを受け取る人間の『脳』ではありません。相馬が構築したのは、人間の脆弱性を突いた感情のプログラミングです」


「もういい」 大河内は冷たく遮った。 「君の任務は、あくまで加害者の心理分析だ。捜査の指揮権や、警備計画への介入は認められない。……それと、君が要求していた『全署員の私有スマホの提出と検査』。これは却下する。人権侵害だという抗議が組合からも上がっている」


「しかし、それでは感染の拡大を防げません!」


「久我巡査部長」 大河内が初めて彼女の階級を呼んだ。そこには明確な「上下関係の再確認」という意図が込められていた。 「身の程をわきまえなさい。君は学者ではない。警察官だ」


会議室を出た沙耶香の背中に、冷ややかな視線が突き刺さる。 廊下を歩く彼女の足音は、いつもより少しだけ早かった。怒りで視界が狭まりそうになるのを、深く、長い呼吸で押し戻す。


「久我さん!」 藤城が駆け寄ってきた。彼の顔色も優れない。 「どうでした、上層部は……」


「……壁よ。想像以上に厚くて、カビ臭い壁」 沙耶香は足を止め、窓の外を見つめた。 「彼らは、目に見える敵を求めているの。銃を持ったテロリストや、爆弾を抱えた犯人を。でも、今回の敵は『みんなのポケット』の中にいる。それを受け入れることは、自分たちの無力さを認めることになるから、怖いのよ」


「でも、時間は……」


「ええ、もう二十日を切ったわ」 沙耶香は翻り、地下へと向かうエレベーターのボタンを叩いた。 「組織が動かないなら、私たちが動くしかない。藤城君、相馬誠の資料は?」


「はい。如月さんと一緒に、相馬の出身大学のデータベースから、削除されていた研究日誌の一部を復元しました。……かなり不気味な内容です」


地下の分析室。如月蓮が、無精髭を隠そうともせずにモニターを睨みつけていた。


「久我先生、おかえりなさい。上の老害どもは、相変わらずアナログなプライドにしがみついてるようですね」


「……その話はいいわ。如月さん、復元したデータを見せて」


如月がキーボードを叩くと、モニターにセピア色のスキャン画像が表示された。二十年前の相馬誠の研究ノートだ。


そこには、整った、だがどこか強迫観念を感じさせる緻密な筆致で、恐るべき理論が綴られていた。


『――人間は、不完全なハードウェアである。感情という名のノイズが、個体の可能性を制限している。もし、特定の外部信号レゾナンスによって、大脳辺縁系の出力を同期させることができれば、人類は個を越えた一つの「神経系」へと進化できるだろう。孤独は、接続プラグインされていない状態の欠陥に過ぎない』


沙耶香は、その一文を何度も読み返した。 「進化……。彼は、犯罪を起こしたいんじゃない。人間を、自分のプログラムの一部として『完成』させようとしているのね」


「この理論を証明するために、彼はある実験を行っていました」 如月が別の画像を開く。 「『プロジェクト・エコー』。志願者に特定の周波数の音を聞かせ続け、集団催眠下で同一の行動を取らせる実験です。しかし、実験中に一人の志願者が発狂し、周囲を殺傷する惨劇が起きた。相馬は責任を問われ、大学を追われた……というのが表向きの記録です」


「表向き?」沙耶香が聞き返した。


「ええ。実は、その発狂した志願者というのは、相馬の唯一の肉親……妹だったという未確認の情報があります」


沙耶香の胸に、冷たい風が吹き抜けた。 プロファイラーとしての回路が、急速に相馬誠という男の輪郭を形作っていく。 孤独。妹。進化。失敗。 彼は、妹を救いたかったのか。あるいは、妹が壊れた理由を、社会の「不完全さ」に転嫁しようとしているのか。


「久我さん、これを見てください」 藤城が、最新のネット上の観測データを指した。 「事件が……止まっています。昨日の図書館の事件以来、都内での突発的な暴行がパタリと止みました」


