◇3.(魔王の子 ベルドラド)
ベルドラド・アウグスタは、魔王の三番目の子として生まれた。
幼少期のベルドラドは力も弱く泣き虫で、絵に描いたような虐められっ子だった。
魔王の血を引いているくせにロクな魔法も使えないのか、天魔の一族なのにそんな速さでしか飛べないのか、ひとりじゃ何もできない泣き虫のチビ、美人で巨乳の姉ちゃんがいるとか全然羨ましくないぞこの野郎、やーいお前の兄ちゃん腹黒美形……等々、同年代の魔族に散々虐められては泣いて魔王城に帰り、庭の隅で膝を抱えてまた泣いていた。
虐められたくなければ外に出なければいい話なのだが、自宅に籠ったら籠ったで、末の弟にやたらと甘い姉と兄が「ベルちゃん、お外で遊ばないの?」「ベル、まさか友達がいないのか?」と心配する。果ては家族会議に発展する。父がキャッチボールをしたがる。ベルちゃんのお友達募集ポスターの制作が始まる。やめてくれと思う。
魔王の血筋に相応しい力を持つ家族に、全く優秀ではない自分が気遣われるのは、本当に居たたまれなくて、虐められるよりも辛かった。
そして居たたまれなさが高じたある日、ついに家出を決行した。
早朝に魔王城をこっそり抜け出し、魔族の領地――魔界から、ずいぶん離れた土地までやって来た。人里近くの森だ。
人間は魔族を見ると攻撃してくると聞いていたから、さっそく人間に化けた。まだ自力で魔力を隠すことはできなかったので、宝物庫から持ち出した腕輪を使った。魔力を封じる腕輪を嵌めた途端、角と翼と尻尾が消えた。湖に映した自分の姿は、どう見ても人間である。これなら人間に遭遇しても大丈夫だ。
ここには馬鹿にしてくる魔族も、気遣ってくる優秀な家族もいない。自由な世界の気楽さに浸りながら、森の中で遊んだ。ひとり遊びなら極めているのだ。
だが、極めていても二時間くらいで飽きた。
というか、「知らない土地でひとりきり」という事実が徐々に実感を伴ってきて、自由の気楽さを孤独の心細さが塗り潰してしまった。
二度と帰らないぞという出発時の決意をあっさり翻し、いますぐ帰ろうと腕輪に手を掛けて、愕然とした。
腕輪が外れない。
当時の飛行速度で魔王城から人里近くまで来られたのは、転移用の魔法陣のおかげだ。兄がこっそり人里に連れていってくれたことがあり、その時に使っていた魔法陣の隠し場所を覚えていたから、それを使ったのだ。
魔力を封じたままでは、翼で飛んで魔法陣の隠し場所に戻ることも、転移の魔法を起動することもできない。
このまま知らない場所で孤独に死ぬのか。
森の中でひとりきり、びゃんびゃんと泣き喚いていたら、亜麻色の髪の女の子がひょっこりと姿を現した。
「なんで泣いてるの?」と訊ねる声が優しくて、こちらは魔族であちらは人間だということも忘れて、泣きながら縋り付いた。
女の子に名前を聞かれたので、ベルと名乗った。小さい頃は周囲からそう呼ばれることが多く、ベルドラドという名よりもそちらの方が馴染んでいたから。
女の子は「可愛い名前だね」と微笑んでから、リシェルと名乗り返した。
リシェルは泣いて泣いて要領を得ないベルドラドの話を、辛抱強く聞いてくれた。
「私もね、炭酸水の瓶の中の硝子玉を取りたくてね、指を突っ込んでね、抜けなくなってね、でも石鹸水でどうにかなったから、これは大丈夫な案件」
手を引かれるままにリシェルの家についていくと、彼女は石鹸水を使って腕輪を外してくれた。
ベルドラドは腕輪が無事に外れた喜びで頭がいっぱいで、角・翼・尻尾の三拍子が揃った魔族の姿に戻ったことに思い至らず、笑顔でリシェルに抱きついた。
直後に自分の姿を思い出し、魔族だと分かったら嫌われるのではないかと不安になったが、杞憂だった。リシェルは「よかったね」と笑い返してくれた。
二人で手を取り合ってぴょんぴょんと跳ね回り、リシェルのとっておきの品だというチーズケーキでお祝いをして、肩を組んで楽しく歌った。その時に歌った石鹸水を称える歌(作詞作曲リシェル)は、十年経った今でも一番から三番まで全て歌える。
それから再び森へ行って一緒に遊んだ。ひとりで遊ぶよりもずっと楽しかった。
湖の上を歩けるようにするだけの簡単な魔法で、リシェルはとても喜んでくれた。
少し飛んで高い木に生っている林檎をもぎ取ったら、リシェルは拍手をしてくれた。
尻尾の先を刃に変えて林檎を半分に切ったら、リシェルは「ベルは何でもできるんだね」と褒めてくれた。
「ベルはすごいんだね」
誰も言ってくれなかったことを、リシェルだけは言ってくれた。
夢のような時間を過ごしているうちに、空はすっかり夕焼け色になっていた。
そろそろ魔王城に戻らないといけない。やたらと心配性な家族が大規模捜索を始めかねない。
本当はリシェルを持って帰りたかったけれど、まだ人を抱えて飛べるだけの力はなかったし、「夕日が沈むまでに家に戻れば、おじいちゃんに怒られないから!」と胸を張るリシェルは帰宅する気満々だし、今日のところは諦めるしかなかった。
それでも、生まれて初めて、とても前向きな気持ちだった。
生まれて初めて、こんなに欲しい物ができて、わくわくしていた。
「ベルは飛んで帰るの?」
「うん」
「いいなあ。私も飛んでみたいなあ」
「いつかリシェルと一緒に空を飛んであげる」
「本当?」
「うん」
その時は、今度こそリシェルを持って帰って、いつまでも一緒にいよう。
その時までに、リシェルが思ってくれた通りの「すごい」魔族になろう。
これがベルドラドの初恋であり、リシェルお持ち帰り計画の始まりであり、その執念もとい一途な思いは十年後に果たされる。




