◇6.たった百年の結婚生活
「はい紅茶のおかわり」
「ありがとうございます」
二人掛けのテーブルに用意されていた朝食は、メイドの身ではなかなかお目に掛かれない豪勢な内容だった。向かいに座るベルドラドは、にこにこと上機嫌な様子で頬杖をついてこちらを見ている。
あの騒がしいやり取りの後、そのままベッドに押し倒されたり、尻尾を引っ張って応戦したり、子犬の眼差しを向けられて怯んだり、角を掴んで応戦したりと、爽やかな朝から無益な争いを繰り広げていたのだが、ぎゅいおおおお……と、猛獣の唸り声のような音が響いたことで私の空腹具合が露見、ベルドラドが「じゃあ初夜の続きをしようか」と言った時と同じ気軽さで「じゃあ朝食にしようか」と言い、私はその提案を食い気味に受諾、さっそく寝室と扉で繋がった隣室に案内され、朝食が始まり、今に至る。
ベルドラドは私が食事を進める間も、長い尻尾を使って器用に紅茶を注いでくれたり、ジャムの小瓶を取ってくれたりと、まことに甲斐甲斐しい世話焼きっぷりだ。
「いやあ、危うくリシェルを餓死させるところだった。人間はちょっと物を食べないだけで死ぬんだから油断ならない。食事の量はこれで充分か? 不足はないか? 味付けに問題はないか?」
「はい。この量で充分です。お味も最高です」
素直に感想を返すと、ベルドラドは嬉しそうに目を細めた。
なお、人間は一度朝食を抜いた程度では餓死しないのだけれど、彼はそう思ったからこそ初夜から朝食にあっさりと切り替えたのだろうから、敢えて訂正はしないでおいた。今後も無理難題が発生した時には、お腹が空いたと言って切り抜けようと思う。
いやしかし、彼の用意した朝食は美味しい。
昨夜はなんだかんだで夕食を摂れなかったから、余計に美味しい。
生ハムメロンまである。人生で初めて口にしてその味に驚愕した。正直に言うとハムとメロンは個々の存在として尊重した方が美味しいんじゃないのかなと思っていたのだけれど、その認識を覆された。
「肉のしょっぱみと果実の甘みが奇跡の結実……」
「食事を気に入ってくれたのならよかった。居住環境の方はどうだ? さっきの部屋がリシェル用の寝室で、ここが私室だ。広さや家具に不足はないか?」
「この組み合わせを考えた人は稀代の天才……えっ、あ、はい、えーっと」
先人の偉業を称えつつ味わっていた生ハムメロンを慌てて飲み込み、あたりを見回す。
先程の寝室同様、こちらの部屋も大きな窓のおかげで明るく、上等そうな調度品が揃えられていて落ち着いた雰囲気である。
「魔王城」というものは、もっとおどろおどろしい場所を想像していたのだけれど、今のところは人間の感性から逸脱しない、大変快適な住まいという印象だ。
また、床には足音が消えるほど毛足の長いふかふかの絨毯が敷かれていた。昨夜言っていた「転んで死なないように」という配慮だろう。
こじんまりした住み込み部屋で寝起きしていた身としては、寝室(広い)と私室(広い)の二つを与えられても使いこなせるか怪しいのだけれど、餓死への心配と言い、絨毯の充実具合と言い、ベルドラドは人間という生き物の脆弱性にかなり気を遣っている様子なので、狭い部屋では死ぬと思われているのかもしれない。
「はい。不足どころか、私には広過ぎるくらいです」
私の回答に、ベルドラドは「そうかそうか」と満足そうに頷いた。
「今後気に入らないことが出てきたら遠慮なく言ってくれ。すぐに改善する。食事は毎食ここに運ばせるし、浴室と手洗いは寝室の隣にあるし、基本的な生活はここで足りると思う。衣食住に必要なもの以外も、欲しいものがあれば可能な限り手配する」
「なんだか至れり尽くせりですね……」
百年換算だとあの給金もそこまでよくないじゃないか、なんてケチをつけた自分が恥ずかしい。生涯この好待遇の生活が保障されているのだから、正直お金はいらないくらいである(いやまあ契約の満期完了時には報酬を受け取るまでもなく天に召されているだろうけれど)。
