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『共鳴する孤独(レゾナンス)』  作者: 久遠 睦


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ウロボロスの罠 ― 記憶の断片、共鳴の代償 ―

第17章:ウロボロスの罠 ― 記憶の断片、共鳴の代償 ―


リハビリテーションセンターの白い静寂を、一台の無骨な黒い車両が切り裂いた。 運転席から降りてきた如月蓮は、数ヶ月前よりもさらに痩せ細り、その双眸には狂気にも似た切迫感が宿っていた。


「……久我先生、藤城君。時間がない。……蛇が、すでに喉元まで来ている」


藤城に支えられながら車に乗り込んだ沙耶香は、窓の外を流れる東京の景色に、言葉にできない違和感を覚えていた。 人々の動きは一見、自由を取り戻したように見える。しかし、その「自由」はどこか奇妙に統制されていた。街中の広告、行き交う人々のファッション、そしてスマホを操作するリズム。すべてが、目に見えない指揮者のもとで、完璧な調和ハーモニーを奏でているように見えるのだ。


「……如月さん。街が……歌っているわ」


沙耶香が呟いた言葉に、如月はバックミラー越しに戦慄した。 「……歌? いいえ、先生。それは歌じゃない。……『強制同期シンクロナイズ』だ」


1. 忘却の底の「引きトリガー


如月が用意した新しい拠点は、世田谷の静かな住宅街にある、築年数の不明な古本屋の地下だった。 周囲に溢れる古い紙の匂いが、デジタルの奔流に晒された沙耶香の脳を、わずかに鎮めてくれる。


「……見てください。これが『ウロボロス』の正体だ」


如月が巨大なモニターを展開する。そこには、以前の『セーフ・ガード』のような幾何学模様ではなく、淡い、水紋のような波形が絶え間なく揺れていた。


「東堂や相馬のやり方は強引すぎた。彼らは人間に『服従』を強いた。……だが、神崎という男は違う。彼は人間に『幸福』を売っているんだ。……このアプリ『ライフ・パートナー』は、利用者の過去の検索履歴、バイタルデータ、そして表情の微細な変化を読み取り、その人が『今、一番言われたい言葉』をささやく。……否定せず、批判せず、ただ全肯定する。……現代人は、その心地よいケージの中に、自分から進んで飛び込んでいる」


沙耶香はモニターを見つめた。 その波形を見た瞬間、脳の奥底で、焼けるような痛みが走った。


「……っ、……あ、あ……」


視界が歪む。 真っ暗な取調室。 泣き叫ぶ一人の少年。 自分の手にある、血に濡れたナイフ。


「久我さん! 大丈夫か!」 藤城が駆け寄る。


沙耶香の意識は、現在と過去の境界線で激しく揺れ動いていた。 「……思い出した。……江東区の、佐藤勇人君。……あの時、私が彼をプロファイリングしたときに感じた、あの『虚無』。……今のこの街の波形は、あの時と同じ『虚無』に、ピンク色のリボンをかけただけのものよ」


記憶の断片が、鋭いガラスの破片となって彼女の意識を切り裂く。 失われたはずのプロファイラーとしての回路が、脳に癒着したアレイティアの残響と共振し、彼女を強制的に「覚醒」させていく。


2. 「不自然な幸福」という事件


翌日、東京である「奇妙な事件」が起きた。 中目黒の住宅街で、住民全員が突如として、自分の家財道具をすべて路上に運び出し、無償で他人に分け与え始めたのだ。


暴動ではない。争いもない。 人々は皆、至福の表情を浮かべ、「所有から解放された」「私たちは一つになった」と口々に語り合っていた。


現場に駆けつけた藤城と、車内からモニター越しに観測する沙耶香。


「……藤城君、彼らの瞳を見て」 沙耶香の声は、以前の冷静さを取り戻しつつあった。 「……誰も、自分の意志で笑っていない。……彼らの脳は、特定のホルモンを過剰分泌させるように、アプリから『報酬の信号』を送り続けられている。……これは、集団的なドラッグ(薬物)中毒と同じよ」


その時、一人の老人が藤城に歩み寄ってきた。 老人は微笑みながら、自分の宝物であったはずの古いカメラを差し出した。 「君も、持ちなさい。……持っているから、苦しいんだ。……手放せば、すべてが透明になる」


老人の背後、ポケットから覗くスマートフォンの画面には、神崎の仕掛けた「ウロボロス」のエンブレムが、美しく輝いていた。


「……神崎は、人間に『所有』を捨てさせ、個としての境界を曖昧にしている。……そうすることで、人類全体を一つの大きな『計算資源クラウド』に作り替えようとしているんだ」 如月の言葉が、重く響く。


3. 神崎怜との電脳邂逅


拠点に戻った沙耶香の前に、予期せぬ客が訪れた。 といっても、物理的な訪問ではない。 如月の厳重なセキュリティを無造作に突破し、モニターに映し出された一人の男。 デジタル安全保障局の若き局長、神崎怜だ。


