2. 前途多難な新婚生活
はあ、はあ、はあ。
息が切れて、もう走れない。
でも、逃げなきゃ。逃げなきゃ今世もまた怖いことになる。
「……奥様」
見つかった!! ああ、また連れ戻されてしまう。
フィアリアは、絶望に座り込んだ。
* * *
フィアリアは毎晩、前世の夢を見ていた。
ぼんやりとした夢の中、薄暗い部屋。
「……こんなところにいたのか」
ヨークフェルトが灯りを背負って扉から入ってくる。
フィアリアは、カーテンの閉まった窓際の椅子に座り、何も言わずにキョトンとヨークフェルトを見返す。
「随分探したぞ。心配した」
そう言った次の瞬間、鬼のような形相でヨークフェルトはフィアリアに駆け寄り、彼女の首を掴み上げる。
(あ、殺される)
そう思った瞬間、フィアリアの脳内に、過去の思い出がフラッシュバックする。
(これが、走馬灯?)
勉強したこと。
見たり、聞いたりしたこと。
体験したこと。
特に興味もなくどうでもいいと思っていた様々な事柄が、パズルのピースのように次々と再構築されていく。
物事。時間。その流れの中にある、他人。……自分。
世界の輪郭がくっきりとし、急にパッと目の前が明るく開ける。その中で、自分というものが、ぎゅっと固まるような感覚を覚える。
(……あ。これが、私。……これが、生きていると、いう、こと)
初めて生の実感が湧き、また初めて、恐怖という感情を知った。
(……嫌だ、死にたくない……嫌だっ……)
「……嫌!」
叫んで、フィアリアはベッドの中で目を覚ます。
背中は冷や汗でびっしょりと濡れている。
部屋は明るく、外ではのどかに小鳥が鳴いている。だが、フィアリアの心は恐怖に囚われたままだ。
そして毎朝フィアリアは走り出す。
ただその恐怖から、逃げ出すために。
* * *
「……今日は玄関前まで走ったようだな」
結婚式から数日後の晩餐の席。
ヨークフェルトは肉を口に運びながら、目も合わせずフィアリアへポツリと言う。フィアリアはフォークを使う手をピタリと止めた。
「昨日は玄関ホール、一昨日は階段上。その前は部屋前の廊下までだったか? 目覚ましく距離を伸ばしているな」
カチリ。
フィアリアはわずかに震えつつフォークを置く。
「運動がしたいなら、馬場を開放してやろう。……あまり侍女たちに心配をかけるな」
「……ひっ」
「ひっ?」
フィアリアの引きつった声に、ヨークフェルトは驚いて食卓から目を上げた。目が合った瞬間、
「……ごめんなさい、心配しないでくださいいぃ」
フィアリアは大声で泣き出した。
* * *
食事は中断となり、フィアリアは部屋に籠もって止まらない涙を自分でも持て余していた。
怖い。
回帰前の前世でもほとんど感情の起伏なく過ごしていた彼女の、初めて知った激しい気持ち。今、それを静める術がわからず、混乱している。
(だめよ、フィアリア。落ち着いて。ここから逃げ出すの。さもないと……)
フィアリアは自分の身を抱え、ぶるりと震えた。
心配。
ヨークフェルトは自分の家族と違う意味でその言葉を使う。
フィアリアは、前世でその事を思い知ったエピソードを思い返していた。
* * *
回帰前、嫁いできた翌日。
(ここは……、何処かしら)
フィアリアは庭園の隅にぼんやりと佇んでいた。
実家で過ごしていた時には、必ず誰かが手を引いてくれていた。
嫁いできたこの家では、こちらです、と前に立たれるだけで、誰も手は引いてくれない。ぼんやりと歩いていたら、あっさりはぐれてしまった。
(……そのうちどなたかが迎えに来てくださるでしょう)
フィアリアは庭園を眺めるともなく眺めながら、ただぼーっと立っていた。
しばらくして。
「フィアリア!!」
ヨークフェルトが庭園の向こうから走ってきた。
「ああ、よかった! こんなところにいたのか。急に居なくなったと聞いて驚いた。探したぞ」
「?」
どうせ屋敷内にいるのだから、そんなに慌てなくてもいずれ見つかるでしょう?
