◇44.偽装結婚の終わり
お昼も食べずに夕方まで魔王城を駆け回った私は、お腹を鳴らしながら部屋に戻った。テーブルに置かれた籠が目に入る。ベルドラドお手製の愛妻弁当だ。姿を眩ましつつも、いつも通りに昼食を用意してくれていたらしい。
もはや夕食と言うべき時間まで放置してしまったけれど、ありがたくいただいた。朝食と同様にやっぱり美味しくて、勇気が出る。
それから、走り回った汗と疲れを流すべく、お風呂に入った。ベルドラドを迎え撃つ作戦を考えながら湯船に浸かり、決意を固める。
さっぱりしたところで、気合を入れて寝間着を手に取った。五着あるうち、唯一まだ袖を通したことのない、純白の一着だ。
その白い寝間着は過分なほどに贅を凝らした作りの、もはや婚礼衣装にすら見える代物なので、勿体なくてずっと着なかった。けれど、今夜ついに出番である。
身支度の仕上げとして、中庭で摘んできた白い薔薇を一輪、髪に挿した。吸血薔薇も摘んでしまえばただの綺麗な花だ。落ちないように細いリボンで結んで、完成。
慣れないお洒落に気合を入れ過ぎただろうかと鏡の前で恥ずかしくなったが、勝負寝間着なのだ、普段よりも着飾るくらいで丁度いい。
大きな窓を開け放った。手には金色の鈴。朝からすっかり存在を忘れていたが、鳴らせばベルドラドがどこにいても聞こえるのだという。
そして彼は、どんなに私を避けていても、呼べば必ず来る。
それが契約に基づく呼び出しなら、絶対に。
「ベルドラド! 来てください! 私の快適な生活のための用事ですよ!」
窓から身を乗り出し、星空に向かって鈴を鳴らしまくる。
「ベルドラド! 契約したでしょ! 私の! 快適な!」
「……そんなに鳴らさなくてもいい。聞こえてる」
背後で扉が開く音がした。窓で待ち構えていたのに、今日に限って大人しく扉から来るとは。
「どうした?」
ギョウザを大量生産しゴーレムを蹴り壊し全裸で滝に打たれて過ごした彼は、そんな風に心を乱したとは思えないくらい、表面上は落ち着いて見えた。ただし表情は硬く、声は暗く沈み、視線は床に落としたままで、決して私を見ようとはしない。
「あなたは私に対し、望む限りの娯楽を提供してくれる、という契約でしたよね」
「……ああ」
「じゃあ、寝る前の子守歌を歌ってください」
私の唐突な要求に、ベルドラドは面食らったようで、視線が上がった。私の勝負寝間着姿にやっと気が付いたのだろう、真顔で五秒くらい凝視された。寝る前にお洒落して妙な奴だと呆れられたに違いないが、気にするものか。この服を贈ったのは彼だ。
ベルドラドは何も言わず、また顔を伏せた。それでも彼が契約に沿った要求を断るはずもなく、ややあって頷きが返ってきた。
「何を歌えばいい?」
「そうですね。では、『石鹸水を称える歌』でお願いします」
「分かった」
「ちゃんと一番から三番まで覚えてますか?」
「当然だ」
「そうですか。ちなみにこの歌は作詞作曲・私なので、知っているのは私と、おじいちゃんと、ベルだけのはずですが」
「……!」
彼は弾かれたように顔を上げた。
今度はしっかりと目が合って――してやったりと微笑む私に、彼は徐々に悔しそうな顔になっていき――感情が消えてしまった金色の瞳に、再び光が灯った。
「なんっ、この……謀ったな、リシェル!」
「あ。やっぱりあなた、ベルなんですね」
「うぐっ」
ベルドラドはせめてもの抵抗で私を睨みつけたが、全く怖くなかった。久々にリシェルと呼ばれた気がする。それだけで、全部が温かく変わる。
「先に私を騙したのはあなたじゃないですか。どうして、ベルじゃないなんて嘘を?」
「そんなの、言いたくないからに決まってるだろうが! 散々泣き喚く姿を見られてるのに、あんな情けない姿が、俺だなんて言えるか!」
「まあ確かに、ベルのギャン泣きっぷりは凄まじかったですけれど……」
「うぐっ」
「私はベルドラドがベルだと分かった時、嬉しかったですよ」
