◇19.過度な接触を控える紳士な夫
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以上が昨日の事務室での顛末であり、ベルドラドが朝から上機嫌な理由でもある。
私が「ベルドラドのためにメイドになった」という点が、非常に嬉しかったらしい。ハンカチに刺繍をする約束をした時にもすごく喜んでいたし、感激屋さんなんだなあと思うとほっこりする。
で、喜んでもらえるのは光栄なのだけれど。
「……あの、ベルドラド。見つめ過ぎです」
私に跪いたまま、メイド姿にうっとりと熱視線を注がないでいただきたい。万が一この場面を誰かに見られたら、払拭するはずのメイド好き疑惑が確定である。
「うん。そうだな。早く朝食を食べさせないとリシェルが餓死してしまう」
ベルドラドはいそいそと自席に戻った。本日も妻に甲斐甲斐しい彼は、さっそく湯気の立つ紅茶を私のカップに注いでくれる。
「さあ、今日も存分に食べてくれ。いただきます」
「はい。いただきます」
昨日は私が朝食を取っている間、ベルドラドは食べずに座っているだけだったけれど、今日は一緒に食べるようだ。
そういえば、昨日のお昼(中庭で魔界名産の吸血薔薇を眺めながらのお弁当)も、おやつ(宣言通りにチーズケーキ)も、夕食(エプロンを着けたベルドラドが目の前で調理)も、彼は私が食べる様子をにこにこと見守っているだけだったから、こうして向かい合って一緒に食事をするのは初めてだ。
ベルドラドの食事の所作は美しく、行儀作法も完璧だった。たとえ人間の貴族の会食に混ざったとしても問題ないほどで……あ、いや、ちょいちょい尻尾を使っているので人間的には問題ありかもしれないが、それでも気品溢れる振る舞いである。
ノリノリで珍妙な口説き文句を披露していた自由奔放さと、今の貴公子然とした姿との差が激しく、今度は私の方が彼をまじまじと見つめてしまう。
当然、視線に気づかれて、「どうした?」と微笑を返された。
愉快そうに笑ったり、見るからにしょんぼりしたり、放電気味に怒ったり、とかく豊かな感情を素直に出すベルドラドだけれど、稀にこういう落ち着いた表情を見せる。
そういう時、彼が私に向ける眼差しは、ひどく優しい。
まるで、とても大切なものを見ているかのような。
「い、いえ、なんでもありません」
途端に気恥しさを感じて、慌てて目を伏せた。
なんだか本当に、彼から愛情を向けられているような、そんな錯覚をしそうだったからだ。
私は役目としての妻である。ベルドラドはただ、溺愛夫婦の「演技」をしているだけである。私個人に特別な気持ちがあるわけではない。
だから、彼の演技を本気にして、妙に意識をしてしまうのは、愚かなことだと分かっている。分かってはいるのだけれど。
今までみたいに、得意げに恋愛小説を振りかざして、初夜初夜と騒いで、愛がありまくりの偽装結婚だなんだと茶化してくれたら、こんなに緊張しなくて済むのに。
「わ、わー……美味しそうなサラダだなあー……」
ベルドラドの視線やら、自分の中の妙な照れやら、諸々をごまかすように目の前のサラダを頬張った。苺とチーズが散りばめられた革新的に美味しいサラダに集中することで心の安寧を取り戻そうとしていると、あまりに懸命に咀嚼しすぎていたのか、再び「どうした?」と、今度はやや心配そうに訊かれてしまった。
「えっ。ど、どう、どうもしていませんが?」
「サラダが良くなかったか? リシェルが好きなものを入れておけば正解だろうと思って苺とチーズ入りのサラダにしたんだが、さすがに考えが安直過ぎたか?」
「いや、いえ、苺とチーズに罪はありません。とても美味しいです。むしろ最高です」
「なら、なぜ思い悩んでいる。朝食の前は普段リシェルだった。なのに、今は懊悩リシェルだ。朝食の内容に問題があったとしか思えない。困リシェルであれば遠慮なく相談して欲しい」
