一通の招待状
第9章:一通の招待状
東京の夜が、静寂に塗り潰されていく。 かつて不夜城と呼ばれた新宿のネオンも、今や政府が推奨する「セーフ・ガード」アプリの節電モードという名目のもと、その輝きを失っていた。街を歩く人々は、一様に手元の画面を見つめ、アプリから提示される「最もストレスの少ない帰宅ルート」を忠実に辿る。そこには、かつての東京にあった混沌とした熱量も、突発的な笑い声も存在しない。
それは、相馬誠と東堂長官が作り出した、偽りの平穏だった。
久我沙耶香は、秋葉原の片隅にある廃墟と化したレトロゲームセンターの地下にいた。そこは如月蓮が個人的に所有する、どの地図にも載っていない「オフライン・シェルター」だ。
「……皮肉なものね」 沙耶香は、壁にずらりと並んだ電源の落ちたアーケード筐体を見つめた。 「二十年前のゲーム機には、人を操るためのアルゴリズムなんて入っていなかった。ただの遊び相手だったのに」
「今のゲームは、遊び相手じゃない。ユーザーを家畜化するための調教用デバイスですよ」 如月が、蜘蛛の巣のように張り巡らされたケーブルの奥から顔を出した。彼の目の下には、もはや隠しようのない色濃い隈が刻まれている。 「久我先生、アレイティアの最終調整が終わりました。……でも、これを放てば、東京中の……いえ、ネットワークに繋がっているあらゆる電子機器の基板が焼き切れる可能性がある。現代文明への『外科手術』としては、あまりに荒療治だ」
「それでも、やるしかないわ。……全人類の脳が、一つの回路に繋がってしまったら、もう誰も『切断』を望めなくなる」
沙耶香は、自分の右手の震えを左手で押さえつけた。 視界の端で、色が渦巻いている。昨夜、街中で起きた「テスト」の際、彼女の脳は相馬の信号に深く共鳴しかけた。アレイティアがそれを防いだが、その副作用で彼女の意識には「相馬誠の思考の断片」がノイズのように流れ込み続けている。
その時、地下室の入り口を守っていた藤城が、息を切らせて階段を駆け下りてきた。 「久我さん! ……届きました」
藤城の手には、一通の封筒があった。 今の時代には珍しい、厚手の上質な和紙で作られた封筒。宛名には、沙耶香の名前が流麗な筆致で記されている。
「スマホでも、メールでもない。物理的な手紙?」 如月が怪訝そうに覗き込む。
沙耶香は封を切った。中から出てきたのは、一枚のカードと、古びた写真だった。 写真は、まだ幼い頃の相馬誠と、その隣で無邪気に笑う一人の少女――妹の栞の姿。
カードには、ただ一行。
『――君の孤独が、私の設計図(設計図)を完成させる。G7開幕まで、あと十四日。始まりの場所で、最後のピースを待っている。』
「始まりの場所……」 沙耶香は写真を凝視した。 「江東区の、あの小学校……。佐藤勇人君が、最初の事件を起こした場所よ」
「罠です!」藤城が即座に叫んだ。「東堂長官の息がかかったSAT(特殊急襲部隊)が潜んでいるに決まっています。今の久我さんは指名手配に近い身なんですよ」
「わかっているわ。でも、これは招待状じゃない。……プロファイラーとしての私への、『挑戦状』よ」
沙耶香は、写真の中の相馬の瞳を見つめた。 そこに宿っているのは、狂気ではない。 もっと純粋で、もっと壊れやすい「絶望」だ。
「如月さん。……アレイティアを、私の脳を通じてではなく、物理的な外部デバイスに完全に移行できる?」
「え? それは可能ですが……そうなると、久我先生を守る『盾』がなくなりますよ。相馬と直接対峙すれば、今度こそ脳を書き換えられる」
「彼が私を呼んだのは、私の『脳』が必要だから。……彼にとって、私は不完全な世界に残された最後のバグなの。そのバグを取り込むことで、彼の『エデン』は完成する。だったら、それを利用するわ」
沙耶香は立ち上がり、コートを手に取った。 「私が囮になって、相馬のマスター・サーバーに直接アレイティアを流し込む。……藤城君、あなたはバックアップをお願い。私がもし……『共鳴』してしまったら、その時は躊躇わずにデバイスを破壊して」
「……久我さん」
「お願い、藤城君。これは一人の警察官としての、最後のお願いよ」
沙耶香の瞳には、かつての「氷の分析官」のような冷徹さはなかった。 そこにあるのは、傷つくことを恐れながらも、それでも他者を救おうとする、一人の人間の熱い光だった。
翌日の夜。 江東区の小学校は、街灯の届かない深い闇に包まれていた。 夏を目前にした生暖かい風が、校庭の砂を巻き上げる。
