3. 奥様って呼ばれない?
食堂で泣き出してしまった日の夜。
ベッドで掛布を被り、フィアリアは家庭教師に教わったことを一所懸命思い返していた。
(むやみに逃げてもダメだわ。考えなくては……、どこへ逃げれば良いの……)
結婚は、教会で行う。ということは、離婚も教会ではないだろうか。
(きっとそうだわ。まずは教会に行きましょう!)
フィアリアはひとりでうんうんと頷く。
現状から逃れるには離婚しかない。
(神父様にお願いすればきっと離婚させてくださるわ)
フィアリアは今まで思い通りにならなかったことなどない。
正確には、『自分がみんなの思い通りに振る舞わなかったことがない』と言えるのだが、結果として、何もかもが順調に流れていた。
だから、神父に断られるかもしれないとか、実家に助けを求めようなどの考えは、すっぽり頭から抜け落ちている。
今まで、願いは、願っていると自分で感じる間もなく即座に叶えられているのが当たり前だった。
だが、この家の人たちは違う。
教会に行きたいと思っても連れて行ってくれる者など居ない。むしろ止められる。たぶん、きっと、止められる。
ひとりでこっそり教会に行くには、機会を伺って逃げ出すしかない。
だから、それまでにもっと走れるようになっていなくては。
「馬場を開放してくださると仰っていたわ。まずそこで身体を鍛えましょう!」
と、決意したところで。
「……鍛えるって、どうやるのかしら?」
フィアリアは首を傾げた。
* * *
悩みながらいつの間にか寝てしまった翌朝。
侍女が静かに部屋に入ってきて、まだベッドでモゾモゾしているフィアリアを見て笑う。
「あらあら、毎朝のランニングは中止ですか?」
侍女は笑いながら寝室のカーテンを開け、窓を大きく開く。
春の爽やかな風が柔らかく吹き込んできて、フィアリアは目をこすりながらゆったりと身体を起こす。
「旦那様に……、ご心配をおかけしたくなくて」
そう。そんな怖い事態は避けたい。
だが、侍女にはその恐ろしさが伝わらないらしい。
驚いたようにあらまあ、と言うと、
「そうですね、フィアリア様はお優しいですねぇ」
と笑う。
そして侍女はドレッサーに向かい、カタカタと化粧道具を取り出しながら、背中越しにフィアリアに話しかける。
「昨夜はあまりお召し上がりになれませんでしたでしょう? 朝食はお部屋でお取りになりますか? それとも旦那様と食堂でお召し上がりになりますか」
「……どちらでも」
と、いつものように答えかけて、フィアリアは、
「いえ、部屋で!」
と慌てて言い直す。
「そうですね、どちらでも良いのなら旦那様とお取りになるのがよろしいかと……」
この侍女は実家から付いてきた侍女だ。
フィアリアの世話に慣れきっている彼女は、朝の支度の準備に意識を向けながらルーティンのように答えかけ、ん? と手を止める。
「……えっ!?」
「……部屋で朝食を摂りたいと思います」
「……あっ、はい、承知いたしました」
一瞬唖然とした侍女は、すぐに気を取り直して、メイドに厨房への伝言を頼む。
そうしてから、急いでフィアリアの側に駆け寄って来た。
「もしかして、まだご気分が優れませんか? 今日はお部屋でごゆっくり過ごされますか」
「そうね……、いえ! 気分は大丈夫です。旦那様が馬場を開けてくださると仰っていたので……、行ってみようかと……」
「まあ!」
侍女がパンと手を打って嬉しそうにフィアリアを見る。
「そうですね、奥様になられましたものね。女主人としてやるべきことが沢山待っていますもの、お身体を鍛えるのは良いことです」
「……そ、そう?」
「でも、ご無理はなさらないでくださいね、お身体がお弱いんですから」
「……そうね」
昔からずっと側にいる侍女は、実家の家族と同様に過保護である。
だが、当時何とも思わなかった『身体が弱い』の言葉が、回帰後のフィアリアには『役立たず』と同義に聞こえる。
前世。身体が弱いから、と、女主人としての仕事をほとんどさせてもらえなかった。
当時は分からなかったが、今思えばあれは自分の居場所がなくなる前兆だったかもしれない。
(で、でも、今世は、前世の記憶があるもの! きっとちゃんと出来るわ!)
