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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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光の射す方へ

最終章:光の射す方へ(あるいは新しい私たちの物語)


第一節:鏡を抜けた先の「窓」


 三ヶ月という月日は、情報の海においては永遠に近い時間だ。あの日、日本中を震撼させた「祝祭」の夜の出来事も、ネット上のタイムラインではすでに数万もの新しいニュースに押し流されている。  けれど、沙耶香の目の前にある現実は、あの日を境に確実に色を変えていた。


 都心から少し離れた、古い雑居ビル。その三階にある小さなカウンセリングルーム「窓」が、沙耶香の新しい戦場であり、居場所だった。  窓辺には、あの夜の冷たさを拭い去るような、柔らかな初夏の光が降り注いでいる。


「……先生、やっぱり私、画面を見ていないと不安なんです」  目の前に座る女子高生、結衣は、膝の上でスマートフォンを強く握りしめていた。その指先が白く震えているのを、沙耶香は静かに見つめる。かつての自分、プロファイラーという鎧を着て、完璧な正解だけで世界を裁こうとしていた自分を、彼女の中に見た。


「結衣さん。それは、画面を見ているんじゃなくて、画面に映る『誰かの目』を鏡にしているからじゃないかしら」  沙耶香の声は、以前のような鋭さを失い、穏やかな深みを持っていた。 「私も、ずっとそうだった。自分の価値を、通知の数や、他人の承認という名の『正しいデータ』で測ろうとしていたの。でもね、鏡って、自分しか映らないでしょう? どんなに多くの人と繋がっているつもりでも、鏡の中にいる限り、あなたは一生、一人きりなのよ」


 結衣が顔を上げる。その瞳には、行き場のない孤独が揺れていた。 「でも、画面を消したら、私は何者でもなくなっちゃう気がして」 「いいえ。画面を消したとき、初めてあなたは『窓』を開けられる。窓の向こうには、あなたの思い通りにならない、不器用で、泥臭くて、でも温かい世界が広がっているわ。私がそうだったように」


 沙耶香は机の引き出しから、あの日藤城から手渡された「銀の鍵」を取り出し、そっと結衣の前に置いた。 「これは、かつての私が閉じ込めていた『自分を許す心』の鍵。結衣さん、完璧じゃなくていい。誰かに愛されるために自分を記号化しなくていい。あなたが今日、ここに来る途中で見つけた、名もなき花の美しさを語れるだけで、あなたはもう、十分にあなたなの」


 結衣の目から、一雫の涙が溢れた。それは情報に殺されかけていた感性が、再び息を吹き返した証だった。沙耶香はこの三ヶ月、こうした「一対一の、名前のある痛み」と向き合うことで、自分自身の傷をも癒やしてきた。  プロファイリングとは、人を型にはめることではない。その人が、型からはみ出してしまった部分――その「欠け」こそが愛おしい人間味なのだと、今の沙耶香は知っている。


第二節:藍色の封緘、透明な赦し


 翌週、沙耶香は郊外の医療刑務所へと向かった。  無機質なコンクリートの壁。重い鉄扉。消毒液の匂い。そこはかつて神崎が父親を失い、自らも精神的な死を迎えた場所と似ていた。


 面会室の厚いアクリル板の向こう側、神崎は以前よりも少し痩せ、けれどその表情にはどこか清々しささえ漂わせていた。 「……沙耶香さん。今日も、外は眩しいかい?」 「ええ、とても。風が少し、潮の匂いを運んできていたわ」  神崎は目を閉じ、深く息を吸い込む仕草をした。そこにはもう、何万ものサーバーを操り、世界を支配しようとした傲慢なハッカーの影はない。


「僕はこの中で、君が言った『痛みの意味』をずっと考えている。……皮肉だね。自由を奪われて初めて、僕は自分の心という、一番不自由な場所から解放された気がするんだ」  彼はそう言って、一通の封筒をアクリル板に押し当てた。  それは、あの日沙耶香が彼の手に触れたときに感じたのと同じ、青いインクで書かれた手紙だった。


「これは、僕から君への……いいえ、僕から『明日を生きる人々』への遺言ではない。ただの、懺悔と希望だ。外に出たとき、読んでほしい」


 沙耶香は、アクリル板越しに彼の手の輪郭をなぞった。 「神崎さん。あなたは自分のシステムで世界を救おうとした。それは間違っていたけれど、あなたが抱えていた絶望は、決してバグなんかじゃなかった。私は今でも、そう思っているわ」 「……ありがとう。沙耶香さん。君にプロファイルされるのが、僕の人生で唯一の『救い』だった」


 面会時間が終わり、神崎が立ち上がる。去り際、彼は一度だけ振り返り、声にならない口文字で「生きて」と言った。  沙耶香は、刑務所の門を出て、彼から預かった手紙を開いた。  そこには、震えるような、けれど凛とした文字で綴られていた。


『光があるところに影があるのではない。影があるからこそ、私たちは光を探そうとするのだ。スマホの画面を消しなさい。そこには、あなたが愛すべき、不完全な自分という名の光が必ずあるはずだ』


 その言葉は、彼が流した涙の純粋さを証明していた。沙耶香はその青い文字を指でなぞり、空を見上げた。神崎がかつて憎み、そして恋い焦がれた「本当の世界」が、そこには無限に広がっていた。


