見えない共鳴(レゾナンス)
第2章:見えない共鳴
山手線の暴動から一夜明けた東京は、表面上の平穏を取り戻しているように見えた。しかし、警視庁捜査一課の一角にある「犯罪行動分析係」の空気は、澱んだ水のように重く沈んでいる。
久我沙耶香は、昨夜自らアプリを起動した際の「汚染」の余韻を、今も脳の片隅に感じていた。目を閉じれば、あの幾何学模様が網膜に焼き付いている。論理的な思考をしようとすると、ふとした瞬間に、あの甘美なノイズが耳の奥で囁くような気がするのだ。
「久我さん、昨夜の脳波データ、解析に回しておきました。……本当に無茶はやめてください」
藤城が、心配そうに彼女の顔を覗き込む。沙耶香は短く頷き、冷めたコーヒーを口にした。
「わかっているわ。でも、敵の正体を知るには、敵と同じ景色を見る必要があった。……それより、山手線の被害状況と、加害者のプロファイリングの続きを」
藤城はタブレットを操作し、モニターにデータを映し出した。
「山手線の事件での逮捕者は二十二名。驚くべきことに、そのうち十五名が二十代から三十代の働き盛り、いわゆる『社会の中核』を担う人々です。これまでの十代の少年少女が中心だったフェーズから、明らかに標的が拡大しています」
沙耶香はモニターを見つめた。 リストには、大手銀行の行員、システムエンジニア、看護師、そして中学の教師までが名を連ねている。
「以前の事件までは、加害者は『情緒が未発達な若年層』という括りで見ることができた。でも、今回は違う。理性も社会性も十分に備わっているはずの大人が、あのような原始的な暴力に走った」
「場所も、日時も、属性もバラバラです。関連性は、やはりあのアプリ……『エデン・ゲート』の亜種たちがインストールされていること以外、何もありません」
沙耶香は、デスクに広げた都内全域の地図を見つめた。事件の発生地点にピンを立てていく。 新宿、世田谷、港区、中野、そして昨夜の山手線。 幾何学的にも、時間軸的にも、そこには規則性がない。まるで、空から無造作に撒かれた種が、ランダムに芽吹くように事件が起きている。
「いいえ、藤城君。関連性がないこと自体が、この犯人の巧妙な『設計』なのよ」
沙耶香は立ち上がり、ホワイトボードに大きく「共鳴」と書き込んだ。
「これまでの犯罪は、特定の動機、特定の怨恨、あるいは特定の思想に基づいていた。だから、犯人と被害者の間に細い糸が見えた。でも、この事件の犯人は、糸を張っていない。代わりに、東京中に『音叉』を置いているの」
「音叉……ですか?」
「特定の周波数、特定の視覚刺激。それに反応する脳の脆弱性を、アプリを通じて事前に作り上げておく。あとは、何らかの信号を全端末に一斉に送るだけで、その場にいる人間たちが勝手に『共鳴』し、暴徒と化す。犯人は、現場にいる必要さえない。誰が、いつ、どこで発火するかは、犯人にとって重要ではないの。重要なのは、社会全体が『いつどこで誰が襲ってくるかわからない』という恐怖に支配されること」
沙耶香の言葉に、藤城は戦慄した表情を浮かべた。
「それじゃ、僕たちの隣にいる人が、次の瞬間に……」
「ええ。その可能性はゼロではないわ。……藤城君、サイバー課から座標の特定はまだ?」
「あ、はい。昨夜見つかったデータブロックの座標の一つ、品川区の臨海エリアにある古い雑居ビルを指していました。アプリの開発元として登記されている『エデン・テクノロジー』の住所です」
「行きましょう。姿の見えない敵に、一度は直接触れておきたい」
品川の埋立地に立つそのビルは、時代の潮流から取り残されたような、灰色の無機質な建物だった。潮風に晒された外壁は剥がれ落ち、窓ガラスの多くは内側から黒いシートで覆われている。
沙耶香と藤城は、錆び付いたエレベーターを降り、三階の廊下を進んだ。突き当たりの「304号室」に、目的の会社があるはずだった。
「警視庁です。入りますよ」
藤城がドアを叩くが、応答はない。ノブを回すと、鍵はかかっていなかった。 室内に入った瞬間、沙耶香は鼻を突く異臭に顔をしかめた。 埃と、古い電子部品が焼けたような、独特の匂い。
部屋の中には、何一つなかった。 デスクも、椅子も、サーバーラックも。 ただ、部屋の中央に一台の旧式のスマートフォンが、充電ケーブルに繋がれたまま置かれていた。
「もぬけの殻……ですね」