ぐっと両手を握って決意を固めたフィアリアは、気合を入れて朝食を摂り、馬場へ向かうための支度をしてもらって、廊下に出た。
「フィアリア様、おはようございます」
メイド長が頭を下げる。
(……フィアリア様? って言った?)
フィアリアは違和感に胸を押さえる。
「…………おはようございます」
「フィアリア様、おはようございます。本日は軽装でいらっしゃいますね。いかがお過ごしになるご予定でしょう」
執事が声をかける。
(彼もフィアリア様……)
「……旦那様がご用意くださった馬場へ伺おうかと思っております」
「承知いたしました、フィアリア様のお乗りになれる馬をご用意するよう厩舎に伝えてまいります」
そこへ、主人の従者のエイルが通り掛かり、足を止める。
「あっ、フィアリア様! 乗馬服ですね。馬場にお出でですか? ご案内いたしましょう」
と、笑顔で前に立って歩き始める。
(この人もフィアリア様!?)
前世と違う。
(『奥様』じゃない……?)
フィアリアの頭にズキンとした痛みが走った。
* * *
前世。
結婚式の翌日、フィアリアとヨークフェルトはお茶の時間を共にしていた。
「フィアリア嬢、どれが好きだ?」
お茶のテーブルを挟んで、ヨークフェルトが問う。
テーブルには、色とりどりのデザートが乗せられたプレートが、所狭しと並んでいる。
「好みが分からなかったので、いろいろと用意してみた。この中に好きなものがあると嬉しいのだが……」
ソワソワとした様子で言うヨークフェルトに、フィアリアは笑顔で答える。
「ヨークフェルト様のご用意くださったものなら、何でも好きですわ」
「そ……、そうか? あ、ここにあるもの以外でなにか食べたいものはあるか? あるなら……」
「あら、いいえ、これで充分です」
「そ……、そうか……」
なにか拍子抜けしたような様子のヨークフェルトに、あれ? と思ったフィアリアは、少し考えて、
「……お気遣いありがとうございます」
と付け加えた。
「う……、うむ」
ヨークフェルトが唸るように答え、そのまま気まずげに口を閉じる。
しばしの沈黙の後、ハッとしたようにヨークフェルトが再び話し出す。
「……あ、そうだ、なにか欲しいものはあるか? 婚姻の記念に何か贈ろうと思ったのだが、思いつかなくてな」
直接聞くのもどうかと思ったのだが……、と、ヨークフェルトは照れたような困ったような顔をして、フィアリアの様子を伺う。
フィアリアはいつものように笑顔を浮かべ、
「特に欲しいものはありませんわ」
と答える。
その瞬間、ヨークフェルトの顔からスッと表情が消える。
あれ? とフィアリアは思う。お父様はこの答えでいつも嬉しそうにニコニコしてくださったのに。
やがて、ヨークフェルトは、ふぅー、と深い溜息をつき、
「…………そうか」
とだけ言って、席を立つ。
「……すまない、用事を思い出した」
「えっ……あ、はい」
慌てて立ち上がろうとしたフィアリアを制するように手のひらを向け、
「君はゆっくりしていてくれ」
とだけ言って、さっさと背を向けて部屋を出ていってしまった。
残されたフィアリアは、少し首を傾げたが、ゆっくりしろと言われたので、言われた通りにゆっくり過ごすことにした。
「奥様……」
置き去りにされたフィアリアに、屋敷の使用人が心配そうに声を掛ける。
「なあに?」
「あの、お気を悪くなさらないでください、ご主人様は口下手で……。あれでも精一杯奥様に気を使っていらっしゃるんです」
「まあ、そう。ええ、気にしていません、ありがとう」
ふわりと笑うフィアリアに、使用人たちはホッとする。
「あの、お茶のおかわりをいただける?」
「あ、はい! 申し訳ありません奥様、今すぐに!」
慌てて注ぎ足されたお茶に砂糖をふたつ入れさせて、フィアリアはゆったりとそれを口にする。
ヨークフェルトについて本当にまったく気にする様子のない彼女に、別の意味での心配が徐々に使用人たちの間に広がっていった。
* * *
(あの頃は確かに奥様って呼ばれていたわ。……いつの間にかフィアリア様って呼ばれるようになって……、冷たい雰囲気になっていって……)
ズキン、ズキンと頭が痛み、痛みとともに記憶が細切れにフラッシュバックする。
……ああ、フィアリア様、なんの御用です?