「快適な生活をさせると約束したからな。リシェルはずっと部屋から出なくていいし、何もしなくていい。ここでずっとゴロゴロしていてくれ」
快適な部屋でゴロゴロしているだけで、こんなに美味しいご飯が運ばれてくる……。
ゴロゴロするだけだとは聞いていたし、その条件を提示された時には天国みたいな生活だなあとしか思わなかったけれど、実際にその生活が始まるのだと思うと、なんかこう、冷静になった今は手放しで喜べなかった。
ベルドラドは私個人への特別な好意などないだろうに、こうして手厚く遇してくれている。これはひとえに、妻役を引き受けた人間に対する彼なりの誠意によるものなのだ。恋愛小説で人間の生態を勉強して、私を惚れさせようと頑張っているのも、その一環だろう(頑張りの内容はともあれ)。
その誠意に甘んじて怠惰な生活を楽しめるかと言えば、遠慮が先に出てくる。
これは偽装結婚、お互いの利益ための契約。なのに、これでは私に利がありすぎではないだろうか。
「……本当に私は何もしなくていいんですか?」
「いやもちろん俺といちゃいちゃして欲しい」
「今日一番の凛々しい顔で言う内容」
「でもまあ、それは二の次だ」
ベルドラドは真っすぐにこちらを見た。それは一見すると、彼がよく見せる楽しげな笑みと変わらなかったけれど、眼差しはどこか静かで、私には計り知れない深い感情が宿っているように見えた。
「俺の一番の望みは、リシェルがずっとここにいて、ずっと俺の妻であることだから。それさえ守ってくれるのなら、他は何もしなくていい」
そんな眼差しだったから、この言葉はお遊びのような口説き文句ではなく、ベルドラドの本心であることが分かった。
昨夜、彼は「訳あって数日以内に結婚しなければならない」と言っていた。その事情は詳しく聞いていないけれど、衣食住が並み以上に整った環境を用意する手間も惜しまないくらいに、「結婚状態であること」は、彼にとって重要なのだろう。
だから、私が昨日たまたま鉢合わせただけの初対面の人間であっても、ずっと妻役であることを真剣に望んでいる。
そこまでして結婚の事実を作らないといけない理由が気になるが、本物の妻でもない立場で彼の内情に首を突っ込んでもいいものか。
さすがに何もしないのは心苦しいとか、事情を聞いてもいいのかとか、種々の悩みに唸っていると、彼は私の悩む姿を別の意味で捉えたらしく、「そんなに心配しなくていい」と苦笑した。
「ずっとと言っても永遠じゃない。魔族の契約書は絶対の誓いだ。期間は順守する。百年で、お前を自由にしてやる」
その一瞬、ベルドラドの表情が、なぜか私を憐れむように翳った。同情されるような流れではなかったから違和感を抱いたけれど、彼はすぐにポンと手を合わせて「だから気楽に考えてくれ」と明るく続けたので、そんな風に見えたのはたぶん思い違いだろう。
「たった百年の結婚生活だ。楽しくやろう、リシェル。そして俺に惚れるといい」
「そのたった百年が人間にとっては生涯なんですけどね……」
思わず遠くを見つめてそう返したところで、彼が発した「楽しくやろう、リシェル」という言葉に、昨日抱いたまま放置していた疑問を思い出した。
というわけで、本日より連載をはじめました「初夜のベッドに(略)」、
開始なので張り切って、一気に6話分お届けしました。
11月中は毎日1話ずつ更新する予定です。
メイドさんと魔族による恋の攻防戦、せひお楽しみくださいませ!
あと、作者によるうっかりネタバレ防止のため、完結まで感想返信を行わない方針です。
でもいただいた感想は、ばっちりしっかり五度見の勢いで読ませていただきます!
(すでに爆速で感想くださった読者さま方、ありがとうございます……!)




