無関係な点
第1章:無関係な点
山手線の暴動から一夜明けた警視庁本庁舎は、戦場のような喧騒に包まれていた。 地下にある「犯罪行動分析係」の小部屋にまで、廊下を行き交う捜査員たちの苛立った怒号や、鳴り止まない電話のベルが響いてくる。
久我沙耶香は、デスクに並べられた十数台のスマートフォンを前に、深い溜息をついた。 証拠品として押収されたそれらは、持ち主たちの血液や指紋、そして激しい揉み合いで付いた傷跡をそのままに、沈黙を守っている。昨夜、彼女が自ら現場で拾い上げたものだ。
「久我さん、コーヒーです。少しは休んでください」
藤城が差し出した紙コップから、苦い湯気が立ち上る。彼の顔も、徹夜明けでひどくやつれていた。
「ありがとう。……解析の方は?」 「サイバー犯罪対策課がフル回転で回していますが、難航しているようです。昨夜の暴動で確保された二十二人のうち、十七人が同じ『パズルゲーム』を起動させていたことは確認取れました。ただ……」 「ただ、何?」 「アプリの名前が、バラバラなんです」
沙耶香は眉をひそめた。 「バラバラ?」 「ええ。ある端末では『ロジック・スター』、別の端末では『ネオン・パズル』。アイコンもデザインも微妙に違う。でも、中身のアルゴリズム……つまり、パズルの解き方や視覚効果のパターンは、驚くほど酷似しているそうです」
沙耶香は手袋をはめた手で、一台のスマートフォンの画面を点灯させた。 捜査用にパスロックを解除された画面。そこには、網膜に焼き付くような鮮やかな色彩の幾何学模様が並んでいる。 一見すると、何の変哲もない暇つぶし用のパズルだ。だが、じっと見つめていると、ある感覚に襲われる。画面の奥に引きずり込まれるような、平衡感覚が狂うような、奇妙な眩暈。
「……擬態しているのね」 「擬態?」 「ええ。一つのアプリとして広まれば、すぐに特定されて削除要請が出る。だから、名前や皮袋(外見)を変えて、無数の『亜種』としてアプリストアに潜伏している。まるで、宿主を求めて変異を繰り返すウイルスのよう」
沙耶香は、手元にある一冊のノートを開いた。 そこには、江東区の小学生から昨夜の主婦、サラリーマンに至るまで、今回の「連鎖暴行事件」に関わった加害者たちのリストが、彼女の細い文字で書き込まれている。
「藤城君。改めて、この加害者たちの『共通点』を洗い直しましょう。警察のデータベースにあるような表面的な情報じゃない。彼らの『生活の穴』を探るのよ」
二人はまず、二件目の加害者となった三十代の主婦、浅井美奈子の自宅を訪ねた。 世田谷区にある、手入れの行き届いた分譲マンション。だが、玄関を開けた夫の表情には、平和な家庭が崩壊した後の、救いようのない絶望が張り付いていた。
「妻は……美奈子は、本当に普通の女性だったんです」 リビングに通された沙耶香たちの前で、夫は震える声で語り出した。
「怒鳴ったことなんて一度もない。近所の野良猫を心配するような、優しい人だったんです。それが、あの日……買い物に行くと家を出て、気づいたら警察から電話があって。老人に大怪我をさせたなんて、今でも信じられない。何かの間違いじゃないんですか?」
沙耶香は、美奈子の部屋を見渡した。 掃除が行き届き、窓辺には多肉植物の鉢が並んでいる。だが、ソファの隅に、一点だけ不自然な場所があった。 クッションが深く沈み込み、その周囲だけが妙に擦り切れている。
「奥様は、最近、ここによく座っていませんでしたか?」 沙耶香の問いに、夫はハッとしたように顔を上げた。 「ええ……。一ヶ月くらい前からでしょうか。家事を終えると、ずっとそこに座って、スマホをいじっていました。声をかけても生返事ばかりで。でも、まあ、育児も一段落して、自分の時間が欲しいんだろうなと思っていたんです」
「彼女は、スマートフォンで何を?」 「ゲーム……のようでした。パズルを解いていると言っていました。夜中、ふと目が覚めると、暗闇の中で彼女の顔だけがスマホの青白い光に照らされていて。その時の顔が、なんだか……とても遠いところを見ているようで、怖かったのを覚えています」
沙耶香は、沈み込んだソファの跡を見つめた。 美奈子の心には、他人からは見えない「孤独」という名の隙間があったのかもしれない。満たされているように見える生活の中で、唯一、自分の意志だけで制御できるデジタルの世界。
「彼女は、そのパズルを解いている時、何か言っていませんでしたか?」 「……そういえば、一度だけ。『色が聞こえる』って。変なことを言うなと思ったんですが、彼女、あまりに楽しそうに笑うものだから……」
色が、聞こえる。 共感覚に近い現象か。特定の視覚刺激が脳の他の部位を刺激し、異常な高揚感を生み出している。
マンションを出た後、沙耶香は隣を歩く藤城に告げた。 「美奈子さんだけじゃない。小学生の勇人君も、オフィス街のサラリーマンも、みんな同じ『没入』のプロセスを踏んでいるわ」
「没入……つまり、中毒ってことですか?」 「それ以上に深刻よ。彼らはゲームをプレイしているんじゃない。ゲームによって、脳の回路を書き換えられている」
夕刻。沙耶香は、昨夜の山手線暴動で逮捕された大学生の一人と接見した。 取調室の冷たい空気。アクリル板の向こう側に座る青年は、まだ二十歳そこそこの、どこにでもいる若者だった。 だが、その目には、生気というものが一切欠落していた。
「……覚えてないんです」 青年は、自分の指先を見つめたまま呟いた。
