◇10.とりあえずメイド服
扉で繋がった寝室に戻り、さらに隣室への扉を開けると、彼が言った通りに浴室と手洗いがあった。
やっぱりここも王族の住まいに引けを取らない贅沢な作りである。こんな部屋をポンと用意できるなんて、ベルドラドは「魔王城勤め」の身分の中でもかなり偉い魔族なのだろうか。
メイドの時には掃除の対象として見慣れていた豪華な洗面台を、まさか自分が使う側になろうとは。ブラシに石鹸、あと香油なんかも備え付けられていたので、ありがたく使わせてもらい、身繕いを済ませる(歯磨き粉が苺味で美味しかった)。
なお、「印が発現する条件に左手を使うことを設定しておいたから、普通に前髪を上げたい時には右手を使うといい」と言われていた通り、右手で前髪を上げる分には額は光らなかった。額を出す度にいちいち発光していたら落ち着いて洗顔もできないので、ありがたい配慮ではあるのだが、そもそも人の額を発光物にするなという話なので、やっぱりありがたく思うのはやめた。
身綺麗になったところで、大きな衣装棚を開ける。
これも彼が言った通りに、私の少ない手持ち服が全て移されていた。もれなく下着類も運び込まれていて、助かるのだけれど、いや助かるのだけれど、もちろん助かるのだけれど、各種下着を見られた私の心境は総合的に微妙なものである。
気を取り直し、さてどれを着ようかなと迷って、昨日着用していたメイド服も掛けられているのが目に入った。つい手に取ってしまう。
もうメイドではないのだから普段着(と言っても月に二度の休暇で着るくらい)でもよかったのだけれど、普段着以上に普段着であるメイド服の方が、正直落ち着く。うん。少し迷った末、手に取ったメイド服は戻さず、そのまま着ることにした。
ふんわりと洗濯粉のいい匂いがするから、昨夜のうちに洗って乾かしてくれたようだ。きっと魔法を使ったのだろう。魔法で洗濯ができるなんて羨ましい限りである。
などと考えつつ、黒いワンピースに白いエプロンを身に着ける。仕上げに白いカチューシャを頭に装着すれば、メイドの正装が完成である。
「よし!」
しかし、いざ仕事着を身に着けてしまうと、なんだか気持ちがしゃっきりしてしまった。とてもゴロゴロする気にはなれない。
あれ。そもそも、ゴロゴロって何をするんだろう。
はたと気が付いてしまった。部屋でゴロゴロする生活に憧れていたというのに、いざその環境を手にした今、具体的に何をすればいいのか分からない。
腕を組んで目を瞑り、労働と無縁だった幼少期を思い返してみる。
私は王城の住み込みメイドとして就職する前は、森に近い小屋で祖父と二人暮らしをしていた。村には同年代の子がいなかったので、専らひとり遊びを極めていた。木の枝を指揮棒にして歌ったり、木に登って虫を探したり、木の実を拾ったり。
「駄目だ全部木が要る……」
窓から木は見えているが、部屋で留守番すると言った妻が早々に窓から元気に木へ飛び移っていては事案だろう。考え直しだ。
ただいま私が求めているのは、室内で実践できるゴロゴロである。子どもの頃、雨の日は何をしていたっけ。
「そうだ。ベッドの上でだらだらと本を読むんだ」
日が高いうちからベッドに寝そべり、好きなだけ本を読む。これだ。これこそ優雅で怠惰な生活である。俄かにゴロゴロできる自信が湧いてきた。
誰も見ていないのをいいことに、ベッドに飛び込もうと助走をつける。
が、飛び込み寸前で思わず足を止めてしまった。
シーツがぐしゃぐしゃだったのだ。
「そういえば朝から不毛な戦いをしたんだった……」
あれだけ争えばこうなるだろう。そしてシーツが乱れていればベッドメイキングをしたくなるのがメイドの本能である。
放置された契約書と虫眼鏡を撤去し、シーツを綺麗に伸ばし、枕も定位置に戻し、よれ一つないベッドに整える。ふう。いい仕事をした。
せっかく完璧にしたベッドに即行で寝そべるのは勿体なかったので、今朝ベルドラドが座っていた椅子に腰掛けた。
沈黙。
うん。私は根本的に、ゴロゴロすることに向いていない気がしてきた……。
それに冷静になれば、そもそもベッドで寝そべって読むための本が手元になかった。この場で読めるものと言えば、ベルドラドが置いていった契約書くらいだ。求めていたものではないけれど、厚みだけなら大長編小説にも匹敵する。
「……今後のために読んでおこう」
ベルドラドの言動によれば、『甲は乙とのおはようのキスを拒んではいけない』などという細かな禁止事項まで盛り込まれているようなのだ。どうせゴロゴロする気にもなれないし、この機会にしっかりと内容を確認しておいて損はないだろう。
頭から読むとさっそく眠くなりそうだったので、まずは重要そうな項目から挑むことにする。頁をパラパラとめくっていくと、「契約期間」の項目が目に留まった。
「本当に百年って書いてあるのかな……?」
ベルドラドのことだから、「あは、うっかり千年って書いちゃった」とか言いかねない。いや百年から千年にされたところで私の寿命ではどちらも満了しかねるのだけれど、見ておくに越したことはない。
「えーと、『本契約の期間は①とする』。ま、まるいち? あ、下の方にあった。『①は以下の文章題の回答で埋めよ。半径5メートルの円形の池を、子犬のポメコちゃんが右回りに分速1メートルの速さで歩き、その2分後に飼い主の……』いや分かるかっ!」
誰もいない部屋に響く魂の叫びである。
契約書の大事な部分に文章題を持ってくるなと言いたい。問題を解かなきゃ読み進められない契約書って何なんだ。円形の池を異なる速度で右と左から回って何が楽しいのだ。出題者出てこい。
後でベルドラドに文句を言おうと固く胸に誓い、契約書を閉じる。
魔族の契約書ってどれもこんな内容なのだろうか……と徒労感に襲われていると、ふいに扉の向こうから物音がした。
え。部屋の外に誰かいる?
ベルドラドが戻ってきたのなら、普通に入ってくるはずだ。緊張しつつ耳を澄ませると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。
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