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「つながっているのに、寂しいのはなぜ?」

序章:最初の亀裂


その日、東京の空は、不気味なほどに透き通っていた。


五月の爽やかな風が、江東区にある区立小学校の校庭を吹き抜けていく。放課後のチャイムが鳴り響き、校舎から溢れ出した子供たちの賑やかな声が、どこまでも続く青空へと吸い込まれていく。どこにでもある、平和を絵に描いたような日常の一幕だった。


だが、その平穏は、あまりにも唐突に、そして呆気なく切り裂かれた。


「あ……」


短い、掠れたような声。 サッカーボールを追いかけていた少年たちの一人が、不意に足を止めた。 小学六年生の佐藤勇人ゆうと。成績優秀、穏やかな性格で、誰からも好かれる少年だった。 彼の目の前には、幼稚園からの幼馴染である親友の姿があった。


勇人の右手に握られていたのは、工作用のカッターナイフだった。銀色の刃が、午後の陽光を反射して、まるで意志を持っているかのように冷たく光る。 次の瞬間、彼は迷いのない動作で、その刃を親友の脇腹へと突き立てた。


悲鳴が上がる。血が、緑色の人工芝の上にどす黒い染みを作っていく。 周囲の子供たちがパニックに陥り、逃げ惑う中で、勇人だけは微動だにせず、親友の体から溢れ出す赤を見つめていた。その瞳には、怒りも、憎しみも、そして後悔の色すらも浮かんでいなかった。


ただ、電源の切れたスマートフォンの画面のように、深く、暗い虚無だけがそこにあった。


警視庁捜査一課、犯罪行動分析係。 久我沙耶香は、デスクに積み上げられた資料から顔を上げ、細い指先でこめかみを強く揉みほぐした。


二十九歳。警察組織という強固な男社会の中で、彼女の武器は拳銃でも手錠でもなく、人間の心の深淵を読み解く「心理学」と、膨大なデータに基づく「分析」だった。大学院で心理学の博士号を取得した後、キャリアとして入庁した彼女を、周囲は畏怖と敬遠を込めて「氷の分析官」と呼ぶ。だが、彼女自身は、感情に流されれば真実の輪郭がぼやけてしまうことを誰よりも知っていた。


「久我さん、例の小学生の事件……調書が上がってきました」


後輩の刑事、藤城が硬い表情で書類を差し出した。 沙耶香は無言でそれを受け取り、ページをめくる。


「佐藤勇人、十二歳。動機は……依然として『不明』なのね」 「ええ。学校でのいじめ、家庭内暴力、あるいは精神的な疾患の予兆。どれだけ洗っても、何も出てきません。被害者の少年とは、事件の数秒前まで笑い合ってサッカーをしていたそうです。加害者の少年は、取り調べに対しても『なぜやったのか、自分でも説明できない』と繰り返すばかりで……。反省の言葉すら、実感を伴っていないように聞こえます」


沙耶香は資料の中の、事件直後に撮影された勇人の写真を見つめた。 警察官に取り押さえられた瞬間の顔。そこには、自分の犯した罪に対する怯えがない。かといって、猟奇的な殺人者に特有の高揚感や快楽も、微塵も感じられない。 あるのは、ただ、ひどく疲弊したような、虚ろな表情だけだ。


「……まるで、意識だけがどこか遠い場所に抜き取られてしまったみたい」


沙耶香は独り言のように呟いた。


「え?」 「いいえ、なんでもないわ。藤城君、彼に特定の執着や依存はなかった?」 「今のところ、目立ったものはありません。ごく普通の小学生です。ただ……」 「ただ?」 「担任の話では、最近少し、ぼーっとしている時間が増えていたそうです。スマホを眺めている時間が長くなったのかな、程度にしか思っていなかったようですが」


沙耶香は席を立ち、窓の外を見下ろした。 眼下には、無数の人々が行き交う桜田門の通りが見える。 歩いている人々の大半が、片手にスマートフォンを握り、首を曲げて下を向いている。まるで、その小さな発光体に目に見えない糸で繋がれ、操られているマリオネットのように。


