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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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鏡合わせの対決(あるいは犯人の居場所)

第十九章:鏡合わせの対決(あるいは犯人の居場所)


第一節:沈黙のハイウェイ


 藤城の駆るSUVが、深夜の湾岸道路を滑るように走る。  車内を満たすのは、空調の微かな唸りと、重苦しい沈黙だ。沙耶香は、流れるナトリウム灯のオレンジ色の光を、ただぼんやりと見つめていた。その光は、まるで彼女のプロファイラーとしての人生を象徴しているようだった。規則正しく、冷徹で、けれど影をより深く際立たせるだけの光。


「……怖くないと言えば、嘘になりますね」  沙耶香がぽつりと零した言葉に、藤城は視線を正面に向けたまま、ハンドルを握る指に力を込めた。 「神崎を追い詰めるのがか? それとも、自分自身の『鏡』を見るのがか」 「両方です。彼が私に『青いインクの万年筆』を返してくれた時、気づくべきだったんです。彼が私と同じ孤独を、同じ匂いの絶望を抱えていることに。……彼は、私が見て見ぬふりをしてきた『最悪の可能性の自分』なんです」


 沙耶香の脳裏に、これまでの事件が走馬灯のように駆け巡る。  スマホの画面越しに人々を操り、負の感情を増幅させていた神崎。彼のやり方はあまりに卑劣だったが、その根底にあるのは「世界を均質化し、正しく管理したい」という、歪んだ正義感だった。それは、かつて沙耶香が「完璧なプロファイリングで犯罪を未然に防ぐ」と豪語していた傲慢さと、根っこで繋がっていたのだ。


「藤城さん。私は、彼を救いたいわけじゃない。ただ、決着をつけたいんです。スマホの中に逃げ込んだ私たち自身の弱さと」  藤城は短く「ああ」とだけ答えた。その声には、彼がかつて戦場で失った部下への後悔と、今、隣にいる女性だけは守り抜くという、不器用な情熱が宿っていた。


第二節:データの墓標、情報の檻


 車が辿り着いたのは、地図からも、人々の記憶からも消えかかっている郊外の「旧・情報管理センター」だった。  潮風に晒され、赤錆びた鉄扉が牙を剥いている。かつては日本のITの夜明けを支えたと言われるその建物は、今や巨大な骸骨のように夜の海に沈んでいた。


「ここが、神崎の原点……」  沙耶香は、壊れた自動ドアをくぐり、建物の中へ足を踏み入れた。  カビの匂い、埃っぽい空気、そして、どこからか聞こえてくる微かな電子音。  第七章で登場した神崎の父親――彼はここで、システムエラーの責任を押し付けられ、過労と誹謗中傷の果てに、この屋上から身を投げた。当時の新聞記事には「不完全なエンジニアの末路」と書かれていたことを、沙耶香は思い出す。


「お父様は、この場所に殺された。……だから彼は、この場所を『神殿』に変えたのね」


 エレベーターは止まっており、二人は非常階段を上った。一段ごとに、沙耶香の鼓動は激しくなっていく。  最上階の扉を開けた瞬間、視界が開けた。  そこには、数千、数万ものモニターが壁一面に張り巡らされ、無数のスマホの画面をリアルタイムで映し出している、狂気の空間が広がっていた。


「いらっしゃい。僕の『聖域』へ」


 中央のコントロールデスクに座る神崎が、ゆっくりと椅子を回転させた。  彼の周囲には、沙耶香が失くしたはずの「祖母の形見の銀の鍵」が、皮肉にもディスプレイの一部として飾られていた。


「神崎さん。その鍵は、あなたのものじゃないわ」 「いいや、これは『失われた感情』の象徴だよ、沙耶香さん。君が僕を暴き、僕が君を暴く。この鍵で、僕たちはようやく、本当の意味で一つになれる」


第三節:鏡合わせのプロファイリング


 神崎の手元にあるタブレットが光り、周囲のモニターが一斉に切り替わった。  映し出されたのは、沙耶香の過去。  幼い頃、周囲に馴染めず、本の中に逃げ込んでいた姿。  プロファイラーとして活躍しながらも、私生活では誰にも心を許せず、冷たい部屋でスマホの光だけを友にしていた夜。


