◇9.花嫁の印は燦然と
朝からどっと疲労感に襲われている私と正反対に、元気いっぱい上機嫌といった様子のベルドラドは、てきぱきとテーブルの上を片付け始めた。
「午後からは城の中を案内しよう。色々と見どころがあるから楽しみにしていてくれ。ひとまず今日は、薔薇がたくさん咲いている中庭と、視界に入った者をとりあえず撲殺しにかかる石像が並んだ通路と、一息吸えば昏倒する瘴気に満ちた地下室を見せようと思うがどうだ?」
「中庭だけで充分です。後半の二か所は永遠に案内してくれなくて大丈夫ですのでぜひ中庭の薔薇をじっくり見せていただければと思います」
「そうかそうか。リシェルは本当に花が好きなんだな」
「確かに花は好きですがたとえ花が嫌いだったとしも同じ要望を出したと思います」
「昨夜摘んできた花も部屋に飾ろう。入り切るか分からないけど」
ベルドラドは手際よく食器をワゴンに載せ終えると、「じゃあ、俺はしばらく退室するから」と軽やかに言った。
「えっ、ま、待ってください、ベルドラド」
ごろごろとワゴンを押してあっさりと退室しようとする彼を、思わず引き留めた。裾を引かれたベルドラドは立ち止まり、「どうした?」と問う。
ここは知らない場所である。もっと言うと魔族の領域である。さらに付け加えると魔族の総本山ともいうべき魔王城である。
人間にとって魔族とは、「よく分からない存在」「関わらない方がいい存在」「人に危害を加える存在」であるというのが通説だ。大昔には人の国と魔族の国とで大規模な戦争もあったらしいし、勇者が魔王と戦う物語はお伽噺の定番にもなっている。
ただ、幼い日に遊んだあの子と同様、目の前のベルドラドは私に対してこれっぽっちも敵意がないので、私の中の魔族観は「普通に話せる存在」で確立しつつある。
とはいえ、ベルドラド以外にどんな魔族がここにいるのかまだ知らないので、ちょっと不安だ。こんなにも早く(目覚めたらすでに魔王城、かつ、ただいまの装備は寝間着一枚)ひとりきりになるとは思っていなかったのだ。
「ひとりは少し不安と言いますか……できれば、まだ離れて欲しくないのですが……」
ごにょごにょと言い募る私に、ベルドラドはなんだか嬉しそうに瞳を和ませると、私の頭を撫でた。
「連れてきて早々ひとりにすることになって悪いな。愛に溢れる偽装夫婦らしく一日中いちゃいちゃしたいのは山々なんだが、今回の結婚にあたって諸々の事務手続きを済ませてこないといけないんだ」
「じむてつづき」
ベルドラドの口から「事務手続き」という非常に現実的な単語が出てきて面食らった。自由奔放に見える彼とは一生無縁そうな単語である。というか、魔族にもそういうのあるんだ……。
「これでも魔王城勤めの身だから。書類の提出は勤め人の宿命だろ?」
「それは同感ですね……」
メイドの時も掃除に使う雑巾一枚を新調するだけで申請書が必要だったから、確かに頷ける話である。そういえば、ベルドラドは人間に紛れて経済活動をしていると言っていたし、魔族も人間と変わらない社会的な苦労をしているのかもしれない。親近感が湧く話である。
「俺が用事を済ませてくる間、ここで留守番をしていてくれ。心配はいらない。この部屋に俺の許可なく入る魔族はいないから」
いたら切り刻む、と明るく付け加えられた。明るく付け加える内容ではないから聞き間違いだと思うことにした。
「念のため扉の外には見張りをおいているし、この部屋から出ない限り身の危険はないと保障する。安全で快適なこの部屋で、のんびり過ごしてくれ」
「なるほど……分かりました」
こうして安全も保障してくれていることだし、ベルドラドの仕事の邪魔をするわけにはいかないし、これ以上引き留めてはいけないだろう。
「……ちなみに、部屋から出た場合は安全の保障はない、と思った方がよいでしょうか?」
彼がいない間に勝手に魔王城をうろうろするつもりはないけれど、念のため聞いてみたら、「いいや?」と否定が返ってきた。
「確かに城内には普通に魔族がうろついているが、リシェルを見て即座に危害を加えるような真似はしないはずだ。五百年前なんかは勇者一行の不法侵入がしょっちゅうあったらしいけど、今は魔王城に人間が来ることなんて滅多にないから、城の誰かが招いた人間だと判断して様子見すると思う」
「なるほど……」
「リシェルに好奇心でちょっかいを掛ける奴がいたら『宣誓』を見せろ。俺の妻だと分かった上で無礼を働く命知らずは、まずいない」
いたら磨り潰す、と明るく付け加えられた。明るく付け加える内容ではないから聞き間違いだと思い込むことにした。
「その、宣誓というのは?」
契約書のことだろうかと首を傾げると、ベルドラドは意味深に笑ってみせた。
「リシェルが誰のものか一目で分かるよう、目立つところに付けておいたから」
ベルドラドにぐいぐいと背中を押され、壁に掛けられた鏡の前まで案内される。
「左手で前髪を上げてみろ」
よく分からないまま、とりあえず言われた通りに前髪を上げてみたら。
ぴかああああー!