口説き文句に対する私の白い眼には無頓着なくせに、こんな時だけ表情を敏感に読み取って追及してくるベルドラドである。あと勝手にリシェルの多様性を増やさないでいただきたい。
「いえ、困っているとかそういうのではなくて……あー、ほら、そう、今日のベルドラドは、朝から初夜初夜言ってこないんだなーと思って」
とりあえず何らかの答えを返さないと納得しないだろうなと思って、適当に口走って、直後に己の適当さを後悔した。
これじゃあ、まるで初夜初夜言って欲しかったみたいだ。
「ち、ちが、違うんです、これは期待していたとかそういう意味ではなく、昨夜も何もなく終わりましたし、いや寝ようとしたら『ほらリシェルの好きな花だぞ』と山盛りの花を毛布よろしく載せられて、『質のいい睡眠は心地いい入眠から』と激しめの伴奏と共にアップテンポの子守歌まで聞かされて、正直なかなか寝付けませんでしたけれど、ともかく普通に寝て起きて平和だったので、これは一体どうしたのだろうかと」
「なんだそのことか」
顔を赤くして慌てる私と対照に、随分と落ち着いた様子のベルドラドは、「ふっ……」と無駄に賢そうに笑うや、例のごとく懐から本を取り出した。
タイトル、『子犬と暮らそう!(初級編)』。可愛いわんちゃんの表紙である。
あらゆる角度で予想外な反応に固まる私に構わず、彼はもはや見慣れたドヤ顔で説明を始めた。
「昨日はリシェルの繊細さを痛感したから、人間と一緒に暮らすための参考文献を改めて読んでみたんだ」
「それ子犬の飼育本では」
「自宅に迎えて一ヶ月は過度な接触を控えましょう、と書いてあった。新しい環境に慣れるまで、むやみに構うのは我慢して見守りに徹しろと」
「それ子犬のお迎え手順では」
「だから俺はこの一ヶ月、リシェルをどうこうしないと決めた。確かに慣れない環境で早々に睡眠時間を削るのは配慮に欠けていたなあ、と思い直した次第だ。たくさん寝かせてやれと本にも書いてあった。食べて寝て大きく育つのが仕事なのだと」
「どこまでも子犬基準」
「キスは控えろと書いてあったから我慢する。おはようのキスも泣く泣く我慢しよう」
「子犬の飼育本でよかった」
「まあ一ヶ月後には何をやらかしてもいいと思えば我慢もできる」
「何をやらかしてもいいとは絶対に書いてない」
わんちゃんの飼育本(初級編)由来等の突っ込みどころは満載だが、ともかくこの一ヶ月は、穏やかな朝晩を過ごさせてくれるらしい。安心である。
そういえば、昨夜は結局おやすみのキスもなかったし、おはようのキスも我慢すると言っているし、この具合なら節度ある接触を真面目に守ってくれそうだ。静けさの後の反動が怖いが、一ヶ月後のことは一ヶ月後に考えよう。
「もちろん過度な接触以外にできることは何でもするつもりだから安心しろ」
「安心したそばから安心できない安心宣言はやめてくれませんかね」
「リシェルは俺に何をして欲しい? 何をしたら俺に惚れてくれる?」
さきほどは貴公子然とした雰囲気に惑わされたが、ひとたび発言すればこの通り、中身はやっぱり自由奔放で少しずれていてなんだか憎めない、ベルドラドのままである。
「壁……壁ドン? をしたら、人間は惚れると聞いたんだが」
「これまた絶妙な知識を」
「壁なら石でも鉄でも壊せるぞ」
「私の知ってる壁ドンとは掛け離れている予感」
ベルドラドは得意げに尻尾をひゅんひゅんと素振りさせた。どうやら手ではなく尻尾でドンするつもりらしい。壁ドン要素が完全に消えた瞬間である。
「で、どこの壁を壊す?」
「壁を壊す前提をどうにかしませんか」
「リシェルは壁に優しいなあ」
私が呆れた顔で諭せば、ベルドラドは的外れなことを返して、楽しそうに笑う。
彼が偏った恋愛知識を披露して惚れろ惚れろと騒ぐ、いつもの流れになったことに安堵を感じながら、私も釣られて笑ってしまった。




