◇8.甲は乙とのキスを拒んではならない
全ての食器が空になった頃、ベルドラドはにこにこしながら「満腹になったか?」と聞いてきた。
「はい」
「そうかそうか。じゃあ」
「初夜の続きはしませんよ」
絶対に言いそうだったので先に釘を刺しておくと、案の定「えー」が返ってきた。
「せっかく昨夜はベッドに撒くための花を摘んで帰ったのに。あの花畑一帯」
「一夜にして環境破壊」
「花があっても駄目?」
「駄目です」
「じゃあキスは?」
「キ……っ」
さらっと口にされた問いかけに、思わず声を詰まらせた。
朝から元気に初夜初夜と言われるものだから、もはやその単語に対しては恥じらいの精神は消え失せていたのだけれど、キスという単語は初出だったので思いのほか動揺してしまったのだ。初夜を押され過ぎて麻痺していた感覚が通常に戻ったとも言う。
「……スも、駄目です」
そんな私の反応にベルドラドは目を丸くして、それから、どこか嗜虐的な笑みを浮かべた。遊び甲斐のある玩具を見つけたとでも言いたげな。
途端、彼が今まで見せていた天真爛漫というかある意味の子どもっぽさが消え失せ、とても誘惑的な妖しい雰囲気に変わる。
その変化にさらに動揺する私と対照に、ベルドラドは随分と大人びた、落ち着いた声で言った。
「リシェルが赤くなって恥ずかしがるところ初めて見たよ」
「べ、別に恥ずかしがってなど」
「ふーん。そう。抱き上げても口説いても押し倒しても元気だったのに、キスは恥ずかしいんだ。へー」
そう言われると、すでに各種方法で接触されている身だが、いちおう弁明しておくと、昨夜抱き上げられたのは運搬のためだったし(あまりに自然にお姫様抱っこをされたので気にならなかった)、口説かれたと言っても内容が内容だったし(ミルクを入れ過ぎた紅茶etc.)、押し倒された時も散歩に行きたがる大型犬に紐を銜えて突進されたようなものだったし(最終的には契約書と虫眼鏡の押し付け合いをしていた)、恥じらう要素がなかったのだ。
などと己を振り返っているうちに、いつのまにかベルドラドが席を立ち、私の傍にやってきていた。
急な接近に思わず立ち上がったら、お腹のあたりに尻尾をきゅっと巻き付けられて、逃げられないようにされてしまった。
この尻尾は細い割に、地味に力が強かったりする。ぱたぱたと揺れている時には子犬を彷彿とさせるのに、身体にしなやかに絡みつく今は蛇のようだ。
「おはようのキスをしよう」
ひどく蠱惑的な声に、心臓が跳ねた。
「お、お断りします」
「それは駄目だ。『甲は乙とのおはようのキスを拒んではならない』と、契約書の百十五ページにも書いてある」
「おやすみのキスも記載されていそうな予感」
「ご明察。何なら意味もなくキスをしてもいいことになっている」
「もはや無法地帯」
「どこにキスをしてもいい?」
「どこにキスをするつもりなんですか」
「許されるなら全部」
とろりと蜂蜜のように甘く微笑まれ、頭がくらくらする。こいつは本当にドヤ顔で恋愛小説を懐から出していた奴と同一人物なのだろうか。
「で、どこを許してくれる?」
いつのまにか、彼の大きな翼に囲い込まれていた。即席の密室は薄暗く、明るい朝の気配が遠ざけられる。こちらを見下ろすベルドラドの瞳には、きっと真っ赤になった私が映っているのだろう。
極度の緊張に黙っていたら、私の前髪を撫でながら「沈黙は全面的な許可と受け取るけど」と耳元で囁かれて、さらに追い詰められた。
このままでは非常によろしくない事態になりそうだと慌てた私は、そもそもキスをしないという選択肢をさらりと奪われていることに気が付かず、「おおおおおでこでお願いします」と必死で答えた。
「分かった。目立つから丁度いいな」
額に触れられていたから反射で答えただけの場所だったけれど、ベルドラドは満足そうだ。目立つから丁度いいとは何のことだろう……と疑問を抱きかけるも、優しい手付きで前髪を掻き上げられ、思考をする余裕はなくなってしまった。
露わになった額に、そっと唇が触れる。
緊張しすぎて感触はよく分からなかった。
「二度目だけど。おはよう、リシェル」
唇が離れても、私は棒立ちのままだった。おはようのキスでここまで緊張するのもおかしな話だけれど、ベルドラドの雰囲気がよくないのだと思う。
「……」
「返事がないのでもう一度キスをしようと思う」
「はいおはようございます!」
いいお返事を食い気味に発したら、ベルドラドは「元気だなあ」と楽しそうに笑い、私に巻き付けていた尻尾をしゅるりと放して、翼の密室も解除した。
一気に明るくなる視界と同調するように、彼が纏っていた魔性の雰囲気が一変、無邪気で明るいものに戻った。
まるで別人のような変わりように呆然とする私に構わず、ベルドラドは得意げに胸を張った。
「どうだ、リシェル! 溺愛夫婦感が出ていたと思うんだが」
褒めて褒めてと言わんばかりに尻尾を振ってこちらの講評を待つベルドラド。
先程までとは違う意味で、くらりときた。
あの「はい誘惑なら手慣れております」みたいな百戦錬磨の女たらし感はどこ行った。
子犬どこから戻ってきた。
「なあリシェル。なぜ遠い目をしているんだリシェル」
「……ベルドラド、あなた、どっちが素ですか……?」
「す? 酢がどうした? 飲むのか? 樽一杯で足りるか?」
「いえ酢は結構です……」
天然なのか、天性なのか、恋愛小説で学んでしまった成果なのか、いずれにせよ今後もこの調子で翻弄されるだろうことに疑いはなく。
妻役も悪くないかもしれないと思ったが、前言撤回。
この偽装結婚生活は、大変悪い、心臓に。