◇28.空中デートで被弾する
果樹園までは飛んだ方が早いということで、いつぞやのようにベルドラドに抱き上げられ、窓から離陸。
今回は急上昇や急降下はなく、かなり速度を落とした飛行だった。私が初回の飛行で気絶したことを受けて慎重になったらしい。
お姫様抱っこの状態でゆったりと空を飛ぶのは、なかなか楽しい体験だった。ミア様とのちょっと過激な飛行(全力でしがみつかないと落とされるタイプの空中遊泳)を経た後だからこそ分かる、この安定感。
「へー、魔王城って本当に大きいんですね。こんなに高層な建物、見たことない……」
「そうだろう。魔界で一番立派な建造物だ。敷地も広いぞ」
「ん? あそこにある、紫色の……水? は何ですか?」
「葡萄ジュースの湧く泉だ。日によって味が変わる。今度案内しようか?」
「そ、そんな夢いっぱいの泉が……!? はい、ぜひ! じゃあ、あっちの桃色の方は、もしかして苺ミルクですか?」
「あっちは毒液の泉だ。凄惨な苦痛を与えるが決して死には至らない毒だから、拷問向きだぞ。リシェルが興味津々なら、ぜひこっちも案内」
「しなくていいです。近づかないようにします。では、あの金色の森は何ですか?」
「あれはだな……」
飛行経験はこれで四度目だが、景色を眺める余裕があるのは今回が初めてである。魔界の景色には見慣れないものが多く、私がいちいち質問をするたびに、ベルドラドは丁寧に解説をしてくれた。
「空を飛ぶのは楽しいか?」
上空からの景色に夢中になっている私に、ベルドラドが穏やかな声で問い掛ける。
「はい。まさに鳥気分で」
答えながらベルドラドの方を向いて、思っていたよりも遥かに近距離で、目が合った――本当に愛情が籠っているような、あの眼差しと。
「すっ」
心臓が跳ねた。いや、抱きかかえられているのだから顔が近くて当然なのだけれど、うっかりしていたというか、飛行に意識が行っていたというか、ともかく油断していたところに例の眼差しと遭遇したせいで、こんなことを思ってしまった。
これじゃあ演技じゃなくて、本当に愛されているみたいだと。
そう思った途端に、急に色々と意識してしまった。
決して落ちないようにしっかりと身体に回された腕を。
息遣いが分かるほどの近さを。
彼が「夫」であることを。
「よかった。やっと、リシェルと楽しく飛べた」
ひどく優しい声が、声量に反して耳朶を打つ。
心から愛おしむように、微笑みを向けられる。
今朝も抱いた妙な気恥ずかしさが、その時の倍以上の威力で襲い掛かってきた。
何かしらを撃ち抜かれたと、錯覚してしまいそうな勢いで。
「ひぇっ」
頬が凄まじく熱くなって、変な声が出た。
「リシェル? ……どうした?」
ベルドラドは私の変化に気付き、真顔になって五秒くらい眺め、異常だと判断したらしく心配そうな表情に変わり、恐る恐る訊ねてきた。
それは心配にもなるだろう。さっきまで空中散歩の景色にはしゃいでいた人間が、顔を合わせた途端に奇声を発し、真っ赤になって、黙り込んだのだから。
「顔が赤い。しかも震えて……熱でもあるのか? まさか、人間はこの程度の飛行速度にも耐えられないのか? 嘘だろう、小鳥並みの速さだぞ……?」
「い、いえ、大丈夫れす。です」
愕然とし始めるベルドラドを落ち着かせるべく、努めて平静を装ってみたが、逆効果だったらしい。
「呂律まで怪しく……! くそっ、人間の脆弱さを侮っていた。すまないリシェル、すぐに降ろす!」
ベルドラドは力強く私を抱き寄せて(とどめである)、真下へ下降した。着陸するや、極薄の硝子でも扱うような繊細さで私を降ろし、近くの木にもたせかける。
「リシェル、水を持ってこようか? 氷で頭を冷やすか?」
「いえ、あの……それより、ちょっとだけ、離れてもらってもいいですか」
距離の近さが心拍異常の原因なので、そうお願いしたのだけれど、ベルドラドは「えっ」と動揺した。
「まさか、実は顔を赤くして震えながら涙目で見上げてくるリシェルを見て心配するより先にこれは可愛いと思って五秒くらい黙って見続けたことに気付いて……? 違うんだ、本当に心配はしているんだ、ちょっと少しかなりだいぶ好みの表情だったから心配する前にとくと眺めてしまったなんて、そんなことは断じてないぞ、俺はいつでもリシェルの健康と安全を願っているんだ、信じてくれ」
もういっぱいいっぱいなので、正直ベルドラドが何と言ったのかよく分からなかったけれど、ともかく大人しく距離を取ってくれたので、ここぞとばかりに深呼吸をする。
落ち着け、落ち着け。
これは偽装結婚、これは偽装結婚。
ちょっと顔が近くてびっくりしただけ。
本当に想われている気がしたのなら、それは錯覚、錯覚。
よし!
「ごめんなさい、ベルドラド。もう大丈夫です……って、なんでそんなに離れたところで三角座りをしているんですか」
「リシェルが離れろって言うから……あとは反省の意で……」
ベルドラドはしゅんと尻尾を下げて、とぼとぼと戻ってきた。しょんぼりとした姿は子犬的な哀切に満ちていて、平静に戻りつつある精神をさらに落ち着かせてくれた。
「前回も気絶させたのに、今回も失敗してごめん……。次にリシェルと飛ぶ時は、ちょうちょ並みの速さで飛ぶと誓おう。いいや、むしろ飛ばない。毎日が平地移動だ」
「あ、違うんです。飛行に耐えられなかったわけではないんです。ベルドラドは悪くないので安心してください」
「じゃあ、なぜ様子がおかしかったんだ?」
「そ、それは……飛行が楽し過ぎて興奮しただけです。興奮による発熱、動悸、息切れを起こしただけです。驚かせてすみません。今はもう落ち着きました」
「なんだ、そうだったのか」
私の誤魔化し(まあ興奮したからという理由はあながち嘘ではない)を、あっさりと信じてくれたベルドラドは、ぱっと顔を輝かせた。
「そうかそうか。そんなに飛ぶのが楽しかったのか」
無邪気な笑顔で、ぱたぱたと尻尾を揺らすベルドラド。非常に和む。
「ちょうどここが果樹園なんだ。林檎の樹はあっち」
私がすっかり普段の調子に戻ったと納得したベルドラドは、さっそく案内を始めた。