「あの時、何があったか。気づいたら、俺の目の前に、鼻から血を流して倒れているおじさんがいて。俺の手が、すごく痛くて。周りでみんなが叫んでいて」
「あなたは、スマートフォンでパズルをしていましたね」 沙耶香の穏やかな、だが逃げ場を与えない問いかけ。
「……最高だったんです。あのパズルを解いている時だけは、自分が『完璧』になれた気がした。就活もうまくいかなくて、彼女とも別れて、自分がゴミみたいに思えてたけど。あの画面の中だけは、ピースがピタリとはまって、世界が整っていく。音が、光が、俺の頭の中に直接流れ込んできて……」
青年の呼吸が次第に荒くなる。 「もっと、やりたい。あの続きを。あの最後のピースが、どこにあるのか教えてくれ! あれがないと、俺は……俺はバラバラになっちゃうんだ!」
青年がアクリル板を拳で叩き始めた。 看守が彼を押さえ込み、部屋から連れ出していく。 沙耶香は、彼が去った後の無機質な椅子を見つめ続けた。
分析官としての彼女の頭脳が、急速にデータを組み立てていく。 加害者たちの共通点。 それは、社会階層でも、年齢でも、性別でもない。 「現代社会における、微かな、だが慢性的なストレス」と「孤独」。 そして、それらを一時的に癒やすために差し出された、甘美で破壊的な「デジタルの麻薬」。
「藤城君、本庁に戻って。サイバー課に、もう一度頼み込んでほしい」 「何をですか?」 「各アプリのソースコードに隠された『共通のサブリミナル信号』を探して。視覚だけじゃない。聴覚、振動。五感のどこかに、人間を暴力へと駆り立てる『トリガーコード』が隠されているはずよ」
「久我さんは、どうするんですか?」
沙耶香は、自分のスマートフォンを取り出した。 「私は、加害者の視点をプロファイリングする。彼らが、あの瞬間に何を見ていたのかを」
「……まさか、プレイするつもりじゃ?」 藤城が血相を変えて止める。
「私はプロフェッショナルよ。自分の精神をコントロールする方法は知っている」 「でも、もし何かあったら……」
「大丈夫。私は、アナログな人間だから」 沙耶香は少しだけ口角を上げたが、その瞳には冷徹な決意が宿っていた。
その夜、沙耶香は誰もいない分析室で、一台の押収されたスマートフォンを手に取った。 画面に浮かぶ、名もなきパズルゲーム。 彼女は、自ら開発した心拍数と脳波を測定する簡易デバイスを自分自身に装着し、画面をタップした。
始まりは、静かな、心地よい音色だった。 画面上で色が混ざり合い、美しい図形が形作られていく。 ピースを一つ動かすたびに、脳の報酬系が刺激されるのがわかる。快感。達成感。 それは、日常の煩わしい悩みや、将来への不安を、薄い霧で覆い隠していくような感覚だった。
(……なるほど。これは、巧妙だわ)
沙耶香は冷静に自分の心理状態を実況するように分析を続ける。 だが、プレイ開始から十五分が経過した頃。 画面の点滅周期が、わずかに変化した。 心臓の鼓動と、画面のフラッシュが同期し始める。
(心拍数が上昇。……前頭葉の機能が低下しているのを感じる。論理的思考が、……難しい。色が、さっきより鮮やかに……)
不意に、視界が歪んだ。 デスクに置いていたはずの、家族の写真。愛用しているマグカップ。 それらすべてが、パズルの「ピース」に見えてくる。 不完全な、整っていない、不快なノイズ。 排除しなければならない。 この美しい画面の調和を乱す、現実という名の汚れを。
「……っ!」
沙耶香は、強い意志の力で、スマートフォンの画面をデスクに叩き伏せた。 指先が震えている。 呼吸が荒い。 冷たい汗が、額から一筋流れ落ちた。
「……危なかった」
わずか数十分。 訓練を受けたプロファイラーでさえ、一歩間違えれば、理性の境界線を踏み越えてしまう。 ましてや、日常のストレスに晒されている無防備な一般人ならどうなるか。
彼女は、画面の向こう側に、巨大な悪意の影を見た。 これは、単なる流行でも、偶発的な事故でもない。 人間の脳の脆弱性を知り尽くした、緻密な設計に基づく「精神の汚染」。
その時、分析室の電話が鳴った。 藤城からだった。
『久我さん、サイバー課から連絡がありました! 各アプリの奥深くに、共通の暗号化されたデータブロックが見つかったそうです。それを解凍したところ……ある文字列が出てきました』
「何て書いてあったの?」
『……"New World Order"。そして、複数の座標データです。その中の一つが……』
藤城の声が、緊張で震える。
『来月、大規模な国際イベントが行われる予定の、あの場所を指しているんです』
沙耶香の背筋に、氷のような冷気が走った。 まだ名前さえ知らない敵。 彼らが狙っているのは、単なる街頭のパニックではない。 この国、いや、世界の秩序そのものを、掌の上で「パズルのように」組み替えようとしている。
「……無関係な点は、もう一つもないわね」
沙耶香は、暗闇の中で光り続けるスマートフォンを、忌々しげに見つめた。 点と点が繋がり、一つの巨大な「絵」が浮かび上がろうとしていた。 だが、その絵は、人類がこれまでに見たこともないような、惨劇の構図を孕んでいた。
現代社会の利便性の象徴であるスマートフォン。 その小さなブラックボックスが、世界を崩壊させる起爆装置へと変わるまで、残された時間はあと一ヶ月。
久我沙耶香は、静かにノートを閉じた。 そこには、新しく、そして最も危険なプロファイリングの対象が記された。 正体不明の「マスター」。 彼との、そして自分自身の理性との、孤独な戦いが本格的に始まったのだ。




