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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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幽霊の棲む街

第5章:幽霊の棲む街


品川の埋立地、潮風に混じる錆びた鉄の匂いが、久我沙耶香の鼻腔を突いた。 昨日訪れたはずの「エデン・テクノロジー」が入っていた雑居ビル。その三階、三〇四号室の前に、彼女は再び立っていた。今回は一人だった。藤城には本庁で警備局との調整を任せ、彼女はプロファイラーとしての「直感」に従ってここへ戻ってきた。


「デジタルな犯罪であればあるほど、現場にはアナログな『おり』が残る……」


恩師の言葉を反芻しながら、沙耶香は警察の規制線が張られたドアを潜り、無機質な部屋に足を踏み入れた。昨夜、スマホが爆発した痕跡が床に黒く残っている。鑑識の作業は終わっているが、彼女が求めているのは証拠品リストに載るような物証ではない。この空間を支配していた「主」の思考の残滓だ。


彼女は部屋の中央に立ち、そっと目を閉じた。 視覚を遮断すると、周囲の音が際立って聞こえてくる。遠くを走るモノレールの駆動音、建物の隙間を抜ける風の泣き声。そして、微かな、本当に微かな音――規則的なクリック音のようなものが、壁の奥から聞こえる気がした。


沙耶香は壁に耳を当てた。昨夜、如月が「超指向性スピーカー」の存在を指摘した場所だ。 壁紙の裏側。彼女は持参したペンライトで壁の隅々を照らし、指先で感触を確かめていく。


「……あった」


壁の継ぎ目に、髪の毛一本ほどの隙間があった。そこを指先で探ると、壁の一部が隠し扉のようにスライドした。 現れたのは、小さな、だが精緻な配線盤だ。そこには、最新の光ファイバーとは別に、古びた、しかし手入れの行き届いた銅線が這っていた。


「専用線……? ネットを介さずに、このビル全体の鉄骨を巨大なアンテナにして信号を送っていたのね」


沙耶香は鳥肌が立つのを感じた。犯人は、既存のサイバーセキュリティの網を潜り抜けるために、あえて数十年前の旧式な通信技術を現代のアルゴリズムと融合させている。 彼女は配線盤の脇に、一枚の小さなシールが貼ってあるのを見つけた。 色褪せた銀色のシールには、林檎を象ったロゴと共に、手書きの数字が記されていた。


『0.00000001%』


「一億分の一……。生存確率? それとも、適合率かしら」


沙耶香はその数字を脳に刻み込み、部屋を後にした。この場所は、単なる発信基地ではない。犯人にとっての「実験場」であり、同時に「聖域」だったのだ。


警視庁に戻った沙耶香を待っていたのは、如月蓮の冷ややかな、だが興奮を帯びた声だった。


「久我先生、アレイティアが面白いものを見つけましたよ。アプリ『エデン・ゲート』のアップデート履歴を解析した結果、ある奇妙な法則が浮かび上がりました」


如月がモニターを叩くと、そこには複雑な波形グラフが表示された。 「このアプリ、定期的に微細なプログラムの更新を行っていますが、それは不具合の修正じゃない。ユーザーの『精神状態の推移』に合わせて、刺激の強度をリアルタイムで調整しているんです」


「調整? どうやってユーザーの状態を知るの?」


「インカメラによる視線計測、マイクによる呼吸音の解析、そして画面に触れる指先の微かな震え。これらすべてをAIが分析し、その人が『一番深く落ち込んでいる瞬間』に、最も甘美な刺激を与えるように設計されている。……まるで、獲物の体温を測りながら毒を注入する蜘蛛のようです」


沙耶香は、如月の言葉に戦慄した。 「つまり、このアプリは単なる洗脳装置じゃない。ユーザー一人ひとりに最適化された『オーダーメイドの支配者』なのね」


「その通り。そして、アレイティアが導き出した『次のフェーズ』の予測です」


モニターに、東京の地図が映し出された。 「これまでの事件は、いわば『散発的な発火』でした。しかし、次のアップデートでは、感染した端末同士が網状に繋がり、一つの巨大な『集合知グループマインド』を形成するようプログラムされています。一人が暴れ出すのではなく、数百人が、一人の意志を持った巨大な生き物のように動く」