第三節:助手席の告白、重なる歩幅


 刑務所の門の外には、いつものように黒いSUVが停まっていた。藤城が運転席の窓から、不器用な手つきで缶コーヒーを差し出す。


「……長かったな。神崎の奴、反省してたか?」 「ええ。反省というより、ようやく自分を許し始めた……そんな気がしました」  沙耶香が助手席に乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。目指すのは、二人が何度も訪れた、あの海辺の岬だ。


 沈黙が車内を流れる。けれど、それはかつての緊張感を含んだものではなく、お互いの存在を確かめ合うような、心地よい沈黙だった。  市街地を抜け、街灯が少なくなってきた頃、藤城が不意に口を開いた。


「……沙耶香。お前に、まだ話してなかったことがある」  その声の低さに、沙耶香は胸の奥を締め付けられた。 「俺にもあったんだ。神崎と同じように、システムを過信して、目の前の『人間』を見失った夜がな」


 藤城は、かつて自分が特殊部隊にいた頃、最新鋭のドローン監視システムに頼りすぎた結果、一人の若い部下を救えなかった過去を、絞り出すように語り始めた。 「俺は、モニターに映る緑色の点が消えるのを、ただ見ていただけだった。現場の、彼の息遣いや、最期の叫びを聞こうともせずにな。……俺が神崎を憎んでいたのは、彼が俺の過去そのものだったからだ。お前を守るとか言いながら、俺はただ、自分を許してほしかっただけなのかもしれない」


 ハンドルを握る藤城の手が、かすかに震えている。沙耶香は、迷わずにその手に自分の手を重ねた。 「藤城さん。守られるばかりだったのは、私の方です。あなたのその傷があったから、私は独りよがりな正義に溺れずに済んだ。……あなたは、私のヒーローなんかじゃなくて、一緒に傷ついてくれる、たった一人のパートナーです」


 藤城が車を停め、沙耶香の方を向いた。暗い車内、街灯の光が彼の瞳に宿る。 「……パートナー、か。悪くない響きだ」  彼はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔は、これまでのどんな完璧な作戦成功よりも、沙耶香の心を深く満たした。


第四節:静かなる祝祭、伝播する微光


 その夜、ネットの海には不思議な現象が起きていた。  かつて沙耶香と神崎が戦った掲示板やSNSのハッシュタグ。そこには今も罵詈雑言が溢れている……かと思いきや、少しずつ、異変が起きていた。


「今日はスマホを置いて、公園の猫を見てきた」 「名前も知らない誰かが、電車で席を譲ってくれた。それだけで、明日も頑張れる気がする」


 誰かが発信した小さな「優しさ」の投稿が、かつての炎上騒ぎを塗り替えるように、静かに広がっていた。第十八章で沙耶香が見せた、負の感情を肯定したあとの「静寂」。それが、人々の心に、情報のワクチンとして作用し始めていたのだ。


 画面越しに誰かを叩くことでしか自分の存在を証明できなかった人々が、ふと立ち止まる。 「私は、何のために怒っているんだろう」 「画面を消したあとに残る、この虚しさは何だろう」


 そんな小さな自問自答が、巨大な悪意の潮流を少しずつ、着実に変えていく。  一人のプロファイラーと、一人のハッカー。そして一人の不器用なボディガードが駆け抜けたあの数日間は、決して無駄ではなかった。社会派ミステリーとしての結末は、犯人の逮捕でもなく、システムの破壊でもなかった。それは、人々の指先に「一瞬の迷い」という名の理性を呼び戻したことだった。


第五節:光の射す方へ


 岬に到着すると、水平線はすでに淡い桃色に染まっていた。  沙耶香と藤城は、冷たい潮風を頬に受けながら、砂浜の上に立っていた。


「沙耶香。これから、どうするつもりだ?」 「カウンセリングは続けます。でも、いつか本を書きたいと思っています。……画面の向こう側にいる『あなた』に届く、プロファイリングではない、ただの物語を」 「……お前らしいな。その本の挿絵は、俺が撮った写真でも使うか?」 「ふふ、構図がめちゃくちゃでも、文句は言いませんよ」


 沙耶香は、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。  画面を点けると、そこには数えきれないほどの「いいね」や「リツイート」の数字が並んでいる。かつての彼女なら、その数字に一喜一憂し、自分の価値をそこに求めていただろう。  けれど、今の沙耶香にとって、それはただの記号に過ぎなかった。


 彼女は、スマートフォンのカメラを水平線に向けた。  昇ってくる太陽。隣で少しだけ眠そうに、けれど愛おしそうに海を見つめる藤城の横顔。足元の砂に混ざる、小さな貝殻。  シャッターを切る。


 プレビュー画面に映った写真は、逆光で少し暗く、完璧な「映え」とは程遠いものだった。  けれど、沙耶香はそれを自分のスマートフォンに保存し、こう呟いた。


「――これが、私の最高の一枚です」


 沙耶香はスマートフォンの電源を落とし、深い呼吸をした。  肺いっぱいに満たされる、生臭くも豊かな磯の香り。肌を刺す朝の寒さ。そして、繋いだ藤城の手の、確かな熱。


 世界は相変わらず不完全で、残酷で、スマホの中にはまた新しい悪意が生まれているかもしれない。  けれど、沙耶香はもう、画面の中にはいない。  彼女は、光の射す方へ、自分の足で一歩を踏み出す。


 不完全な私たちは、不完全なままで、誰かと繋がることができる。  鏡を壊した先に広がる、この眩しすぎる現実を生きていくために。


(完)


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