◇58.天候を支配する系の夫
ゴロゴロゴロ……と不穏な音が響き、晴れていたはずの空に暗雲が立ち込め始めた。爽やかだった青空が、あっという間に雷鳴の轟く空模様に変わる。
おそらくベルドラドが雷雲を呼んでいるのだ。そんなことができるとは知らなかったけれど、そうとしか思えないタイミングだし、何なら彼の尻尾は雷を伴ってバチバチ鳴っている。表情はいっそ冷静に見える程に冷えているが、これは相当にお怒りのようだ。
「リシェルが浮気してる……」
「あ、あのねベルドラド」
「リシェルは巨乳好きだったんだ……」
「とんだ風評被害」
綺麗なお姉さんの豊かな胸の下敷きになって照れ照れと「大好き」なんて叫んでいた現場を見られたせいで、誤解と風評被害が著しい。あとベルドラドの据わった眼とめちゃくちゃ低い声が非常に怖い。
「浮気相手はリシェルの眼前で血祭り一択……」
ベルドラドは危険思想を呟くと、ようやく視線を私から移動させ、憎き浮気相手を見定めて。
「あら、ベルちゃん?」
「えっ、ビオ姉?」
華やいだ声を上げたビオレチアさんに、臨戦態勢だったベルドラドがきょとん顔になった。
たちまち鳴り響いていたゴロゴロ音がぴたりと止み、雷雲に支配されていた空が快晴に戻る。
「久しぶりね、ベルちゃん! まあまあまあ、少し背と髪と爪と角が伸びたんじゃないかしら!」
ビオレチアさんは喜色満面、靴も履かずにぺたぺたとベルドラドに駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。「おかえりビオ姉」と応じるベルドラドの方も親しみの籠った笑顔だ。にこやかに手を取り合い、ぱたぱたと尻尾を振り合い、わいわいと再会を喜ぶ姉弟。平和である。
「わたくし、さっき帰ってきたところなの。足湯に入ってからお父様のところに行こうとしたら、偶然リシェルちゃんに遭遇してねえ。ベルちゃんより先に噂の花嫁さんに会えるなんて思わなかったから興奮しちゃったわ」
「そうかそうか、リシェルの可愛さには俺も日々興奮しているから無理もない話だ。ん、いや、ちょっと待て。ビオ姉、さっきリシェルを押し倒してなかったか?」
「あらあらあら、さっきの体勢は事故なの。わたくしが転んだだけよ。ベルちゃんがお嫁さんから本当は微妙だって思われてたらどうしようかと気を回してベルちゃんへの好感度を聞き出そうとしていたとかそんなのじゃないから安心してね。転んだだけよ」
「そうか、転んだだけか。ビオ姉はそそっかしいからな。ん、でも、リシェルは『大好き』とか何とか叫んでなかったか?」
「あらあらあら、それは聞き間違えよ。リシェルちゃんは『大好きですから』じゃなくて『大丈夫ですか』と言ったのよ。私に詰め寄られて愛する旦那様への思いの丈を叫んだわけじゃないのよ。転んだ私を抱き留めて心配してくれただけよ。聞き間違えよ」
「なんだそうだったのか。リシェルの優しさが眩しいな」
「ええほんと、眩しい相思相愛にお姉ちゃん感激したわ」
天候を変える程にベルドラドを動揺させた浮気疑惑を、ビオレチアさんは滑らかに一掃してみせた。さすがお姉さん、弟の宥め方を熟知している。あとさりげなく姉心の暴走もなかったことにしている。そして微妙に噛み合っていそうで巧妙に噛み合っていないけれど絶妙に意思疎通はできているという珍妙な会話が成立している。
「さっきまでねえ、リシェルちゃんと仲良く一緒に足湯に入っていたの」
「なっ」
ベルドラドは驚愕の表情になり、足湯コーナーにいる私を見た。もたもたと靴下を履いていた私が頷きを返すと、彼はすぐさま不機嫌な顔でビオレチアさんを睨みつける。
「俺だってリシェルと足湯に入ったことないのに! 風呂はあるけど!」
「あらあら、リシェルちゃんの初めての足湯デートの相手は私なのね!」
「あのベルドラドあんまり恥ずかしいことを叫ばないでいただけますか」
凪いだと思った荒天が再び舞い戻る気配。ビオレチアさんは経験による弟宥め上手なのか、天然による弟煽り上手なのか、判定が難しいところである。そしてベルドラドには速やかに口を閉じて欲しい。ついでに私の初めての足湯仲間は管理人さんである。
「リシェル、今すぐ俺と足湯に入ろう! リシェルの最初の足湯デート相手の称号は俺じゃないと嫌だ、一日の範囲なら誤差だからまだ取り戻せるはずだ、ほら早く!」
「えー、でも私、もう全身ほっかほかで……え、ちょ、靴下を脱がせようとしないでください、せっかく履いたのに、こら遠くへ投げるな!」
「あらあらベルちゃん、無理矢理は駄目よ。足湯の血行促進作用を舐めてはいけないわ、全身浴と遜色のない温もり効果があると魔界の研究機関が」
お姉さんの次はベルドラドに押し倒されて靴下をぽいぽいと投げられ、「人間はのぼせると死ぬんですよ!」と脆弱性を盾に脅す私、「甲は乙からのデートの誘いを断ってはならないと契約書の百二十八ページ目に書いてある!」と権利を主張するベルドラド、「あらあらベルちゃん、ずいぶんと分厚い契約書を作ったのねえ器用さん!」と明後日の方向の称賛を始めるビオレチアさん、誰ひとり足湯に浸かっていない足湯コーナー。
そんな混沌に組み込まれてしまった私の心中をお察しいただけるだろうか。
魔王城の最上階で騒がしい魔族の姉弟に挟まれながら、思わず遠い目になった。