「止まった?」 沙耶香は眉をひそめた。 「嵐の前の静けさ……というには、不自然すぎるわね。アプリのダウンロード数は?」


「加速しています。それも、若年層だけでなく、中高年層にまで。理由は、『このアプリを入れていると、イライラが消えて仕事に集中できる』という口コミが広がっているからです」


沙耶香は戦慄した。 「……イライラが消える? 違うわ。それは、感情の振幅を犯人のシステムに『掌握』されている証拠よ。今は牙を隠しているだけ。全員を『発火ポイント』まで一斉に引き上げようとしているんだわ」


その時、如月の操作するメインコンピューターが、けたたましくアラートを鳴らした。


「な、なんだ!? 警察庁のサーバーから、逆ハッキングを受けている……!? 違う、これは……内側からの消去命令だ!」


「如月さん、遮断して!」


「クソッ、権限がロックされてる! 誰かが……上の人間が、僕たちの解析データを消そうとしている!」


モニターのデータが、次々と砂嵐へと変わっていく。 沙耶香たちが必死に集めた相馬誠の過去、アプリの解析コード、そしてG7への警告資料。 すべてが、組織という名の巨大な意志によって、闇へと葬り去られようとしていた。


「待って……アレイティアだけは! アレイティアだけは守って!」


沙耶香が叫ぶが、如月の指は空を切った。 最後にモニターに映し出されたのは、警察庁のロゴでも、相馬の画像でもなかった。


漆黒の画面に、ただ一行。


『――不完全な箱(組織)に、真実は入らない。』


「……相馬」 沙耶香は呟いた。 彼は、警察内部のネットワークにさえ、既に牙を剥いていたのだ。 あるいは、組織の中にも既に「共鳴者」がいるのか。


「データが……全部消えた」 如月が力なく椅子に沈み込んだ。


「いいえ」 沙耶香は、自分の胸元に手を当てた。 「私の頭の中に、すべて残っているわ。それに、アナログな手帳にも」


彼女は、震える手でバッグから一冊の小さな手帳を取り出した。デジタルを拒絶し、ペンで書き込み続けてきた彼女の「聖域」。


「藤城君。私たちは、もう組織の人間として動くことはできないかもしれない」 沙耶香は、真っ直ぐに二人の目を見つめた。 「ここから先は、命令じゃない。一人の人間として、東京を守るために戦ってくれる?」


藤城は、一瞬だけ恐怖に顔を歪めたが、すぐに力強く頷いた。 「もちろんです。……僕は、久我さんの言葉を信じます」


如月も、ニヤリと不敵に笑った。 「バックアップは、物理的に切り離したサーバーに隠してありますよ。エンジニアを舐めないでほしい。……やりましょう、久我先生。最高のパズルを解いてやりましょう」


その時、沙耶香の私用スマホが、奇妙な振動をした。 画面を見ると、非通知の設定で、一通のメッセージが届いていた。


『明日、午前十時。東都大学の旧・神経科学研究所。君の「孤独」の答えを教えよう。』


「罠ね……」 沙耶香は、その文字をじっと見つめた。 犯人からの直接の招待。 組織に裏切られ、孤立無援となった彼女を、相馬誠は手招きしている。


「久我さん、行っちゃダメだ!」藤城が止める。


「いいえ。彼が私を呼んでいるのは、私が彼を『理解できる』唯一の人間だと思っているからよ」 沙耶香は、冷たく澄んだ瞳で窓の外を見た。 「これは、対話じゃない。……魂のプロファイリングを、直接叩き込むチャンスよ」


警視庁という巨大な組織が、沈黙を守り、自らを腐食させていく中で。 二十九歳の女性分析官は、たった二人の仲間と共に、深い霧の奥に潜む「王」の元へ向かう決意を固めた。


残り十九日。 東京という名の巨大な回路が、完成の瞬間を待っている。


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