「見つけてくださると、思っていましたので」
フィアリアはヨークフェルトを見上げて、にこりと笑った。
ヨークフェルトはビクリと身を震わせる。
そして、震える息のまま深い溜息を吐く。
次の瞬間、フィアリアは彼の強い腕に抱え込まれ。
「……心配したんだぞ」
ぐっと抱きしめられて。
ぼきり。
「いぃっ……! ぃ痛いぃぃー!!」
肋骨にヒビが入った。
* * *
そこまで思い出して、現世のフィアリアは再び身を震わせる。
(……彼の『心配した』は、痛い目に遭わせるぞ、という意味なんだわ)
あの後何日も、フィアリアはひたすら痛みに耐えるしか無かった。
実家ではかすり傷さえほとんど負ったことのない身には、息をしても痛いような大怪我は本当に耐え難かった。
回復魔法も万能ではない。
フィアリアが小さく弱々しいために、強い回復魔法は逆に心身を損ねる可能性がある、と医師は判断した。
その為、治療は回復速度を上げるに留め、あとは自然回復に任せることになった。
だが、そんな事情はフィアリアは知らない。説明はされたが、良くわからない。
だが、耐えろと言われたから耐えた。
(今思えば……、どんな理由があったって、痛いのだから、治してくれたら良かったのに……)
治療もせず、痛みに苦しんでいるのをただ眺めているだけなんて。
(うちの医師団だったら……、いつも直ぐに治してくれていたのに……)
もちろん、実家ではあんな大怪我を負ったことがないからなのだが、そんなことには気づかず、フィアリアはひとりで不信感を募らせる。
庶民なら一ヶ月は痛みに苦しむ怪我だが、フィアリアは回復促進の魔法のおかげで一週間程度で回復した。だが、その一週間は、フィアリアにとっては永遠に続く地獄のように思われた。
ヨークフェルトは毎日見舞いに来て、心配だ心配だと念押しして行ったが、話しかけられて答えるのも激痛だったので、やはり『心配』は『お前を痛めつけてやる』という意味だったんだと、フィアリアは改めて強く心に刻んだ。
* * *
同じ頃。
フィアリアが突然泣き出して自室に連れ帰られ、気が気でないまま食事を終えたヨークフェルトは、私室に帰るなり従者のエイルに縋り付いた。
「なあ! エイル! フィアリアはなぜあんなに泣いたのだ!?」
「さあ……? ヨーク様の言い方が怒ってるみたいだったからじゃないですか?」
「怒る? 私がフィアリアに怒るわけがないだろう!」
「ヨーク様はいつでも怒ってるみたいなんですよ」
「……そうなのか!?」
ぐああ、と頭を抱えてヨークフェルトは苦悶する。
「お前に余計なことは喋るなと警告されていたのに! やはり私は、フィアリアに話しかけてはいけないのだろうか!」
「いや、あれは別に余計なことでは……、あっ! ヨーク様ヨーク様、水が溢れてます、止めてください」
「ああっ!?」
気づけばヨークフェルトの足下はタプタプの水たまりになり、絨毯の色を暗く変えて、その染みが一気に広がっていく。
水魔法の暴走である。
すー、はー。ヨークフェルトは深呼吸してから手を軽く振り、水を吸い上げて空中で消した。だが、緻密な織りの絨毯は、水をたっぷりと含んでしまっている。
「温風で乾かしといてくださいね」
「うっ、うむ」
ヨークフェルトは頷き、風魔法を発動する。
「……で、私はどうすればいい?」
ふわふわと暖かい風が吹き渡る部屋の真ん中、パーケットのチェステーブルに椅子を寄せて座り、ヨークフェルトは改めてエイルに聞く。
「ちょっとは自分で考えてくださいよ、私だってわからないですよ」
濡れた絨毯を不快そうに踏みながら、エイルはお茶を淹れるためにサイドボードへ向かう。
「もー、なんでこう魔法を暴発させるんですか、もうちょっと冷静に、落ち着きのある大人にならないと、フィアリア様から嫌われますよ」
「嫌われるのか!?」
「そりゃそうでしょう、話しかけるたびに火を吹いたり水浸しにされたりしたら、うんざりしますよ」
