◇1.プロローグ:初夜のベッドに花を撒く
本日は結婚式である。
それも、この国の王子と婚約者の御結婚なのだから、その盛大さは言うまでもない。
かくして王城に務めるメイドの一人である私に、重要な任務が課せられた。
それすなわち、初夜のベッドに花を撒く係である。
初夜のベッドに花を撒く係とはなんぞやと訊かれても、初夜のベッドに花を撒く係ですとしか答えられないのだけれど、ともかく新婚夫婦のためのベッドに花弁をいい感じに配置して、ロマンチックな雰囲気を演出しておくのが私の役目だ。雰囲気は大事である。
というわけで、階下の広間では晩餐会中のこの時間、主役不在のひっそりとした寝室に私は一人、真っ赤な薔薇を目一杯に詰めた籠を抱えて立っている。
ちなみに日中は日中で、ありとあらゆる雑用に駆り出されていた。何せ国を挙げての結婚式だから、人手はいくらあっても足りない。
しかも王族の結婚式だから、とにかく朝から今に至るまで、儀式と挨拶と儀式と会食と儀式と挨拶と儀式がてんこ盛りだ。王室の決まりというやつらしいが、一日に予定を詰め込み過ぎである。日にちを分けろと言いたい。
そんな詰め詰めスケジュールなものだから、王族として宮廷行事に慣れている王子はともかく、世慣れない様子の花嫁の方は、すでに昼の時点で疲れ果てた様子だった。
特に、目の前にご馳走があっても思うままに食べられないことが心身に堪えたらしく、豪華なドレスで立ちながら切なげな瞳で「生ハムメロン……」と呟く姿なんて、涙を誘ったものである。
そんな感じで晴れの舞台でありながら元気のない花嫁を、「元気を出してください。明日の朝食は三段パンケーキです」と、柔らかな微笑みで励ます王子は、永久凍土の化身みたいな普段の様子とは別人のようだった。心から幸せそうな眼差しで彼女を見つめる姿は疲労とは無縁そうで、もはや新婦がいれば水も酸素もなくても生きていけそうな具合だった。
だから王子の方は大丈夫だろうけれど、詰め詰めスケジュールで心身ともに疲れ果てた状態で初夜を迎える花嫁は、大丈夫ではないかもしれない。
ゆえに、寝室を彩る私の役割は重要である。疲労困憊の花嫁には、せめて美しく飾られたベッドを見て、華やかな気持ちになって欲しい。
このリシェルが住み込みメイドの職責にかけて、結婚式の疲れが吹き飛ぶような、素敵なベッドに仕上げて見せよう。
「ものすごくロマンチックな雰囲気を演出してやりますとも……!」
籠に詰まった薔薇の花弁を掬い、気合を入れてベッドの上に撒き始める。これが案外、難しい。適当に撒くと偏るし、整然と並べると趣がない。
お洒落とは、たとえ頑張りまくっていても頑張りまくっていない感じを装う「抜け感」「こなれ具合」「大人の余裕」が大事なのだ、とメイド仲間が言っていた。目指すはそれである。無造作な感じを醸しつつ自然が作りだした妙味の美を、計算尽くで演出するのだ。
「よし……!」
試行錯誤の末、いい感じに花を撒けた。かなり時間がかかったけれど、納得のいく仕上がりになって達成感が深い。白いシーツに映える真っ赤な花弁。部屋に漂う甘い香り。うん。完璧だ。
これなら花嫁も喜ぶだろう。腕を組んで一人頷いていたら、ベッドに配置した花弁が数枚、ふわりと動いた。微かに感じる夜風。
振り向くと、窓が開いていた。換気の後にきちんと締めたはずなのに、風で開いてしまったのだろうか。でも、それにしては音がしなかったような。
まあ原因はともかく、空気を読まない夜風に、私の最高傑作が散らされては大変だ。
窓を締め直そうと、手を伸ばしかけて。
「動くな」
と、真横から首を掴まれた。
腕を中途半端に伸ばした微妙な体勢で固まる私に、相手は「大声を出すな。騒がなければ手荒なことはしない。分かったら返事をしろ」と言った。
「わ、わか、分かりました」
二十年の人生で初めて訪れた生命の危機に、震えながら小声で了承を返すと、相手は「ゆっくりとこちらを向け」と命じ、案外あっさりと手を離した。
強盗だろうかと怯えつつ、怖々と相手の方を向き、息を呑んだ。
夜空に浮かぶ月のような金色の瞳に、夜空そのもののような漆黒の髪をした、私と同じか少し年上くらいの青年。珍しい色の瞳だが、それだけなら、まあ、普通の人間の範疇である。