「……それが、G7の会場で起きる」


沙耶香は、拳を握りしめた。 「藤城君、警備局の反応は?」


背後から藤城が、苦い表情で現れた。 「最悪です。上層部は、このアプリの危険性を認めてはいますが、『証拠が理論的すぎる』と一蹴されました。特に、警察官のスマホ没収については、『士気に関わる』『プライバシーの侵害だ』と現場の指揮官クラスが猛反発しています」


「士気……。彼らは気づいていないのね。自分たちが守ろうとしているプライバシーそのものが、既にハッキングされていることに」


沙耶香の声が冷たく響いた。 「藤城君、管理官に伝えて。私が直接、警備責任者と話すわ。それと、如月さん。その『一億分の一』という数字の意味、アレイティアに検索させてみて」


一時間後、沙耶香は警視庁の大会議室にいた。 正面に座るのは、G7警備の総責任者、大河内警視長。叩き上げの厳格な男として知られている。


「久我君。君の分析は興味深いが、現実離れしている。スマホ一台で、訓練を受けた機動隊員が暴徒化するなど、到底信じられんよ」


「大河内警視長。これは『信じる・信じない』の問題ではなく、既に起きている現象です」 沙耶香は、手元の資料を机に広げた。 「これまでの加害者の脳波データです。彼らは犯行時、完全に自我を喪失し、外部からの信号にのみ反応していました。もし、首脳会議の当日、警護対象者の目の前で、守るべき警察官が突然銃を抜いたら? それが一人ではなく、数十人規模で同時に起きたら、防げますか?」


大河内は沈黙した。その瞳に、微かな動揺が走る。 「……しかし、根拠がない。その『信号』とやらが、いつ、どこから発信されるのか」


「それを見極めるのが、私の仕事です。私は、犯人が潜んでいる『精神的な座標』を特定しました」


沙耶香は、真っ直ぐに大河内の目を見据えた。 「犯人は、社会から拒絶され、孤独を極めた末に、デジタルの海に自分だけの理想郷エデンを作ろうとした天才です。彼は、自分の孤独を理解しない『持てる者たち』……つまり、G7の首脳たちや、彼らを守る体制そのものを、不完全なバグとして排除しようとしています。これは、高度な技術を用いた『復讐』なんです」


「復讐……だと?」


「ええ。だからこそ、彼は必ず現場に来ます。自分の作品が、完成する瞬間を見届けるために」


会議室を出た沙耶香は、廊下で壁に寄りかかり、深く息を吐いた。 説得は不十分だった。組織は、目に見えない脅威よりも、目に見える面子を優先する。


その時、彼女のポケットで、解析用に持ち歩いている「安全な」端末が震えた。 如月からの着信だ。


『久我先生! 出ました、あの一億分の一の意味!』 如月の声が、これまでにないほど上ずっている。


『二十年前の学術論文です。東都大学の神経科学研究所が出した、幻の論文。タイトルは「共鳴による脳内情報の物理的書き換え理論」。……その著者の名前が』


沙耶香は、足を止めた。 「名前は?」


相馬そうま まこと。……当時、二十代で准教授を務めた天才ですが、ある実験の事故をきっかけに学界を追放され、戸籍上は十年前に行方不明になっています』


相馬誠。 沙耶香の脳内で、バラバラだったピースが急速に繋がり始めた。 あの品川のビルの配線、旧式な銅線へのこだわり、そして人間の脳をプログラムとして扱う冷酷なまでの客観性。


「……彼なのね。マスターは」


「久我さん、新たな予告が届きました!」 藤城が走ってくる。その手には、警視庁の広報アドレスに届いた一通のメールが印刷されていた。


『――祝典まで残り二十日。不完全な神々に、沈黙を。』


沙耶香は、その紙を握りしめた。 犯人は、もはや姿を隠すつもりはない。 現代人が肌身離さず持っているスマートフォンという「窓」から、彼は今もこちらを覗き、嘲笑っているのだ。


「藤城君、相馬誠の過去をすべて洗って。彼が何を失い、何を恨んでいるのか。……彼の『孤独の正体』を突き止める。それが、この計画を止める唯一の鍵になる」


雨が再び降り始めた。 夜の帳が下りる東京の街で、無数の窓から漏れるスマホの光が、まるで怪物リヴァイアサンの鱗のように冷たく光っていた。


久我沙耶香は、その光の海に向かって、一歩を踏み出した。 彼女の中にある「分析官」としての冷徹さと、「一人の女性」としての熱い憤りが、静かに、だが激しく共鳴し始めていた。


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