◇32.高らかな宣言の約束
さっきまで騒ぎ合っていたのが嘘みたいな静けさで、花嫁のベールを上げるように、そっと毛布が取り払われた。
「俺は、リシェルに惚れて欲しい」
花嫁を連想してしまった自分に動揺した、その僅かな隙に、さらに距離が詰められる。
至近距離で目が合う。あの錯覚を起こさせる類の、例の眼差しと。
「リシェルを愛する許可が欲しい」
間近に迫った金色の瞳に息の根を止められているうちに、頬に口づけをされた。
「ひぇっ」
変な声を出して真っ赤になって固まっていたら、五秒くらい真顔で見つめられて、両肩を軽く掴まれた。なんだか真剣な表情である。なんだか押し倒されそうな流れである。うっかり息の根を止められている場合ではなかった。
「あ、朝。まだ朝です。初夜という字を今一度思い出していただきたい」
「朝とか夜とか、すぐにどうでもよくなると思う」
時間帯での説得では退く気はないらしい。これが一ヶ月の安寧の代償か。我慢の反動なのか。いや我慢って、ベルドラドは別に私のことが好きなわけじゃないのに、一体何の我慢があったというのか。
いや違う。ベルドラドの要求は最初から一貫している。私に惚れて欲しいと言っている。
そう、口説くために初夜を過ごそうと――。
「じゅ」
「じゅ?」
「順序が逆です!」
ベルドラドはキョトンとした顔で止まった。
やんわりと押し倒されつつあった私は、なんとか背中がシーツに付かないギリギリの体勢のまま、吠えた。
「いいですかベルドラド。人間の世界では、口説いてから、初夜です! 初夜してから口説いては順序が逆です! はい復唱!」
「初夜してから口説いては順序が逆です」
「そうです! そしてベルドラド、あなたは私を口説けましたか?」
「毎朝口説きはしていますが、いつも微妙な反応をされます」
「つまり!」
「口説けてはいないので、初夜をしてはいけない?」
「はい正解!」
ベルドラドは倒しかけていた私をゆっくりと抱き起こし、元のように座らせると、自身も神妙な顔で座りなおした。
「ありがとうリシェル。とても勉強になった。人間にそんな規定があるとは知らなかった」
「いえいえ、礼には及びません。助け合っていきましょう」
私たちはベッドの上で固い握手を交わした。美しい偽装夫婦愛である。
「俺がリシェルを口説き落とせたら、そのときは抱いてもいいんだな?」
「だっ。……そ、そうですね。口説けたら」
「俺に惚れたら、その時はちゃんと『惚れた』って教えてくれるか?」
「も、も、もちろん。その時は声も高らかに宣言いたしましょう」
流れでだいぶ恥ずかしい宣言をする約束をしてしまったが、ベルドラドが「楽しみにしてる」と満足そうなので、撤回を申し出るのはやめておいた。
あと、そもそも私が惚れたら、その時点でベルドラドの「妻を惚れさせる」という目的は達成なので、もはや口説くための初夜はしなくてもいんじゃないかと思ったけれど、そこを言及するのもやめておいた。せっかく「順序が逆」ということで説得できたのに、手段が目的に変わっていることをわざわざ指摘して、再びやんわりと押し倒されたら大変である。
さてこれで事態は収拾したなと安堵していたら、ベルドラドがベッドから動く様子がない。しょんぼり気味の様子で、いじけたように尻尾をぱったんぱったん上下させて、じっと私を見つめている。
「それはそれとして、新婚の妻に一ヶ月も触れるのを我慢した夫には、何かご褒美があってもいいと思う」
「一ヶ月の我慢を強調しますね……?」
「だって新婚なのに……新婚初月なんて、普通は砂糖の蜂蜜漬けみたいになるはずなのに……溺愛生活を送るはずだったのに……全然いちゃいちゃしてない……」
恋愛小説を人間との夫婦生活のお手本にしてしまった彼である、全然いちゃいちゃしていない(そんなことはないと思う)上に、初夜も無期限の先延ばしにされて、もどかしいのだろう。
彼がこの一ヶ月、接触を我慢したのは事実……いや、髪に口づけをされたり抱き締められたりはあったが、ともかくそれ以上の接触はなかったのは事実なので、そこは労うべきだろう。
そして彼の言うご褒美が、物質的なものを指さないことも理解している。いちゃいちゃできなかったことを悲しんでいるのだ。いちゃいちゃに類するものを求めているのだ。
「わ……わ、分かりました」
だから、私が今から彼にすることは、ベルドラドを労うためであり、妻役の責務であり、何ら恥ずべきことではないのだ。
そう。さっきの熱に浮かされて、もう少しだけ彼に触れていたくなったとか、そんな理由では断じてないのだ――と、自分に言い聞かせつつ。
「あの、ベルドラド。動かないでくださいね」
「? うん」
意を決して身を乗り出し、ベルドラドの頬に、ちょんと唇で触れて、すぐに離した。
「お、お、おはようのキスを返しただけですが。これで、ご褒美になるでしょうか」
ベルドラドは五秒くらい呆然として、そして、猛然と頷いた。
「これ以上ないくらい」