「う、うんざりしたから泣いたのか……?」
「いや、まだ魔力暴走癖はバレていないと思います。こまめに深呼吸して、気を静めるようにしてくださいね」
「……わかった!」
すー、はーっ。すー、はーっ。すーーっ、はーーっ。
「あんまりやると過呼吸になりますよ。程々にお願いします。あとは……、そうですね、女性のご機嫌をとるには……、プレゼントでしょうか。宝石商を呼ぶよう手配しましょうか」
言いながらエイルは丁寧に手早くお茶を淹れる。
「そ、そうだな、フィアリアに似合うものを買ってやろう。……いや……、彼女は何でも似合うぞ! どうやって選べばいいんだ!?」
「ヨーク様落ち着いてください! 温風が暴風になってます!」
「あっ……」
すー、はーっ。
「プレゼントの選び方なんて私にもわからないですよ、私は結婚エアプ勢なんですから」
「エアプ?」
「女性と深く付き合ったこともないのに、いつか結婚したら、の妄想シミュレーションだけは常々している勢です」
「…………哀しいな」
「大きなお世話です」
と従者は主人にお茶を出す。
「誰のせいだと思ってるんですか、女性と付き合うには忙しすぎるんですよ」
「う……、すまん……」
「ヨーク様の魔力暴走に間近で耐えられるのは、この家では母か私くらいのものですからね。その母もヨーク様の結婚と同時に長期休暇を取って、ご機嫌よく父 と旅行に行っちゃいましたからね……。今の私は、24時間勤務365日営業です」
強い魔力攻撃の受け流しと暴走の緩和、それがエイルの母の特性だった。そこを買われてヨークフェルトの乳母に選ばれた。
エイルにもその特性が遺伝していたため、彼は幼い頃からずっとヨークフェルトに、片時も離れることなく仕えている。
親より長い時間を共にしているエイルを、ヨークフェルトはとても信頼しており、忠告は素直すぎるほど素直に聞く。
「私が可哀想なら、早いとこ魔力制御を覚えてください」
「わ、わかった! 頑張る!」
こくこくと頷いたヨークフェルトは、カチリ、と紅茶のカップを手にとって、ふと首を傾げる。
「……綺麗なカップだな? こんなカップ、うちにあったか?」
「奥様がお輿入れの際お持ちになったお道具ですよ」
「…………奥様」
「はい、奥様の物ですね。奥様のお部屋と応接室のカップボードを満載にしてなお余りましたので、少しこちらにお持ちしました」
「………………お……『奥様』……」
「あ、もちろん奥様のご許可は頂きましたよ。ちなみにドレスや宝飾品もワードローブに満杯で、もう一部屋追加で割り当てたほどですから、奥様は宝石はもう要らないかもしれませんね……、って、ヨーク様!! 燃えてる! 燃えてる!!」
「あっ」
焦げを広げつつ煙を吹き始めている絨毯に、ヨークフェルトは慌てて魔法で水を掛ける。せっかく乾きかけていた絨毯は、再び水浸しになった。
「ああもう……、絨毯張り替えるしかないですね……。あのですね、ヨーク様。フィアリア様はもうヨーク様の奥様ですよ! いちいち照れて魔力暴走を起こしていたらきりがないんですよ!」
「だっ、だが、おっ、おく……、おく……」
「物理で顔から火を吹かないで!!」
「うううう……」
なるべく口を利かないようにしているから、何日経ってもヨークフェルトはフィアリアに慣れない。いつまでも照れくさくて仕方がない。
「……しょうがないですね、しばらくはフィアリア様と呼ぶよう家人一同に申し付けておきます」
それがまたフィアリアの疎外感を煽り、事態を複雑にしていくとは、誰も思っていなかった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます!
ルソーの第二の誕生ってやつ。
いや、哲学的な話にする気は一欠片もありませんが。
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