沙耶香は一人、校門を潜った。 かつて人工芝を血に染めた場所。あの日から、この学校は閉鎖され、地域住民からも忌避される場所となっていた。
「……来たね、沙耶香さん」
スピーカーからではない。背後の暗闇から、静かな声がした。 振り返ると、校舎の屋上に人影があった。相馬誠だ。 彼は月明かりを浴びて、まるで舞台の主役のように立っていた。その手には、一台の、何の変哲もない古いスマートフォンが握られていた。
「この場所で、最初の亀裂が生まれた。……あの少年が親友を刺した時、世界中の孤独が一瞬だけ、この一点に集束したんだ。君には聞こえなかったかい? あの美しい、断絶の音を」
沙耶香は、ポケットの中のアレイティアの起動スイッチを指で探りながら、屋上の相馬を見上げた。 「相馬さん。……あなたは、栞さんを救いたかった。でも、あなたが救おうとしているのは、今の栞さんではない。あの写真の中で、笑っていた頃の記憶だけ」
相馬の表情が、一瞬だけ歪んだ。
「君に何がわかる! 社会が彼女を壊したんだ! 溢れかえるノイズが、彼女の脳を焼き切った! だったら、世界中を彼女と同じ静寂で満たしてやるのが、兄としての務めだろう!」
「それは救済じゃない! あなた自身の、終わらない葬列よ!」 沙耶香は一歩、踏み出した。 「あなたは世界を同期させようとしているけれど、その中心にいるあなたは、誰よりも孤独だわ。……だって、あなたの『エデン』には、あなたを叱ってくれる人も、あなたと喧嘩してくれる人もいない。ただ、あなたのプログラムに従う人形がいるだけ」
「……黙れ」 相馬がスマートフォンを操作した。 校庭のあちこちに設置されていた非常用スピーカーから、突如としてあの、脳を抉るような高周波が鳴り響いた。
「うっ……!」
沙耶香は耳を押さえて膝をついた。 アレイティアの盾がない今、その信号は直接、彼女の脳幹を直撃する。 視界が真っ赤に染まり、思考が溶けていく。 心の奥底に隠していた、誰にも言えなかった寂しさが、ドロドロとした欲望に変質していくのがわかる。
(負けない……。……私は、久我沙耶香。……二十九歳。……警察官……!)
「さあ、こちらへおいで。君の孤独を、僕のパズルに捧げるんだ」
相馬が屋上から飛び降りた。超人的な身のこなしで着地し、沙耶香に近づいてくる。彼の瞳は、もはや人間のものではなかった。
沙耶香は意識が遠のく中で、最後の力を振り絞った。 彼女はポケットからデバイスを取り出し、それを相馬の足元に向けて投げたのではない。
自分自身の、首筋に押し当てた。
「アレイティア……! ……同期、開始……!」
「なっ……!?」
相馬が目を見開く。 次の瞬間、沙耶香の体から、目に見えない論理の激流が放たれた。 彼女の脳を「ハブ(中継地点)」として、如月が作り上げた最終プログラムが、相馬が制御するローカルネットワークへと逆流したのだ。
校内のスピーカーが火花を散らして爆発し、相馬が持っていたスマホが青白い光を放って砕け散る。
「ぐ、あああああッ!」
相馬は頭を抱えてのけ反った。 彼のシステムは、不特定多数の「無意識」を支配することには長けていたが、アレイティアのような「一つの個としての強固な論理」を直接叩き込まれることには、耐性がなかった。
「……バカな……。人間の脳で、AIの演算速度に耐えられるはずが……!」
「……不完全だからこそ……耐えられるのよ」 沙耶香は、鼻と耳から血を流しながら、這い上がるように立ち上がった。 「あなたのプログラムにはない、……『痛み』を知っているから」
静寂が訪れた。 高周波は止まり、相馬は力なく地面に崩れ落ちている。 だが、沙耶香もまた、限界だった。 アレイティアを強制同期させた代償として、彼女の意識は深い闇の底へと沈もうとしていた。
「久我さん!」
遠くで、藤城の声が聞こえる。 ライトの光が、校庭を照らす。
沙耶香は薄れゆく意識の中で、相馬誠の顔を見た。 地面に伏した彼は、砕け散ったスマホの破片の向こう側に、幻影を見ているようだった。
「……栞……。……兄さんは……」
その言葉を最後に、相馬は意識を失った。
沙耶香の視界が、ゆっくりと閉じていく。 だが、その心は不思議と穏やかだった。 犯人の「招待」に応じたことで、彼女は相馬のシステムの核心データを引きずり出すことに成功した。
G7開幕まで、あと二週間足らず。 戦争は、まだ終わっていない。 しかし、久我沙耶香は、人類が「孤独」という名の尊厳を取り戻すための、最初で最後の反撃の火種を守り抜いたのだ。