……は? 仕事ですか? フィアリア様に? ありませんよ、忙しいので失礼します。
……あらフィアリア様、お暇そうでよろしいですね。
……フィアリア様邪魔です! 危ないからお部屋で大人しくしていてください!
「嫌……」
フィアリア様と呼ばれるのは、嫌。
せっかく今世は女主人としての仕事も頑張ろうと決めたところなのに、最初から奥様と認めてもらえないのか。
そんなフィアリアの様子に、エイルは立ち止まって首を傾げる。
「フィアリア様? いかがなさいました?」
「嫌っ、やめて……!」
フィアリアはじわじわと後退る。
「フィアリア様?」
「エイル、あなた、フィアリア様になにかしたの?」
メイド長が厳しい声で言う。
「俺ぇ!? してないしてない、何もしてないですよね? フィアリア様」
エイルが一歩、フィアリアに歩み寄る。
その瞬間、フィアリアは耐えきれずに悲鳴を上げる。
「キャアアァァァ! やめてぇぇ!!」
同時に、くるりと踵を返し、フィアリアは明後日の方向に走って逃げる。
「ふぃっ、フィアリア様!?」
追い打ちをかけるように、フィアリアの名を呼ぶ声が彼女の背を叩く。
「嫌ーっ!」
「フィアリア様ぁー!!」
「イヤぁぁぁぁぁ……」
悲鳴の尾を引きながらあっという間に姿を消したその方向を呆然と見送り、
「……随分と足がお早くなりましたね」
へへっ、とエイルが引きつったように皆を振り返って笑う。
「……言ってる場合か! 護衛、フィアリア様を追え! エイルはこっちに来い! 何をしたか話してもらおう!」
執事が声を荒げる。
「えええ俺ぇぇぇ!?」
「そんなことより早くお嬢様をお探しください!」
フィアリアの侍女の叫びに、責任追及は後回しにされ、総出でフィアリア探しに駆け出した。
* * *
(やだ……、やだ、今世はちゃんと頑張ろうと思ったのに! もう既にダメなの!? 早くない!? 私が離婚してって言ったから?)
闇雲に走りながらそこまで考えて、フィアリアはハッとして立ち止まる。
(違うわ! 離婚するんだから、見捨てられてて良いんじゃない?)
そうよ、下手に公爵家の事務を回して、資金の出入りから事業の詳細、軍備情報までうっかり覚えてしまうようなことはしない方が良い!
「そうよ、奥様なんて呼ばれたくない! だって離婚するんだもの!」
決意を込めてフィアリアは叫ぶ。
「…………そしてここは何処ぉ!?」
馬場に向かって走っていたはずが、フィアリアはいつの間にか庭の真ん中で迷子になっていた。
* * *
(奥様なんて……、呼ばれたくない……だと……)
通りがかりにうっかり聞いてしまったフィアリアの叫びに、ヨークフェルトはショックを受けていた。
(離婚……、と、言わなくなったので、やはり結婚式の時の一時的な気の迷いかと思っていたんだが……)
フィアリアに見つからないよう慌てて庭から屋敷の陰に駆け込んで、少し進んだところで、よろ、とよろけて、屋敷の外壁に手を付く。
そこへ、従者のエイルが走ってくる。
「旦那様! 奥様……、フィアリア様を見かけませんでしたか!」
ゆる、と頭を上げたヨークフェルトは、顎で後方を指し示す。
「ありがとうございます! ……何があったか知りませんが、シャンとしてください! カッコ悪い!」
「うっ……」
走って行くエイルの背を見つめて、ヨークフェルトは壁に背をつけて、ずるずると地面に座り込んだ。
土魔法が暴走して、足もとから泥が湧き出してきたが、ヨークフェルトは気にせずそのまま泥の中に身を沈めていった。
あとで庭師とランドリーメイドにめちゃめちゃ怒られたのは言うまでもない。
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