◇39.契約 表
私は随分と寝室に籠っていたようで、外はもう日が暮れかかっていた。居間にベルドラドの姿はない。私がひとりにしてと言ったからだろう。
ひとまず顔を洗った。鏡の前で深呼吸をする。
大丈夫。大丈夫。ベルドラドはもう無理をしなくていいのだと、伝えるだけだ。
対等な契約相手と話し合いをするのに、寝間着のままでは失礼だろうかと思ったけれど、着替えの時間が惜しかった。決意が固まっているうちに、話してしまいたい。
居間に行き、いつもベルドラドが出入りする大きな窓を開けた。彼が枕元に置いていった金色の鈴を、ひとまず二度振ってみる。
澄んだ音が鳴って、しかしこの音量で聞こえるのだろうかと半信半疑だったけれど、ものの数秒で翼の音がして、ベルドラドが窓枠に降り立った。
「リシェル! よかった。元気になったのか」
「はい。寝たら治りました」
微笑んで応じたら、ベルドラドは尻尾をぱたぱたと揺らしながら抱きついてきた。私が元気になったことを、素直に喜んでくれているんだろうな、と思う。そういうところが好きで、好きなのに、今は悲しい。
いつもなら出迎えの時には抱き返す私が、いつまでも棒立ちのままだから、ベルドラドは不思議に思ったらしい。彼の腕が離れたので、そっと胸を押し返して、距離を取った。
「どうした?」
「ベルドラド。あなたは、私を幸せにしたいんですよね」
「? ああ」
私の唐突な問いに、ベルドラドはやっぱり不思議そうにしつつも、すぐに柔らかく笑って頷いた。
「そうだ。リシェルを幸せにしたい」
「だから私を愛してくれる」
「ああ」
「だったら、もう、大丈夫です。私を愛さなくても」
ベルドラドから表情が消えた。
金色の双眸が、一瞬大きく見開かれ、すっと細められる。彼の雰囲気が別人のように変わった――温かなものから、冷酷なものへ。
「……どういうことだ」
「私たちの契約の話をしたいんです」
「契約の破棄は許さない」
刺すような威圧を帯びた声だった。静かな表情に反し、激昂していることがはっきりと分かる。
私が契約の破棄を求めていると思ったのなら、それは怒りもするだろう。ひりひりとした空気に飲まれないよう、精一杯、背筋を伸ばした。
「はい。契約を破棄するつもりはありません」
大丈夫。ベルドラドに不利な話ではないのだから、落ち着いて話をすれば、きっと納得するはずだ。
「これまで通り、私はあなたの妻役を続けます。あなたの一番の望みは、私がずっとあなたのそばにいて、ずっとあなたの妻でいること。ですよね?」
ベルドラドは何も言わない。肯定と受け取って、話を続ける。
「それはちゃんと守ります。ただ、あなたはもう、無理に私を愛さなくても大丈夫ですよという話で……」
「ふざけるな」
ベルドラドは腕を伸ばし、私の首を掴んだ。花を撒いたベッドの前で、初めて会った時と同じように。
あの時と違うのは、掴む力の容赦の無さと、ほとんど憎悪に思えるほどの激しい怒りが、その目に宿っていることだった。
「っ、けほっ」
咳込んだ私を見て、ベルドラドは自分が苦痛を感じたかのように顔を歪めて、すぐに手の力を緩めた。それでも手を離すことはなく、再び冷たい表情に戻る。
「契約は続けるのに、愛さなくていいだと?」
返答によっては首を折るとでも言いたげな、低い声。
震えそうになる身体に必死に力を入れて、目を見つめ返し続ける。身を竦ませるとか視線を逸らすとか、そういう怯えた様子を少しでも見せてしまったら、彼をとても傷つけそうだった。
「この契約は俺が始めたんだ。俺の都合でリシェルを妻にしたんだ。だから、幸せにする責任がある。たくさん愛せば、いつかリシェルは俺を好きになって、本物の夫婦みたいになって、そうすれば、リシェルは幸せに――」
「責任で私を、愛さないでください」
落ち着いて話そうと努めていたのに、声が震えてしまった。彼の口から出た「責任」という言葉が、けっこう堪えたらしい。
大丈夫。いまさらだ。私はたまたま、そこにいたから選ばれただけで、好きだから選ばれたわけじゃないことくらい、最初から分かっていたのだから。
「大丈夫です。あなたに責任なんてありません。あなたは欲しかった妻役が手に入って、私は快適な生活が手に入る。これだけで充分に、対等な契約ですから」
呆然と私を見るベルドラドに、微笑んで見せる。これは何の問題もないことなのだと、伝わるように。
「だから、私はあなたに愛されなくても、大丈夫です」