◇38.休暇届け
中庭の作業を終えて、事務室へ業務報告に行ったら、テイジーさんが凛とした表情を曇らせた。
「リシェル様。もしや虫は苦手だったでしょうか?」
「えっ。虫は平気ですが……森が遊び場だったもので……」
「今にも死にそうな顔をしていらっしゃるので、薔薇の害虫駆除で精神に打撃を受けてしまったのかと。……魔虫が人間の方にとっては絶妙に無理な大きさかもしれない、ということを失念しておりました」
テイジーさんは黒縁眼鏡の向こうで、ものすごく申し訳なさそうな目をしていた。慌てて首を横に振り、「大丈夫です。虫は関係ないですよ」と言い募った。
「ちょっと疲れただけで……あっ、いえ、今回の作業が過酷だったとか、そういうのではなくて」
「……。リシェル様。お疲れが溜まっているのではないでしょうか。リシェル様が魔界に来られて一ヶ月以上。新環境に慣れた頃に、体調は崩れるものです。しばらく業務はお休みにしますか?」
「いえ、そんな……疲れが溜まるようなことは、全然。仕事は楽しいですし、ここでの暮らしだって、いつもベルドラドがよくして……」
ベルドラドのことを考えたら、また涙がぽたぽたと落ちてきた。
テイジーさんはぎょっとして、高速で事務室の棚を漁り、「魔王城へようこそ」のロゴが入った新品のタオルを私に差し出し、さらに申請書を取り出した。
「休暇届を申請しておきます。ひとまず二日分。食事はお菓子だけでもいいですしお風呂もどうでもいいですから、どうか楽な方を極めてお休みください。あ、そのタオルは在庫なので差し上げます」
私が泣くほど疲れているのだと勘違いしたテイジーさんにより、有無を言わさず怒涛の勢いで休暇届けが出された。呆気に取られたけれど、これでよかった気もする。実際、明日も元気に起きられるか怪しかったから。
「ありがとうございます、テイジーさん。ふて寝してきます……」
「はい、リシェル様。存分に」
再び凛とした表情に戻ったテイジーさんに見送られ、事務室を出た。もらったタオルで涙を押さえながら、ぼんやりと歩く。
いつもなら退勤後は、ミア様が出没しそうな場所や、管理人さんと世間話ができる足湯コーナーに寄り道をするのだけれど、今日は真っすぐに自室へ戻った。
魔王城における普段着であるメイド服を脱ぎ、五種類ある寝間着の一着を選んで身に着ける。なぜ寝間着がこんなに豊富かというと、「リシェルに服をねだられる気満々で待っていたのに、全然来ないから情熱を寝間着にぶつけてみた。寝間着なら毎日着てくれるから」と、ベルドラドが用意したからである。
ほら駄目だ。着替えるだけですら、ベルドラドのことが浮かんで、息が詰まってしまう。重症で、末期で、手遅れだ。テイジーさんが休みを提案してくれて本当によかった。
テーブルに用意されている愛妻弁当に手を付けず、出迎えのために待つこともせず、日の高いうちからベッドに上がり、毛布にくるまって丸くなる。
ベルドラドには、本当に愛したかった人がいた。
彼の心は、私に向いていなかった。
それはそうだ。あれは錯覚だと分かっていた。最初から妻の『役』だと知って契約した。それなのに、そんなことをいまさら悲しんで、馬鹿みたいだ。
カーテンを閉め切った薄暗い寝室で、眠るでもなく無為に過ごしていたら、ノックもせずに慌ただしく扉が開かれる音がした。
「リシェル?」
ベルドラドの声は戸惑っていた。いつも籠の中身を完食して、居間で悠々と過ごしている私が、お弁当を放置して昼間から寝室に籠っているのだ。困惑もするだろう。
顔を見ても会話をしても泣きそうだったので、寝たふりをしようと思ったけれど、再び「リシェル?」と呼び掛ける声が本当に心配そうで、無視は難しかった。
「はい。生きてます。ちょっと頭が痛いので寝てるだけです」
毛布にくるまり背を向けたまま返事をしたら、少し不安の和らいだ声で「そうか」と返ってきた。ベッドが少し沈む気配。私のすぐそばに、ベルドラドが座り込んだようだ。
頑なに蓑虫状態を維持していたら、毛布越しにそっと頭を撫でられた。心から労っていると分かる優しさで。今はベルドラドから大切にされる方が辛いのに。
「本当に頭が痛いだけか? 死んだりしないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか。まだ昼を食べていないようだが、ここに持ってこようか?」
「いいえ。今日は食欲がなくて。作ってもらったのに、すみません」
「それは構わない。痛み止めの薬を持ってこようか? それとも医者を呼ぶか?」
「いいえ。本当に、寝てるだけで治りますから。ひとりにしてください」
私の声には、だいぶ突き放すような響きがあったと思う。ベルドラドはまだ何か言いたそうだったが、大人しくベッドから離れた。
「鈴を置いておく。何かあったら鳴らしてくれ。どこにいても聞こえるから」
ベルドラドは優しく言い残して、静かに寝室を出て行った。
「……」
八つ当たりみたいな態度を取ってしまった。
ベルドラドは何も悪くない。私が勝手に傷ついているだけだ。
好きだから結婚してくれなんて、彼は一度も言ってないのだから。
結婚しておかないと困るから結婚したいのだと、魔族より都合がいいから人間を選んだのだと、自分の都合で妻にした人間が可哀そうだからせめて幸せにするのだと、ベルドラドは最初から言っていた。幸せにしたいから、惚れてもらう計画なのだと。
そして私は、ベルドラドの計画通り、彼に惚れた。
それが間違いだった。何にも知らなければ、私はなかなか幸福な生涯を送っただろう。溺愛生活だと騒がれて、愛しい妻だと大事にされて、それがなんだかんだで楽しくて、何不自由ない暮らしの中で、幸せに死んだだろう。「私を幸せに」と、彼が願った通りに。
でも、惚れたら幸せじゃなくなってしまった。
愛で愛されているのではなく、責任で愛されているのが辛くなってしまった。
彼が偽装結婚の割に初夜初夜うるさいのも、そもそも偽装の形を選んだのも、絶妙に嬉しくない口説き文句を毎日考えてくるのも、彼の都合で妻にした人間に対する、彼なりの責任感から来る気遣いであって、愛ではない。それが悲しくて堪らない。
衣食住の保障と高い給金。それに釣られただけのくせに。失恋して初めて自分の恋に気付いたくせに。私は何をいまさら、そんなに苦しんで……。
「……これなら、愛されない方が楽だ……」
そうか。そうだった。私は快適な生活を手に入れ、ベルドラドは結婚の振りができる。元々、そういう話だったじゃないか。だから、そういう話に戻せばいい。それだけの話に。
彼は、妻役を愛する必要なんてなかったのだから。
残り7話で終幕です。
ラストスパートということで、
更新ペースを上げまして……
金曜日の朝 → 偶数の日の夜
に変えます!
なので明後日の夜も、さっそく更新ありです。
最後までよろしくお願いいたします!