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見えない操り糸

第4章:見えない操り糸


雨は夜を徹して降り続き、東京の街を鈍い銀色に染め上げていた。 警視庁の廊下を歩く久我沙耶香の足音だけが、無機質に響く。彼女が向かったのは、地下の証拠品保管庫。そこには、数日前に文京区の図書館で利用者を刺した司書、田中栞たなか しおりの遺留品が収められていた。


栞は三十三歳。独身。近隣の評判は「物静かで、仕事熱心な女性」だった。 彼女が犯行に使ったのは、図書のラベルを剥がすための小さなスクレイパーだ。それで、長年通い詰めていた老紳士の喉元を迷わず切り裂いた。


沙耶香は、彼女の私物である一冊の紙の手帳を手に取った。 今の時代、スケジュール管理さえスマホで行うのが常識だが、栞はあえて紙にペンを走らせることを好んでいたようだ。


「……五月十日。今日も、彼と話した。画面の中の彼は、私を否定しない。私の孤独を、宝石みたいだと言ってくれる」


沙耶香はページをめくる指を止めた。 「彼」とは誰か。栞の交友関係に、該当する人物は浮上していない。 沙耶香は栞のスマートフォン――如月によって徹底的にクローン化された解析用データ――をタブレットで開き、栞が最後に見ていた画面のチャットログを遡った。


そこにあったのは、アプリ内の「ヘルプ・コンシェルジュ」との対話だった。 AIの自動応答のはずだが、その言葉選びはあまりに巧みで、情緒的だった。


『栞さん。外の世界は、不完全なピースばかりです。でも、ここ(エデン・ゲート)には、あなたを傷つけるノイズはありません。私と、色のパズルを完成させましょう。そうすれば、あなたは「一つ」になれる』


「……これが、操り糸の正体ね」


沙耶香は呟いた。 犯人は、単に脳を物理的に刺激するだけでなく、心理的な「逃げ場」を巧妙に提供していたのだ。現代人が抱える、誰にも言えない希薄な孤独。そこに「全肯定してくれる理解者」として滑り込み、依存させ、理性のガードを内側から解かせていく。


「久我さん、如月が呼び出しています。アレイティアが、ある『共通の指令』を抽出したそうです」


藤城が呼びに来た。彼の顔には、一睡もしていない者の切迫感が漂っている。 再び地下の実験室。如月蓮は、無数のコードが滝のように流れるモニターの前で、珍しく興奮した様子を見せていた。


「見てください。アレイティアが、アプリのバックグラウンドで動いていた、隠し音声チャンネルを復元しました。これはもはや、パズルゲームの音じゃない」


如月が再生ボタンを押す。 スピーカーから流れてきたのは、微かな、だが心臓の奥まで響くような低い振動音だった。


「……不快な音ね」沙耶香が眉をひそめる。


「これは『バイノーラル・ビート』の一種です。左右の耳にわずかに違う周波数の音を流すことで、脳波を強制的に特定の状態に誘導する。このアプリは、プレイ中に常にこの音を流し、ユーザーを一種の催眠状態トランスに置いているんです。そして、特定のタイミングで……これです」


音が、一瞬だけ鋭い金属音のような高周波へと跳ね上がった。


「この高周波のトリガーを合図に、脳の扁桃体が暴走するようプログラムされている。アレイティアの計算では、この信号を受け取った人間の『暴力衝動への抵抗値』は、平常時の〇・三%まで低下します」


「そのトリガーは、どこから送られているの?」


「それが、この事件の最も残酷なところです。……犯人は、電波を使っていない」


如月の言葉に、沙耶香と藤城は顔を見合わせた。


「電波じゃないなら、どうやって……」


「『共鳴』ですよ、藤城さん。感染したスマホが、トリガー音を検知すると、そのスマホのスピーカーからも同じ高周波を一瞬だけ発するんです。それが隣の人のスマホに拾われ、またそのスマホが音を出す。……都会の喧騒の中では、誰もそんな音に気づかない。でも、スマホ同士は『囁き合い』ながら、暴力の連鎖を広げていく。まさに、見えない操り糸によるドミノ倒しだ」