現代人は、常に誰かと繋がっているようでいて、その実、史上最も深い孤独の中にいるのかもしれない。沙耶香の胸に、正体不明のざわつきが芽生えていた。


その日からだった。東京の空気感が、目に見えて歪み始めたのは。


「――都内各地で、突発的な暴行事件が相次いでいます」


数日後の朝、捜査本部には重苦しい沈黙が流れていた。 江東区の事件からわずか三日の間に、同様の「動機なき犯行」が立て続けに三件、発生していた。


二件目は、世田谷区の静かな住宅街。三十代の主婦が、買い物帰りに通りすがりの老人を突き飛ばし、重傷を負わせた。 三件目は、港区のオフィス街。一流企業に勤める二十代の男性社員が、会議中に突然隣の同僚の顔を殴打した。 そして四件目。中野区の路上で、女子大生が面識のないランナーの背中をナイフで切りつけた。


「加害者の属性はバラバラだ。年齢、性別、職業……何一つ共通点が見つからん。テロの可能性も視野に入れて動いているが、背後関係も一切不明だ」


一課の管理官が、苛立ちを隠さずにホワイトボードを叩く。 沙耶香は、ボードに貼り出された四人の顔写真を見つめていた。 主婦、会社員、女子大生、そして小学生。 彼らの人生に接点はない。居住地も活動範囲も重ならない。 政治的な主張があるわけでも、社会に対する明確な不満を抱えていた形跡もない。


だが、沙耶香の「分析」という名の直感が、それらを一つに繋げようとしていた。


「彼らは、怒っていないわ」 沙耶香の静かな声が、騒がしい会議室に響いた。


「何だと? 久我、どういう意味だ」 「加害者全員の供述に共通しているのは、『気づいたらやっていた』『体が勝手に動いた』という、まるで他人事のような感覚です。怒りや憎しみといった強い感情がトリガーになっていない。これは、通常の暴行事件の構図とは根本的に異なります」


「じゃあ何だというんだ。集団ヒステリーか? それとも未知の薬物か?」


「わかりません。ですが、彼らの精神の何かが、外部からの『ノイズ』によって一時的にハイジャックされた……そんな印象を受けます」


管理官は鼻で笑った。 「ノイズだと? SF小説の読みすぎじゃないか。我々が求めているのは、具体的な証拠と動機だ。久我、お前は引き続き、加害者の心理分析から手掛かりを探せ。他の者は、周辺の防犯カメラと通信履歴の洗い出しを徹底しろ!」


会議は解散となったが、沙耶香の懸念は深まるばかりだった。 分析係の自席に戻り、彼女は独自に作成したマトリックス表を睨む。 犯行時刻、気象条件、周辺の電波状況、直前の行動履歴。 どれだけ数字をこねくり回しても、意味のある相関関係は示されない。 唯一の、そして最も不気味な共通点は「誰もがスマホを持っていた」という、この国では当たり前すぎて指標にもならない事実だけだった。


その日の夜、沙耶香は久々に、大学時代の恩師に電話をかけた。 「――動機のない、自動機械のような暴力か」 電話越しの老教授の声は重かった。 「沙耶香くん、人間の脳はね、君が思っている以上に脆弱なんだよ。特定の視覚刺激や、一定の周波数が、理性という名の防波堤を簡単に決壊させることがある。だが、それを意図的に、しかもこれほど広範囲に引き起こす方法など……私には想像もつかない」


「もし、それが可能だとしたら?」 「それはもはや犯罪ではない。人間というシステムの根幹を揺るがす、『精神のテロ』だ」


電話を切った後、沙耶香は暗い部屋の中で、自分自身のスマートフォンを見つめた。 漆黒の画面。その奥には、無限の情報が渦巻いている。 私たちは便利さを手に入れた代わりに、自分の脳の主権を、この小さな機械に預けてしまっているのではないか。