問題は、頭に生えた二本の角と、身の丈ほどある蝙蝠みたいな翼である。あと尻尾。
「ま、魔族の方ですか」
「見ての通り」
青年は楽しそうな笑みを浮かべ、いかにも悪魔感のある、先が三角形をした細長い尻尾を揺らめかせながら肯定した。そのゆらゆらしている感じが猫を思わせてちょっと可愛い、じゃなかった、現実逃避をしている場合ではない。
「……えーと、魔族の方が、王城の寝室に、何用でございましょうか……?」
お城のトイレを借りに来たのでしたら部屋を出て突き当りを右に……と続けた私に、魔族の青年は「お前に用がある、花嫁」と言った。
「はあ、私に。……ん、花嫁?」
自分の顔を指して訊き返すと、青年は頷いた。
そして、それは素敵なドヤ顔で、こう続けた。
「お前を攫いに来た。王子ではなく俺と結婚しろ、花嫁」
「いや私はメイドです」
ドヤ顔なところ申し訳ないのだけれど秒で訂正したら、青年は「え?」とキョトンとした顔で首を傾げた。
「お前、花嫁じゃないのか? 王子と結婚するという本日の主役ではないのか?」
「違います。ただのメイドです。主役どころか脇役の中でもさらに脇の隅の端の方です」
「ここが新婚夫婦の寝室だと部下に聞いたんだが」
「新婚夫婦の寝室を整備中のただのメイドです」
「なるほど」
早口による再三の訂正に、青年は素直に納得してくれたようだった。
「……あの、なぜ顔も知らない花嫁を攫いに来たんですか?」
メイドと姫を間違えるくらいだ、長年恋い慕っていたということでもないのだろう。
なぜ討伐される危険を冒してまで、王子の花嫁を狙いに来たのか気になって訊ねたら、青年は「よくぞ訊いてくれた」とばかりに、得意げに笑った。
「俺は訳あって、数日以内に結婚しなければならない。でも同じ魔族だとちょっと面倒事が多いから、人間と結婚しようと思った。ゆえに、婚活として結婚式当日の花嫁を攫いに来たんだ」
「いやなぜ婚活の初手が略奪愛なんですか。なぜわざわざ他人の花嫁を攫うんですか」
「それはもちろん、俺に惚れさせようと思って」
ん?
「だって俺の都合で結婚してもらうのに、好きでもない奴と結婚するとなったら相手が可哀想だろう? 幸せな結婚生活のためにも、俺の花嫁にはぜひ俺に惚れて欲しい」
ん?
「……あのー、攫う行為と惚れさせることに、一体何の関係が……?」
話が見えてこなくて混乱していると、魔族の青年は神妙な表情になって、懐からすっと一冊の本を取り出した。
タイトル、『悪役令嬢は運命の騎士と駆け落ちをする』。たぶんハッピーエンドである。
「魔族と人間は感性が違うと聞く。だから人間を妻にするにあたって、人間たちの間で流行っている本を参考に勉強したんだ。この小説の花嫁は結婚式の最中、式場に乱入してきた男の方の手を取っていた。つまり、人間は結婚式に乱入して花嫁を攫う男に惚れるということだろう?」
「結論」
人間の生態の勉強に、恋愛小説を使わないでいただきたい。そして乱入するシーンを間違っている。結婚式当日は当日だけれど、もう晩餐の段階である。
「だから俺の花嫁にする人間を俺に惚れさせるため、他人の花嫁を攫いに来たわけだが」
「色々と間違っているのですが、攫うなら攫うでせめて昼間の教会に現れてくださいよ」
「お前の言いたいことは分かっている。俺だって、本当は小説の通りに『その結婚ちょっと待った!』って、教会の扉を蹴破りたかったんだ。でも寝坊したんだから仕方ないだろ。まあ夜なら寝室にいるはずだと思って、ぎりぎり間に合うだろうと駆けつけたんだ」
「何一つ間に合ってませんよ。全てがもう遅いですよ。そもそも『結婚式当日に乱入して攫えば惚れる』という図式が間違っています」
「そうなのか?」
本日二度目のキョトン顔で首を傾げる青年。
「そうです。せっかくの結婚式をぶち壊して花嫁を攫ったところで、普通に嫌われますよ。一般女性代表として進言します」
「そうだったのか……」
青年は儚げな微笑を浮かべると、恋愛小説を懐に仕舞い直した。
「ふっ……俺もまだまだ勉強不足だった、ということか」
勉強不足というか、教材の選択の時点で間違っている気がしてならないのだけれど、そこを指摘できる雰囲気ではなかったので触れずにおいた。