藤城が部屋の隅々を確認するが、人の気配はまったくない。 沙耶香は中央のスマホに歩み寄った。 画面は点灯しており、そこにはパズルの完成を告げる「Congratulations」の文字が踊っている。
その文字の下に、小さなメッセージが添えられていた。
『――君は、最後のピースを見つけられるかな? 心理分析官・久我沙耶香さん。』
沙耶香の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 名指しでの挑発。犯人は、警察の動きを完全に把握している。
「久我さん、これ……」 藤城が壁の一部を指差した。 壁紙が剥がれたその場所には、赤いスプレーで巨大なマークが描かれていた。 それは、アプリのアイコンにも使われていた、幾何学模様の「林檎」。
「ここは、登記上の隠れ蓑ですらない。私たちを誘い出すための『舞台』だったのね」
沙耶香は、部屋の隅に設置された小さな防犯カメラのようなデバイスに気づいた。レンズが、まるで生きているかのように彼女の瞳を捉えている。
「見ているのね。どこかで、私たちを」
彼女はレンズを真っ向から見据え、静かに告げた。 「あなたのプロファイルは、もう始まっているわ。あなたは孤独を知り尽くしている。だから、孤独を武器にできる。でも、人間をプログラムと同じだと思っているなら、それは大きな間違いよ」
返答の代わりに、部屋に置かれたスマホが激しく振動し、画面がブラックアウトした。 同時に、壁に描かれた赤い林檎から、不気味な電子音が鳴り響く。
「藤城君、離れて!」
沙耶香が叫ぶのと同時に、スマホのバッテリーが発火し、激しい煙を上げた。 自動消去プログラム(ワイプ)だ。物理的な破壊を伴う徹底した証拠隠滅。
ビルの外に出ると、夕暮れの空が重く垂れ込めていた。 沙耶香のスマートフォンが震える。 捜査本部からの緊急連絡だった。
『――新たな事件です。今度は文京区の図書館で、三十代の司書が利用者を刺しました。それと……一通の電子メールが、警視庁の公開アドレスに届いています。』
沙耶香の指先が冷たくなる。 「内容は?」
『犯行予告です。……「来たるべき新世界の夜明け。まずは、東京の喉元から締め上げる」。そう書かれています。』
警視庁に戻った沙耶香を待っていたのは、さらに絶望的な報告だった。
サイバー犯罪対策課の担当者が、苦渋に満ちた表情で説明する。 「アプリの削除要請、および通信の遮断を総務省を通じて試みていますが、技術的に不可能です。アプリ自体がインストール後に自己増殖し、正規のアプリストアを経由せずに、端末から端末へ近距離無線通信(Bluetooth)を使って直接感染を広げている形跡があります」
「まるで生物学的なウイルスと同じね」 沙耶香が言う。
「さらに深刻なのは、政府がこのアプリを『危険』だと公表することの是非です。現在、パニックを防ぐために情報の開示は制限されていますが、ネット上では既に『呪いのアプリ』として都市伝説化し、好奇心でダウンロードする者が後を絶ちません。止める手段がないんです」
沙耶香は会議室の壁に貼られた、最新の加害者リストを眺めた。 二十代のシステムエンジニア。三十代の看護師。 彼らのSNSやメールの履歴を分析した結果、一つの傾向が浮かび上がっていた。
「彼らはみんな、犯行の数日前から、極端に睡眠時間が減っている。そして、スマホのスクリーンタイムの九割が、このゲームに費やされているわ」
「中毒ですね」と藤城が言う。
「単なる中毒じゃない。このゲームは、脳の報酬系を過剰に刺激して、ドーパミンを強制的に放出させ続けている。その一方で、睡眠不足によって前頭葉……つまり理性を司る部分の機能を低下させる。犯人は、じっくりと時間をかけて、彼らの脳を『暴力が溢れ出しやすい状態』にまで磨き上げているのよ。そして、仕上げにある特定の信号を送る。それが昨夜の山手線で起きたことの正体」
「その『信号』の出どころは?」
「おそらく、公共のWi-Fiや、基地局を介したプッシュ通知。あるいは、街中のデジタルサイネージ(電子看板)に含まれる高周波音かもしれない。現代の東京そのものが、彼らにとっての巨大な送信機になっているのよ」
沙耶香はデスクに置かれた自分のアナログな手帳を強く握りしめた。 スマホを持たない人がいない現代。 情報が、血液のように街を駆け巡るこの都市で、情報を拒絶して生きることは不可能に近い。
