◇36.夢と同じ、幸せな
「リシェルは俺が、すごいって思う?」
思いがけない場所で大切なものを発見したような、そんな目だ。
不思議な反応だなと思いながらも、「はい」と正直に頷いた。
「もう一回言って」
「? はい。ベルドラドはすごいです」
「褒めてる?」
「はい」
言葉だけじゃ足りないのかなと思い、ベルドラドに手を伸ばし、頭を撫でてみた。褒める行為と言えばこれである。その効果たるや劇的で、ベルドラドは嬉しそうに抱きついてきた。
「リシェルが褒めてくれた」
純粋な喜びに満ちた声。出迎えの時の抱擁と同じ、穏やかな気持ちが湧き上がる。
加えて、なぜか懐かしい感覚も。
撫でるのをやめても、ベルドラドは私の肩に頭を預けたまま、催促するように尻尾を巻き付けてきた。尻尾はいつも雄弁だ。
「もう少し褒められたい」
「ふふ、もう、仕方ないですね」
離れる気がなさそうな彼の背中に片手を回し、もう片手で再び、頭を撫でる。愛おしい、温かい気持ちに包まれながら。
「夢みたいだ」
「夢?」
「ずっと、こういう生活に憧れてたんだ。一緒に暮らして、起きたら挨拶して、外に行っても帰ってくれば、ちゃんと部屋にいてくれる。それで、俺が何かしたら、すごいって褒めてくれるんだ。夢と同じ、幸せな結婚生活」
うっとりと紡がれる夢。
ベルドラドが言った「花嫁には幸せな結婚生活を送って欲しい」には、彼自身の憧れも入っていたのだと知った。全部が「自分の都合で花嫁にした人間」に対する、同情や献身だけじゃなかったことに安心した。
よかった。ベルドラドにとっても、これが幸せなもので。
――彼が憧れた生活の相手が、本当に私でもよかったのだろうか。
――あの場にいたのが私じゃなくても、妻役に選んだのだろうか。
温かい感情に水を差すような自問が、頭をかすめた。
もちろん答えは分かり切っているので、考えるまでもない。こんな愚かなことに向き合って、今の心地好さを台無しにしたくない。
どうしようもない気持ちを追い出すために、触れる温かさに集中しようとして、ふいに思い出した。
そうだった。懐かしいわけだ。
小さい頃にも、魔族の子に――ベルに抱きつかれて、こんな風に撫でたんだっけ。
あのベルが、このベルドラドだったらと、懲りずに思う。小さい頃に会ったベルが、大きくなってからも私を覚えていて、だから花嫁に選んだのだとしたら、よかったのに。
私を好きだから、私を選んでくれたのなら。
そんな夢想をしてしまうということは、つまり、私は。
何か重大なことに気付きかけて、思わず撫でる手を止めたところで、ベルドラドが「リシェルは?」と、口を開いた。
「リシェルはこの生活は気に入っているか? ちゃんと快適に過ごせているか?」
ベルドラドはいつも、私の暮らしぶりを気に掛ける。
食事は日に三回、加えておやつ、湯浴みは毎日、充分な睡眠と適度な運動が叶う快適な生活。契約前に聞かされた通りの暮らしを、違えることなく提供されている身としては、何の文句もない。
「はい。ご飯は美味しくて、ベッドはふかふかで、最高の暮らしです」
ベルドラドは「よかった」と頷いて、ようやく腕と尻尾を離した。
「快適な暮らしは基本として、他に何か不満なことはないか? 宝石が欲しいとか、服が欲しいとか、リシェルは何も言わないが、遠慮してないか? 何でも言ってくれ、可愛い妻の頼みは何でも聞く」
「うーん……。宝石は身に着ける習慣がありませんし、服は今のところ手持ちのもので足りてますし、特に不満は……」
ないと答えかけて、そういえば、ベルドラドに言いたい文句があることを思い出した。言おう言おうと思っていたのに、なんだかんだで忘れていた。
「ありました。不満が一つ」
わざと怖い顔を作ったら、ベルドラドは愉快そうに目を細め、「なんだ?」と促した。
「なんで契約書の記載に、計算問題があるんですか」
「ああ、あれか!」
ベルドラドは声を上げて笑った。
「遊び心というやつだ。ほら、無駄に分厚い契約書だから、そういうのがあった方がリシェルも楽しいかなって」
無駄に分厚い自覚があったのなら、まずは軽量化を検討しろと言いたい。
「いや全然楽しくないですよ、なんですか、あの難問。池の半径とか、子犬の速度とか……あんなの解けませんよ。契約期間は本当に百年なんでしょうね?」
「心配するな、契約期間は偽りなく百年だ。それに、あの問題も大して難しくない」
ベルドラドはいつかのように、何もない所からポンと契約書を出すと、該当のページを開いた。
「まずは子犬のポメコちゃんを、動く点pとして……」
そして、これまたポンと白紙の紙とペンを出してテーブルに広げると、簡単な計算しかできない私にも分かるよう、代入とか円周とか速度とかを丁寧に教えながら、ゆっくりと問題を解いてみせた。
「ほら。答えは?」
「百になりました……! 私、かなり賢くなった気がします……!」
自分で解いていないが遣り切った感を出す私に、ベルドラドは朗らかに笑った。
「契約期間は百年だって分かっただろ? リシェルは百年、ずっと俺の妻だ」
無邪気に言うベルドラド。この結婚生活が百年続くことをまるで疑っていない様子は、それは叶わないと知っている私には、胸が痛むものだった。
人間はそんなに長くは生きられない。けれど、魔族の感覚で生きる彼には、実感がないのかもしれない。私に「たった」百年だと告げた彼は、私が百年も経たずに死ぬことを、ちゃんと分かっていないのかもしれない。
だから、今はまだ、彼の夢を曇らせたくなくて。
「はい。契約が完了した時には、ちゃんとお給料をもらいますからね」
微笑んで、そう返した。
いつかちゃんと、そんなに長くは一緒にいられないのだと伝えよう――そんなことを考えて、ベルドラドに気を遣ったつもりでいた私は、当然のことに思い至らなかった。
過保護なほどに人間の弱さを気にする彼が、その寿命の短さを知らないはずが、なかったのだと。