「君は『スマホ社会への警鐘』なんて言っているけれど、本当は誰よりもスマホに依存している。自分という人間が定義されるのを、アルゴリズムに委ねているんだ。……違うかい?」  神崎の言葉は、鋭いメスのように沙耶香の心を切り裂く。 「僕のシステムはね、君のような孤独な人間を『正しい場所』へ導くためのものなんだ。悲しみも、怒りも、全てを数値化して再分配する。そうすれば、お父さんのような悲劇は二度と起きない」


 沙耶香は一瞬、眩暈を感じた。彼の論理はあまりに強固で、そして甘美だった。  苦しまなくていい。考えなくていい。全てをシステムに委ねれば、世界は平和になる。


 だが、彼女の耳に、藤城の足音が聞こえた。  割れたガラスを踏みしめる、泥臭い、不器用な、けれど確かな人間の音。


「……いいえ、神崎さん。あなたのシステムには、決定的な『バグ』があるわ」  沙耶香は震える足で一歩前へ出た。 「バグだと?」 「そう。それは『痛み』よ。あなたが消去しようとしているその痛みこそが、人間が人間であるための唯一の証明なの。……お父様が最後にあなたに遺した言葉は、『完璧な世界を作れ』ではなかったはず。……『幸せになってくれ』だった。あなたは、その言葉の重みに耐えられなくて、痛みをデータに置き換えたのね」


 神崎の表情が劇的に歪んだ。  プロファイリングという刃が、今、犯人の心の最深部に届いた。 沙耶香が掴み取った「不完全なぬくもり」という答えが、今、最強の武器となって神崎の虚構を打ち砕いていく。


第四節:崩壊するユートピア


 突如、建物が激しく揺れた。  神崎のシステムが、沙耶香の言葉による精神的な揺らぎと、藤城が仕掛けた物理的なジャミングによって、制御を失い始めたのだ。  モニターが次々とショートし、火花が夜の闇を彩る。


「逃げろ、沙耶香! ここはもう保たない!」  藤城が叫ぶが、沙耶香は動かない。  崩れ落ちる機材の向こう側、神崎が茫然と立ち尽くしている。


「神崎さん! 手を……私の手を掴んで!」  沙耶香は、火花の中を駆け抜けた。  かつて「私は一生、誰とも分かり合えない」と泣いた彼女は、もういない。  不完全なままで、傷ついたままで、それでも誰かの手を握ろうとする一人の女性が、そこにいた。


 神崎の手は、驚くほど冷たかった。  まるでずっと、氷の海に沈んでいたかのように。  けれど、沙耶香の体温が伝わった瞬間、神崎の瞳に、デジタルな光ではない、人間らしい光が戻った。


「……暖かいな。人間の手って、こんなに暖かいんだね」  それが、神崎が負けを認めた、最後の言葉だった。


第五節:夜明けの水平線


 爆発するセンターから間一髪で脱出した三人を、朝の光が包み込む。  海岸沿いに座り込み、肩で息をする沙耶香の隣に、藤城が静かに腰を下ろした。


 神崎は、駆けつけた警察車両の中で、うなだれたまま動かない。  だがその横顔には、もう以前のような冷徹な狂気はなかった。


「……終わったんですね」 「ああ。だが、これからが本当の始まりだろうな。沙耶香」  藤城が差し出したのは、泥に汚れた「銀の鍵」だった。 「これを。君が、自分の扉を開けるために」


 沙耶香は鍵を受け取り、朝日を透かして見た。  スマホの画面では決して感じられない、眩しさと、痛いほどの熱。


 世界は相変わらず不完全で、SNSには今日も悪意が溢れているかもしれない。  けれど、沙耶香はもう迷わない。  彼女は自分のスマホを取り出し、待ち受け画面に設定されていた「完璧な数式の画像」を消した。代わりに、今この場所で見た、少しだけ歪んだ、けれど美しい朝焼けの写真を撮った。


「私、プロファイラーを辞めません。でも、これからは『犯人の居場所』を突き止めるためじゃなくて、その人が『帰りたかった場所』を見つけるために、仕事に向き合いたいんです」


 その声は、潮騒に溶けて、どこまでも遠く響いていった。  

それは、全ての伏線が「希望」という一つの線に結ばれた瞬間だった。


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