「……初めまして、久我沙耶香さん。……いや、今は『共鳴するベッセル』と呼ぶべきかな?」


神崎の声は、澄んでいて、どこまでも心地よかった。 それ自体が、聴く者を魅了するよう設計されたオーディオ・プログラムのようだった。


「……神崎さん。……あなたは、何をしているのかわかっているの? ……あなたがしているのは、人類の『個』の殺害よ」


「殺害? ……心外だね。……私は、人類を『孤独』という不治の病から解放してあげているんだ」 神崎は、モニター越しに優雅に足を組んだ。 「久我さん。……君はかつて、自分の記憶を犠牲にして世界を救った。……だが、その結果はどうだ? ……人々は再びスマホを握り、再び誰かとの比較に疲れ、再び孤独に怯えていた。……私は、彼らに『恒久的な幸福』を与えた。……誰からも否定されず、誰とも争わずに済む、完璧な精神の平穏を」


「……それは、死んでいるのと同じよ」 沙耶香は、自分の震える手を隠さずに、真っ直ぐに画面を見据えた。 「……苦しみがあるから、喜びがある。……孤独があるから、誰かと繋がる瞬間のぬくもりを知ることができる。……あなたは、その『揺らぎ』を、汚いノイズだと言って切り捨てた。……でも、そのノイズこそが、人間が生きている証拠だわ」


「……論理的ロジカルな反論だ。……だが、君の脳はもう、私の『旋律』を拒めないはずだ」


神崎が指を鳴らした瞬間、室内の全スピーカーから、極小音量の、だが強烈な「不協和音」が放たれた。


「――っ、……あああああッ!!」


沙耶香は頭を抱えてのけ反った。 アレイティアの残骸が、神崎の放ったトリガーに激しく反応する。 脳の奥底に封印されていた、G7の日の「恐怖」が、鮮明な映像となって蘇る。


「久我さん! 如月、止めろ!」 藤城が叫ぶが、如月はキーボードを叩きながら絶叫した。 「ダメだ! 回線が完全に掌握されている! ……これは攻撃じゃない、……彼女の脳との『同期』を試みているんだ!」


沙耶香の視界が、真っ白に染まっていく。 その光の向こう側に、相馬誠の遺影が見えた。 彼は、悲しげに首を振っていた。


『……沙耶香。……蛇に、……喰われてはいけない』


4. 記憶の逆流オーバーフロー


意識が混濁するなかで、沙耶香は一つの「真実」を掴み取った。 神崎のシステム「ウロボロス」は、完璧ではない。 それは、利用者の「幸福な記憶」を餌にしている。 ならば、その餌を「毒」に変えればいい。


(……アレイティア。……私の『痛み』を、すべて解き放って)


沙耶香は、自らの脳に残る「負の感情」を、意識的に増幅させた。 プロファイラーとして、これまで向き合ってきた数千人の犯罪者の憎しみ。 警察組織に裏切られたときの絶望。 そして、記憶を失う瞬間の、あの凄まじいまでの寂しさ。


「……受け取りなさい、神崎。……これが、あなたの認めない『不純物』の力よ!」


沙耶香の脳から、凄まじい密度の「感情のノイズ」がネットワークへと逆流バーストした。


「なっ……!? ……計算が、合わない……! ……この負のエネルギー量は、……予測値の……1万倍を超えている……!」


モニターのなかの神崎の顔が、初めて驚愕に歪んだ。 ネットワークを通じて繋がっていた中目黒の人々が、一斉に正気に戻り、路上で立ち尽くした。 彼らの手元のスマホが、熱を帯びて強制シャットダウンしていく。


「……はぁ、……はぁ、……はぁ……」


沙耶香は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。 口の端から、鮮血が伝い落ちる。


「久我さん! ……大丈夫か!」


藤城が抱き起こすと、沙耶香は、消え入りそうな声で微笑んだ。


「……思い出したわ、藤城君。……私の……名前。……私は、……久我沙耶香。……警視庁の、……分析官よ」


その瞬間、彼女の瞳に、あの「氷の分析官」と呼ばれた頃の、鋭くも深い知性の光が、完全に、そして鮮やかに戻ってきた。


5. 宣戦布告


神崎怜の映像は、ノイズにまみれて消えようとしていた。 だが、彼は去り際に、呪詛のような言葉を遺した。


『……素晴らしい。……久我沙耶香、君というバグこそが、私のシステムを完成させるための最後のスパイスだ。……次は、君の『魂』そのものを、私のサーバーにアップロードしてあげよう』


映像が消え、地下室に静寂が戻った。 如月は、粉々になったキーボードを見つめ、力なく笑った。


「……お帰りなさい、久我先生。……地獄へようこそ」


「ええ。……ただいま、如月さん」


沙耶香は、藤城の肩を借りて立ち上がった。 足取りはまだ覚束ない。だが、その背中には、世界中の孤独を背負って戦う覚悟が、再び宿っていた。


「……神崎の狙いがわかったわ。……彼は、来週行われる『全日本デジタル祝祭』の放送を利用して、全国民の脳を恒久的に同期させるつもりよ。……今度の罠は、目に見えない。……だからこそ、私が、その『蛇の尾』を掴んでみせる」


沙耶香の瞳の奥で、失われた記憶と新たな能力が、激しく火花を散らしていた。


現代社会に取り憑いた、終わりのない「依存」の連鎖。 スマホという名の鎖を、今度こそ完全に断ち切るための、最後から二番目の戦いが、今、始まった。


残り七日。 久我沙耶香、三十歳。 彼女は、自らの不完全さを誇りに、電脳の迷宮へと再び身を投じる。


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