という音がしそうな勢いで額が発光した。
「ひ、ひ、人のおでこに何したんですか!」
鏡に映る私は、額から燦然と光を放つ神々しい不審者である。黄金の光は文字の羅列のようにも見えるが、何と書いてあるかは読めない。
「魔法文字だ。さっきキスをした時に付けた」
「人の頭部を勝手に発光物にしないでいただけますか……!?」
目立っていいとかなんとかは言っていたのはこのためかこの野郎。
「文字ってことは、これ文章ですよね? 結構な長文ですけど、一体なんて書いてあるんですか?」
「この人間はベルドラド・アウグスタのものである。可愛いお嫁さんである。この人間に許可なく触れることを禁じる。手を出した者は念入りな拷問の上で死刑に処す。拷問の手順は以下である。まずは新鮮な毒液を用意しま」
「人のおでこに氏名と惚気と拷問の詳細を書くのやめてくれませんかね!?」
「ちなみにこれ、一度刻むと永遠に消えないから」
「私のおでこに深い恨みがあるとしか思えない」
「ひどい誤解だな。リシェルの可愛いおでこには愛しかない」
神々しいおでこにされてしまった衝撃でよろめいた私を、すかさずベルドラドは支え、「前髪を下ろせば光は止むから」と呑気に言った。確かに前髪を下ろすとすぐに光は消えたがそういう問題ではない。
「すぐに元のおでこに戻し……」
「魔法文字はここにいる魔族なら皆読めるから、たいていの奴はこれで退く。威嚇寄りの魔力を込めてるから、言葉を解さない魔獣の類にも効く。リシェルの自衛にかなり有効な措置なんだが」
「ぐっ」
自衛のためだと言われると、元に戻せとは言い難かった。
「とはいえ、リシェルに悪い虫が付かないとも限らないし、ひとりで部屋から出ないでもらえると嬉しい」
リシェルがそこかしこで発光したいなら別だけど、と揶揄うように付け加えられた。
腹が立ったので左手で前髪を上げ、至近距離で光の目潰しを食らわせたら、ベルドラドは「つまがまぶしい」と呻き声(?)を上げて目を押さえたので胸が空いた。
「さっそく使いこなすとは、さすがリシェルだ……用途は間違っているが」
しかし内容はともかく、二重三重に安全策を用意してくれているあたり、ベルドラドは人間に対して過保護なほどに配慮をしてくれているのだなと思う。
だから、もう不安がるのはやめた。彼が契約に沿って安全と快適を守ってくれる以上、私も私の務め(部屋でゴロゴロする)を果さなければ。
「ベルドラドが戻ってくるまで、大人しく部屋で待ってますね」
前髪を下ろしつつ言うと、ベルドラドは嬉しそうに頬を緩め、また私の頭を撫でた。
「いってらっしゃいのキスは?」
「しません」
また尻尾と翼で捕まえられては堪ったものではないので、慌ててベルドラドの背中をぐいぐいと押して扉に追いやった。ベルドラドは「リシェルは恥ずかしがり屋さんだなあ」と、楽しそうに追いやられていった。