「……」
「いつか一緒に空を飛んでくれるって約束、覚えててくれたんですね」
「……」
「人間と結婚して、愛しまくって、惚れさせる計画。相手は最初から、結婚式当日の花嫁じゃなくて、私だったんですね」
「……」
ベルドラドはまだ私を睨んだまま、でも、泣きそうな顔で、静かに耳を傾けている。
「昨日はひどいことを言って、ごめんなさい。愛さないでくれなんて。失恋の衝撃で、どうかしていたんです」
「……失恋?」
ベルドラドが、ぽかんとして聞き返す。本当に表情が素直で、愛おしい。
「はい。ベルドラドには、私の他に好きな人がいるんだと勘違いして、勝手に失恋して、八つ当たりしました。そうなんです。私はあなたに失恋したら、どうかしてしまうくらいに、あなたのことが好きみたいです」
ベルドラドは目を見開いたまま固まった。
窓から夜風が入ってきて、カーテンが大きくはためいた。
「契約に応じた時点で私の負けだって、言いましたね。その通りでした。もう完全に、してやられました」
彼に向かって両手を広げた。
宣言するときは、高らかに。
「私はベルドラドに、すっかり惚れてしまいましたよ――あなたの計画通りに!」
強い風を感じて、目を瞑った一瞬で。
星空の中にいた。
ベルドラドが私を抱えて、窓から瞬く間に舞い上がったのだ。
「あはははは! リシェルが惚れてくれた!」
満天の星が煌めく夜空を、ベルドラドは私を抱き締めたまま、くるくると踊りさながらに飛んだ。
星の光を蹴散らす満月のように、金色の瞳を輝かせて。
夜の静寂なんてお構いなしに、声を上げて笑いながら。
余りに楽しそうな様子に、こちらも釣られて笑った。夜空を舞台にふたりきり、賑やかに笑いながら踊り続ける。
やがてベルドラドは空中で止まり、腕の中の私を見下ろして、幸せそうに微笑んだ。
「リシェル。俺の方がずっと惚れてるよ」
蜂蜜のように甘い声と眼差しは、とても心臓に悪かった。惚れた宣言をしたところで、彼の攻撃に強くなるわけではないのだ。むしろ自覚した分、防御力は下がっている。
「……そ、そうですか。あ、あり、ありがとうございます」
「うん。愛してる。大好き。結婚してくれ。もうしてた。大好き」
「ひぇっ」
歴代の口説き文句の中で一番短いのに、一番威力が高いのはどういうことだろう。顔が近づいてきたので、キスをするのだと思って、緊張しながら目を閉じる。
ふいに全身が浮遊感に襲われた。
思わず目を開けると、大変いい笑顔のベルドラドが、私を放り投げた体勢で、向こうの方にいた。
「え、ちょ、嘘、きゃああああああ!」
重力に従い落下を始めた私を、空中でベルドラドが搔っ攫うように抱き留めて、また声を上げて笑った。
「どうだ? 楽しかったか?」
「何するんですか! 何するんですか!」
「いや、リシェルも自力で飛んでる感を味わいたいかなって」
「落ちてる感しか味わえないので結構です!」
再び収まった彼の腕の中、無駄に恐怖体験をさせられた報復に角を掴む。ベルドラドは「ごめんごめん」と笑いながら謝って、それからゆっくりと降下を始めた。
「そろそろ戻ろう。またリシェルが楽し過ぎて発熱してしまう」
「安全飛行でお願いしますね。絶対ですからね」
「あはは、分かってる。……なあ、リシェル。その……」
とても言いにくそうに切り出したベルドラドは、一拍置いて、真剣な声で続けた。
「部屋に戻ったら、ちゃんと謝らせてくれ。色々と」
「はい」
「……たった百年で解放する気がなかった件とか」
「はい。末永くよろしくお願いいたします」
「……」
ベルドラドは私に頬を擦り寄せて、「ありがとう」と呟いた。
次話、エピローグです。
明日に投稿します。
また、作者によるうっかりネタバレ防止のため、ここまで感想返信を封印しておりましたが、次話のエピローグ投稿後は、感想返信を開始します。
(なので作者から返事が来ても驚かないでくださいね……!)