「久我さん、予告にあった『東京の喉元』って、一体どこを指しているんでしょうか」
藤城の問いに、沙耶香は地図を広げた。 東京の物流、通信、あるいは電力。 「喉元」と呼べる重要拠点はいくつもある。 だが、心理学的に見て、犯人が狙うのは物理的な破壊ではないはずだ。 彼が求めているのは、社会の「信頼」という名の絆を断ち切ること。
「警察、消防、インフラ……。もし、それらを支える人間たちが、一斉に『共鳴』してしまったら?」
沙耶香の脳裏に、最悪のシナリオが浮かぶ。 警察官、警備員、自衛隊員。彼らもまた、一人の人間であり、一人のスマホユーザーだ。 厳しい訓練を受けていても、脳の回路を物理的に書き換えられてしまえば、抗う術はない。
その時、沙耶香は自分の端末――捜査用の、徹底的にセキュリティを強化したはずのスマートフォン――が、奇妙な振動をしていることに気づいた。
画面には、アプリをインストールした覚えなどないのに、あの幾何学模様のパズルが立ち上がっていた。
「……っ!」
沙耶香は即座に電源を切ろうとしたが、反応しない。 画面の中で、ピースが勝手に動き出す。 心地よい、どこか懐かしいメロディがスピーカーから流れ出した。 幼い頃、母に抱かれて聞いた子守唄のような、魂の奥底を撫でるような調べ。
(ダメ……見ちゃダメ……)
沙耶香は目を逸らそうとするが、視線が画面に吸い付けられる。 網膜を通じて、光の信号が視神経を駆け上がり、彼女の脳の深淵へと潜り込んでいく。 昨夜プレイした時の、あの「快感」が呼び覚まされる。
孤独。 二十九歳、独身。警察という組織の中で、常に「氷の女」を演じ続け、誰にも弱音を吐けずに生きてきた。 自分の分析一つで、誰かの人生が決まってしまう重圧。 本当は、誰かに守られたかった。誰かに、すべてを委ねてしまいたかった。
画面の中のパズルが、彼女に語りかけてくる。 『苦しまなくていい。すべてを整えてあげよう。君の心にあるノイズを、僕が消してあげる。』
「久我さん! 久我さん!」
藤城の叫び声が、遠くで聞こえる。 沙耶香の視界が、鮮やかな色彩に染まっていく。 隣にいる藤城の顔が、不完全な、排除すべき「エラー」に見え始めた。 彼の首筋に手をかければ、このノイズは止まる。 そうすれば、私は完全な静寂を手に入れられる――。
「……う、あ……!」
沙耶香は、デスクに置いていた護身用の小型ライトを手に取り、その強烈な光を自分の目に直接浴びせた。
「――っ!」
視神経を焼き切るような閃光。 脳が、アプリの信号とは別の「痛み」という激しい刺激に悲鳴を上げる。 その衝撃で、強制的に意識が現実へと引き戻された。
沙耶香は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。 スマートフォンは、藤城によって床に叩きつけられ、粉々に砕けている。
「久我さん! 大丈夫ですか!?」
「……ええ。……なんとか」 沙耶香は、脂汗を拭いながら、震える手で自分の目を覆った。
「敵は……もう、私たちのすぐ隣にいる。私のスマホにさえ、勝手に侵入できるほどに」
彼女は、自分の中に生まれた一筋の「怒り」を、大切に抱きしめた。 それは、犯人が最も計算に入れていないはずの感情――人間の生存本能としての、純粋な怒りだった。
「藤城君。……AIを使うわ」
「え? AI……ですか?」
「私の脳では、もうあのアプリを冷静に分析できない。人間である以上、必ず『共鳴』の罠に嵌まる。……感情を持たず、孤独を感じない、デジタルな論理の塊に、あのパズルを解かせるの。毒には毒を。デジタルのウイルスには、デジタルな盾をぶつける」
沙耶香は、粉々になったスマホの残骸を見つめた。 犯人の目的は、おそらく一ヶ月後の「何か」だ。 そこに向けて、東京全体が、巨大な実験場へと変えられようとしている。
時間がない。 彼女のプロファイラーとしての矜持が、激しい火花を散らしていた。
「これは、人間性の奪還を賭けた戦争よ。……絶対に、負けられない」
夕闇が迫る警視庁の窓の外で、無数の光が瞬き始める。 その光の一つ一つが、誰かのスマホの画面であり、誰かの精神を狙う照準器であることを、今の沙耶香だけが知っていた。