「ちなみに、なぜ見るからにメイドの私を花嫁と間違えたのですか?」
「王子の方が初夜に妻をメイド服で待機させる趣味なのかなって」
「とんだ風評被害」
「お前が訂正してくれなかったら、危うく花嫁前提で口説き文句に入るところだった。ああ、ミルクを入れ過ぎた紅茶を彷彿とさせる亜麻色の髪に、邪竜の吐く魔炎の色そっくりな緑の瞳をした、メイドよりメイド服が似合う美しき花嫁よ……と言おうとしていたんだが」
「口説き文句のセンス」
「メイド服を着た花嫁ではなく、メイド服を着たメイドだったか。花嫁だと早とちりして求婚して悪かった」
「いえ、そこはもうお構いなく……」
強盗かと思ってビビったらまさかの魔族でさらに驚いたのだけれど、なんだか突っ込みどころ満載の彼の言動に段々と恐怖心が落ち着いてきた。
何よりも、彼からは一切の敵意を感じないのだ。
だから、本来ならば「魔族」とは、遭遇すれば逃げるべきとされる相手なのだけれど、もともと魔族に対する嫌悪感は持っていないことも相まって、逃げようという気持ちは全く働かなかった。
「しかし、人間の生態は思ったよりも複雑なんだな。結婚式当日に花嫁を攫って惚れてもらう、という周到な計画が崩れてしまった」
「周到な割に寝坊したんですね」
「はっ。舐めてもらっては困る。もちろん第二案も用意してきた」
彼が不敵な笑みで懐から取り出したのは、これも恋愛小説だった。
タイトル、『伯爵様との仮初の結婚から始まる本物の溺愛生活』。きっとハッピーエンドである。
「人間の世界では偽装結婚が喜ばれるらしいということも学習済みだ」
「偏った知識が留まるところを知らない」
頼むから恋愛小説のみで人間の生態を学ばないでいただきたい。
「じゃ、さくっと花嫁に偽装結婚を持ちかけてくる。居場所を教えてくれ」
「ちょちょちょちょっと待ってください」
すたすたと普通に寝室を出ていこうとする魔族の青年を、慌てて引き留めた。魔族が王城に侵入したと分かったら大騒動になる。せっかくのお祝いムードが台無しだし、この魔族の青年もタダでは済まないだろう。
彼は教材を間違ってしまっただけで(読解力にも問題はあるけれど)、きっと悪気は無いのだから、問答無用で殺されてしまっては可哀想である。
「なぜ止める?」
「いやあの、花嫁の誘拐を思い留まってくれたのはありがたいのですが、花嫁に偽装結婚を持ちかけるのもやめてくれませんかね?」
寝室から出さないよう、両手を広げて通せんぼをしつつ言い募ると、魔族の青年はあっさりと立ち止まってくれ、「お前の懸念は分かっているさ」と、宥めるように言った。
「また嫌われると言いたいんだろ? 甘いな。よく聞けよ、第二案のいいところは『最初は愛がなかったけれど徐々に芽生えていく』ところだ。好感度皆無のところから最終的に溺愛生活に持ち込むから安心しろ」
「いや違います。そこじゃないです。好感度云々の前に、そもそも偽造結婚は未婚女性に持ちかけるものです」
「そうなのか?」
予想通りに放たれる、本日三度目のキョトン顔。
「そうです。その本ちょっと貸してください」
魔族の青年の手から小説を奪い取り、パラパラとページをめくり、「ほら。偽装結婚を持ちかけられた主人公は、未婚の令嬢でしょう。間違っても新妻ではありません」と見せつける。魔族の青年は「確かに」と素直に頷いた。
「第一案が頓挫したのに思考を切り替えられず、無意識に『花嫁を狙う』という前提を第二案にまで持ちこしてしまった、ということか……。確かに冷静に考えれば、偽装結婚で二重結婚で誘拐前提の略奪愛なんて、要素が多過ぎて追いつけない」
「ご理解いただけて何よりです」
素直な性質らしい彼は、粛々と恋愛小説を懐に仕舞った。危ない所だった。今日から王子との結婚生活が始まる花嫁に、偽装結婚を持ちかけられずに済んだようだ。
説得が成功して安堵していたら、魔族の青年がとても気さくな感じで、私の肩にポンと手を置いた。
「つまりお前は、相手が他人の花嫁だから駄目だと言いたいんだよな?」
「そうです」
「なら、お前と偽装結婚をすれば問題ないわけだな?」
ん?
「というわけで俺と偽装結婚をしよう」
ん?
「わ、私?」




