◇35.これがほんとの愛妻弁当
「メイドが無言で噴水に頭を突っ込んでいた、という目撃情報があったんだが……」
「あ、それは私ですね。少し頭を冷やしたくて。おかげで今は平常心です」
「そうか、リシェルだったか。人間の生態は興味深いな」
「まあ、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
例のごとく窓から帰ってきたベルドラドは、出迎えた私をぎゅっと抱き締めた。最初にそうして以来、彼の「ただいま」には、もれなく抱擁がついてくるようになった。
他の接触ではひどく緊張してしまうのに、ただいまの抱擁だけは、照れよりも安堵を感じるから不思議だ。私からも腕を回し、そっと抱き返してから、身体を離す。
「十二枚目のハンカチができましたよ」
ベルドラドは目を輝かせ、尻尾をピンと上げた。
彼に渡すと約束した百枚のハンカチ、その記念すべき第十二号を広げて見せる。金色の星の刺繍を散りばめた、我ながら渾身の作品だ。
「どうでしょう。今回のテーマは『星の誕生と消滅』にしてみました」
「想定より壮大なテーマで驚いてる」
ベルドラドは嬉しそうに目を細めて、ハンカチを受け取った。
「ありがとう、リシェル。大事にする」
一枚目を渡したとき、彼は感動の面持ちで「家宝として宝物庫で保管する」と言った。二枚目以降もそうしているらしい。日用品として使われるつもりで渡したのに、まさかの芸術品扱いである。魔界では刺繍が貴重なのだろうか。
さすがに十二枚目ともなれば普通に使ってくれるかなと思ったが、世にも貴重な宝の地図かのように丁寧に折り畳み、世にも繊細な壊れ物かのように懐にしまう様子を見る限り、これも宝物庫行きかもしれない。
「あの、あと八十八枚作りますから、普通に使ってくださいね?」
「知らないのか、リシェル。ハンカチは使うと汚れるんだぞ」
そこまで大切にしてもらえて、嬉しくないと言えば噓になる。次はさらに凝った刺繍にしてみよう。壮麗なテーマを考えねば。深海の神秘あたりを攻めようか。
「昼はちゃんと食べたか?」
テーブルの上に置いてある「愛妻弁当」と書かれた紙付きの籠に目を遣り、ベルドラドが問う。
「はい。今日も美味しいお弁当でした」
ベルドラドは昼時にいない場合、部屋に昼食の入った籠を用意してくれる。籠には「できたてを維持する魔法」が掛けられており、私はメイド業務から帰ってくれば、ほかほかの昼食をいただけるという寸法だ。
「特に人参のスープには唸るものがありました」
魔王城の料理人さんは世界で勝負できる腕前である……と、感慨に耽りながら味の感想を伝えたら、ベルドラドは顔を綻ばせた。
「そうかそうか。早起きして人参を裏ごしした甲斐があったな」
「……えっ」
思いがけない発言に目を丸くしたら、彼も首を傾げて私を見返した。
「どうした?」
「えっと……あのお弁当って、あなたが作ったんですか?」
驚愕の思いで尋ねたら、不思議そうに「? そうだが」と肯定された。
「愛妻弁当と書いてあるだろ? 愛する妻のために作った弁当、略して愛妻弁当だ」
愛妻弁当がそういう意味だったかはさておき。
「……もしかして、お弁当だけじゃなく、今までの料理は全部、ベルドラドが?」
「ああ。そんなに驚くことか?」
最初の朝食に始まり、毎回素晴らしい料理の数々が提供されるものだから、てっきり専業の料理人さんが作っているとばかり思っていた。
確かに、初日の夕食では「リシェルの歓迎会だ」と言って、エプロンを着けたベルドラドが目の前で調理を披露してくれたが……魔法で空中に浮かべた業火に肉の塊を投げ込み、たぶん料理用ではない長剣による目にも留まらぬ斬撃で切り分け、尻尾で構えた大皿で受け止めるという、ちょっと日常離れした調理風景だったから、一般的な料理の腕前とは結びつかなかったのだ。
「魔族と人間の味覚に大して差はないはずだが、万が一にも食事で不便を強いることになったら申し訳ないだろ。だから人間を花嫁にする準備として、人間の国で有名な料理店に弟子入りして修業したんだ。いわゆる花嫁修業というやつだな。リシェルには毎日美味しいものを食べて、幸せに暮らして欲しいから」
得意げに語るベルドラド。花嫁修業がそういう意味だったかはさておき、「花嫁には幸せな結婚生活を送って欲しい」の、熱意と実践を改めて見せられた思いだ。
わざわざ料理店に弟子入りして、毎回美味しい料理を振舞って、早起きしてお弁当まで……。
「ベルドラドはすごいですね」
思ったままを零した感想に、彼は瞬いた。
「……すごい?」
得意げにしていたはずの彼は、なぜか驚きに満ちた顔になって、私を覗き込んだ。