その予感は、最悪の形で現実となった。


金曜日の午後八時。帰宅ラッシュに沸く山手線。 沙耶香は、新宿駅での聞き込みを終え、偶然その車両に乗り合わせていた。


車内は、疲れ果てた表情のサラリーマンや、楽しげに談笑する若者たちで埋め尽くされていた。誰もが当たり前のようにスマートフォンを眺めている。 電子音、空調の唸り、そしてレールの軋む音。 日常の風景。


だが、その瞬間、空気が凍りついた。


「――っ!?」


隣に座っていた若い女性が、突然、呻き声を漏らして立ち上がった。 彼女の手にはスマートフォンが握られていたが、その画面は異常なほど明るく、複雑な幾何学模様が脈動するように点滅している。


女性の目が、カッと見開かれた。 焦点が合っていない。瞳孔は散大し、そこには意志の光など微塵も存在しない。 彼女は隣に座っていた中年の男性に向かって、獣のような咆哮と共に飛びかかった。


「やめなさい!」 沙耶香が叫ぶのと同時だった。 車両のあちこちで、同じような絶叫が上がった。 一人、二人ではない。 あちらこちらで、つい先ほどまで大人しく画面を見ていた乗客たちが、まるでスイッチを切り替えられたかのように、隣の人間に殴りかかり、首を絞め、髪を掴んで引きずり回し始めた。


「パニックじゃない……これは、暴動よ!」


阿鼻叫喚の地獄絵図が、閉ざされた車両の中で展開される。 沙耶香は襲いかかってきた男の腕を、警察学校で叩き込まれた逮捕術で制圧し、床に組み伏せた。 「落ち着いて! 警察です!」 叫ぶが、届かない。 男の瞳は、まるで何かに憑りつかれたように、虚空を見つめている。 彼の口から漏れたのは、言葉ではなく、ただのノイズだった。


電車が緊急停車し、ドアが開く。 逃げ出す人々、それを追いかける暴徒。 ホームは瞬く間に血と悲鳴で埋め尽くされた。


駆けつけた警官隊が暴動を鎮圧する中、沙耶香は荒い息をつきながら、血の海となった床に目を落とした。 そこには、逃げ惑う中で落とされたであろう、数台のスマートフォンが転がっていた。


そのうちの一台を、沙耶香は震える手で拾い上げた。 画面はまだ、消えていなかった。


映し出されていたのは、見たこともないほど精緻で、眩惑的なパズルゲームの画面だった。 色鮮やかな幾何学模様が、心臓の鼓動と同じリズムで明滅を繰り返している。 ふと、隣に落ちていた別のスマホに目をやる。 ――同じだ。 割れた画面の向こう側で、全く同じパズルが、静かに、そして冷酷に進行していた。


沙耶香は、周囲に転がっているすべてのスマートフォンを回収するよう、到着した藤城に命じた。


「久我さん、これは一体……」 血飛沫を浴び、顔を青白くさせた藤城が問いかける。


「わからない。でも、私たちはとんでもないものの入り口に立っている気がするわ」


沙耶香は、手の中にあるスマートフォンの、熱を帯びた画面を見つめた。 この光の向こう側に、数百万人の意識を支配し、暴力の傀儡へと変貌させる「何か」が潜んでいる。


誰が、何のために。 そして、この狂気はどこまで広がるのか。


夜の新宿駅に、けたたましいサイレンの音が響き渡る。 それは、これから始まる長い悪夢の、序曲に過ぎなかった。


現代社会の象徴であるはずのスマートフォンが、人類を破滅へと導く牙を剥き始めたのだ。 沙耶香は、まだ誰も知らない「敵」の存在を確信し、冷たい夜の風の中で、静かに決意を固めた。


久我沙耶香、二十九歳。 彼女の知略と、現代に取り憑かれた「依存症」との、孤独な戦いが幕を開けた。



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