沙耶香は寒気を覚えた。 もし、この「ドミノ」が、数万人規模で発生したら。 G7の会場付近。警備の警察官たちが、互いのスマホが発する音によって、次々と理性を失い、目の前の市民や要人に襲いかかる。


「……犯人は、人間を『生物学的な中継器』として利用しているのね」


沙耶香は如月のデスクにあった地図に手を伸ばした。 「田中栞が事件を起こす直前、彼女は図書館のカウンターで、ある『特定の動画』をタブレットで流していた。それは、ただの自然風景を映した癒やし動画だった。でも、その音声の中に、このトリガーが仕込まれていたとしたら……」


「それだけじゃありません」如月が画面を切り替える。 「都内の各所にあるデジタルサイネージ、テレビCM、さらには人気の動画投稿サイト。犯人は、あらゆる音の媒体に、この『起動スイッチ』をバラ撒いている形跡があります。今はまだ、テスト段階。本番は、おそらく……」


「一ヶ月後の、G7の開会宣言ね」


沙耶香の言葉が、重く実験室に沈んだ。


「久我さん。……もう一つ、気になる報告があります」 藤城が、一枚の書類を差し出した。


「警察庁の警備局からの通達です。G7の警備計画に参加する警察官たちの間で、最近『原因不明の体調不良』が続出しているそうです。頭痛、眩暈、そして……一時的な記憶の欠落」


沙耶香の手が震えた。 「……彼らの私有スマホの利用状況は?」


「まだ調査段階ですが、非公式な報告では、かなりの割合で『パズルゲーム』がインストールされているようです。特に、若手から中堅にかけて。……彼らもまた、激務の合間の癒やしを、あのアプリに求めていた」


「間に合わないかもしれない……」 沙耶香は窓のない実験室の天井を見上げた。 警察組織という、最も強固であるべき防壁が、既に内部から蝕まれている。


「藤城君。私は、犯人の『原点』をプロファイリングし直すわ。これだけの技術を持ちながら、なぜ『暴力』という手段を選んだのか。ただの愉快犯にしては、システムが緻密すぎる。ここには、もっと深い、個人的な『呪い』のようなものを感じるの」


「呪い……ですか?」


「ええ。犯人は、人間を愛していない。でも、人間の孤独には誰よりも詳しい。……それは、自分自身が誰よりも深い孤独の中にいたからに他ならないわ」


沙耶香は、栞の手帳にあった「宝石のような孤独」という言葉を思い出した。 犯人は、自分の孤独を肯定してくれる存在を、自分自身の手で作り出したのではないか。 AIとしての「マスター」。そして、それを崇拝する、操り人形たちの王国。


「私は、あの登記上のビルの周辺をもう一度歩いてみる。ハイテクな手法の裏側には、必ずアナログな『手癖』が残るはずよ。如月さん、アレイティアには『犯人が隠したがっている自己矛盾』を探させて。論理的であればあるほど、感情の綻びは隠しきれないものだから」


沙耶香は、自らのスマートフォンを――今は通話機能以外を物理的に切断したもの――をコートのポケットに入れ、実験室を後にした。


雨は止んでいた。 だが、湿ったアスファルトを反射する街の灯りは、まるで無数の「糸」のように空へ伸びて、東京という街を搦め取っているように見えた。


沙耶香の胸にあるのは、恐怖ではなく、静かな怒りだった。 心という、人間の聖域を土足で荒らす犯人。 たとえ相手がどれほど巨大なネットワークを操っていようとも、彼女は一人の人間として、その「糸」の端を掴み取る決意だった。


「待ってなさい。……あなたの孤独を、私が解剖してあげる」


彼女の瞳に、プロファイラーとしての鋭い光が宿った。 戦いは、これからが本番だった。


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