◇26.窓から帰宅する夫
足湯のおかげでぬくぬくと温まった身体で自室に戻り、テーブルに用意されていた昼食をいただき(愛妻弁当という書置きがあったが意味が違うと思う)、ベルドラドに渡すためのハンカチの刺繍に取り掛かる。
誰に急かされるでもなく、まったりと自分のペースで針仕事に没頭するのは楽しい。穏やかな昼下がりを満喫していたら、大きな窓が開いて、ベルドラドが帰ってきた。
「いや扉から出入りしましょうよ」
「だって窓の方が早いから」
「まあ、おかえりなさい」
「うん、ただいま」
出迎えた私を、ベルドラドはぎゅっと抱き締めた。過度な接触はしない宣言はどうしたんだという話だが、肌が直接触れていないので彼的には無問題なのだと思われる。
「リシェルがいる」
ベルドラドは私を抱きしめたまま、心底嬉しそうに言った。腕だけでなく、尻尾もキュッと巻き付いてきた。前回は獲物を捕縛する蛇のような趣の尻尾だったけれど、今回は甘えて擦り寄る子猫のように感じる。
だからだろうか、抱擁による焦りや羞恥は感じず、代わりに心地好い照れと、温かい気持ちが込み上げてきた。彼の胸に頬を押し付けられた状態のまま、そろそろと腕を伸ばして、控えめに抱き締め返してみる。尻尾が一瞬驚いたように緩んで、すぐ、さきほど以上の力で巻き付いてきた。
「変なことを言いますね。それは、まあ、普通にいますよ」
「家にリシェルがいる。帰ってきたら出迎えてくれる。感動だ」
昨日だってずっと一緒にいたのに、ちょっと離れて再会しただけで感動するなんて大げさな話だけれど、そういえば「出迎える」のはこれが初めてだから、それが大事なのかもしれなかった。
そして、その気持ちなら、私にも少し分かる気がする。
育ての親である祖父が亡くなって以来、自宅と呼べる家はなくなってしまったし、王城の仕事を終えて住み込み部屋に戻ることは「帰宅」とはちょっと違うし、残念ながら「おかえりなさいませご主人様」の担当ではなかったから、「おかえりなさい」と「ただいま」を交わす相手がいなくなって久しい。でも、今日からは違うのだ。
私にとってこの部屋は、まだまだ「ベルドラドが用意した住居」という位置付けだけれど、それでも帰ってきたり、帰ってこられたりする場所であることに、間違いはなく。
だから、この帰宅のやり取りに対して、妙に感動してしまう気持ちは――さっきは尻尾の子猫的可愛さのせいにした、この温かい気持ちは――別に大げさでもないのだ、と思い直す。
ベルドラドが抱いている感動も、私と同じものだったりするのだろうか。
もしかして、彼も私と同じで、もう家族がいなかったりするのだろうか。
「あの、ベルドラドって……いや、その前に、出迎えの抱擁が長くないですか。いつまで抱き締めるつもりですか」
「だってリシェルが熱烈に縋り付いてくるから」
断じて熱烈に縋り付いたりはしていないが、いつまでと問いつつ自分も抱き締め返していたのは事実なので、慌てて手を離す。
ベルドラドは「えー。もう終わり?」と、やたら可愛く小首を傾げてみせたが、「終わりです!」と強めに窘めると、渋々の体で腕と尻尾から私を解放した。
「さっき何か言いかけてたな。なんだ?」
「あ、はい。その……ベルドラドって、家族はいるのかな、と思ったり……」
「ん? いるぞ」
あ、普通にいるんだ……。
私と同じ理由で感動しているんだろうな、なんて的外れの推理をして、勝手にしんみりしていた自分がちょっと恥ずかしい。
「今は父と兄と姉の四人家族だ。ちなみに父は魔王だ」
「ちなみにで付け加える情報が重要過ぎる」
へえ、ベルドラドってお兄さんとお姉さんがいるんだあ、末っ子なんだあ、という平和な驚きが吹き飛んでしまったじゃないか。
「あ、あなた、魔王の息子だったんですか……?」
お待たせしました、ベルドラドさんのターン!
錯覚の始まり編、残り3話で〆です。
なお、読者さまから愛に溢れる感想をいただいているミア様(別に嬉しくないわよありがとう!)は、もちろん次章でもご活躍される予定です。さすがですミア様。